フロル・ネージュの街の歌

崎浦和希

序幕

 そうして、おとぎ話は終わる。


「人魚姫は、あなたではない」

 ユキの耳の奥で、硝子の砕けるような儚く透明な音がした。魔法が解けて、おとぎ話が壊れた瞬間だった。

 オーディションの審査をした先生方の誰もが、真剣な目でユキを見ている。口を開いたり閉じたりしているのは、講評を伝えてくれているらしかった。でも、ユキの耳にはおとぎ話の断末魔がこだまするばかりで、何も聞こえない。何も考えられない。

 人魚姫に誰よりふさわしいのはわたしであるはず。確信がユキのたったひとつの頼りだった。

 だってわたしは人魚の娘なのだから。

 それなのに、いまやユキが自分だと信じていた姿は粉々になって足もとに散らばり、もう何も映してはいない。

 わたしは誰なの。どうしてここにいるの。

 わたしは……。

 十五歳を迎えたばかりの、世界が凍りそうだった冬の日のはなし。


序幕


 街に、歌がきこえる。


 競うようにそびえるビルの足もとを、歌がくすぐってゆく。都会の道を埋める人びとは顔を上げもしないで、ただ川を流れる水のごとく絶えず動いていた。歌声は流れに逆らうことはせず、水面に優しく触れてさざ波立てる風のように、彼らの耳を撫でている。人はいつかふとしたときに、歌を思い出すかもしれない。



 乾いた音を立てて、黄色く色づいた大きな葉がいくつも、街路樹から降り注いだ。枝を離れた葉はゆるやかに舞い、ゆっくりと道へ重なってゆく。そのうちの一葉がユキの頭を軽く叩き、白銀の髪を滑り、肩で跳ねて、ユキのかたちをなぞるように体を沿い、膝丈のスカートの裾からぽとりと落ちた。ユキはかすかにまぶたを伏せて足もとに落ちた葉を見やり、またすぐに視線を上げる。

 歌が流れていた。

 ビルの側面に取り付けられた大きなディスプレイには繰り返しアパレルブランドの宣伝が映し出されて、時折、人の目を引いた。口紅。香水。宝飾品。連想されるのは女性であることが多いそれらを画面の向こうから魅惑的に誇張するのは、白皙の美しい青年だった。身じろぎのたび、夜を溶かしたような黒髪が頬にこぼれかかり陰を生む。冴えた藍の瞳は伏し目がちなしぐさのなかでひかえめにきらめき、紅をさした薄いくちびるがもの言いたげにほころぶ。けれどため息すらこちらに聞こえることはない。青年の吐息の代わりに付設されたスピーカーから流れているのは、清く透き通った歌声だ。

 ネージュの歌だ、と誰かが言った。ディスプレイを指して、あれはフロルね、と他の声が言う。

「どっちも綺麗すぎて、現実感がない」

「わかる。人形か、作りものみたい」

 ユキは声のしたほうを振り返らなかった。ディスプレイだけを見上げて、フロルの視線の先を追う。

 彼はダイヤモンドらしき、わずかな光できらきらと眩い輝きを放つ宝石を指さきにつまんで、そっと品のよいくちびるを寄せた。伏せた目は宝石に見とれているのだろう。青年の声の代わりのネージュの歌も、やさしく切ない音色で愛を乞う。

「でも本当に綺麗なのよね。フロルも、ネージュの歌も」

「この街の名前を持つふたりがあんなに綺麗なの、嬉しいよね」

 感嘆する若い女性の声に同意するように、横断歩道の信号待ちをしていたうちの何人かがビルのディスプレイを振りあおいだ。

 フロルとネージュ。この街を生み出した女神の名を与えられたふたりは、かたやその姿だけ、かたやその歌声だけの存在でありながら、街の人びとから最上級の讃辞を受ける。多くの人間が彼らを愛した。この街にふさわしい、美しいものと信じてやまない。

 信号が青に変わる。人が流れてゆく。

 ユキは彼らにまぎれて早足に道を渡り、ディスプレイから遠ざかった。美しい青年の横顔は遠目にも美しいままで、ネージュの歌声は耳に残って追ってくる。地下鉄の駅に繋がる階段を駆け下りても、煉瓦造りの地下街で、またネージュの歌が流れていた。壁にはフロルのポスターが並んでいる。

 人は美しいものを愛す。だが美しいとは何であるのか、問うても女神は答えない。

 ユキは吸い込まれそうなまなざしをした青年から目を逸らし、背筋を伸ばして顎を引き、まっすぐ駅を目指した。休日でもないのにこの街にはどこにもかしこにも人がいて、それぞれ笑いあったり、携帯端末を耳にあてて早口でお喋りしたり、眉間にしわを寄せたりしながらめいめいの方向へ歩いている。彼らの背景は、あたたかい煉瓦色の壁と、色ガラスのランプ、地下街に入居するブティックやパティスリーなどからこぼれる華やかな光と装飾がいろどる。人びとの顔かたち、髪の色、服装、もちもの、靴、身体つき、歩き方、どれもまちまちであるのに、ここにいるのは彼や彼女ではなく、彼ら、でしかない。笑いあう人も、携帯端末を耳にあてて早口に喋る人も、眉間にしわを寄せた人も、昨日もここを歩いたろうし、一時間後も歩くだろうし、明日も歩くに違いなく、ここでなくとも、この街のどこにでもいる。彼らのうちのひとりが消えても、この街の姿が変わることはないだろう。

 フロルとネージュも、彼らとどこが違うというのか。たったひとつ、なにものにも代え難いものなどが、この街にあるのだろうか。




 この街の名はフロル・ネージュ。女神が愛した街、春には花が咲きこぼれ、冬は雪が舞いおどる、世界でいっとう美しい街。

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