第十幕 おとなになっても

 おとぎ話も、魔法も、本当にあるの。

 どうか信じて、わたしはそれを本物にしてみせる。


 土曜日、朝。セントラル駅前広場にある白い女神像の足もとを待ち合わせ場所にしていたユキは、厚い雲が垂れ込めて日の光が届きにくい薄暗い朝の街で、アレクシスをすぐに見つけられた。朝早くてもそれなりに人が行き交う中、彼は飛び抜けて背が高いわけではないものの、切り取れば写真作品になりそうな立ち姿を見れば一目でわかる。さらに顔の半分をマスクで覆っていて、艶やかな髪をニット帽に収めていても、くすんだ藍の瞳を見れば間違いはしない。

「おはよう、アレクシス。待たせてしまったわね」

「ううん、僕も来たばかりだよ。ね、今さらだけど、公園前の駅で待ち合わせにしておけばよかったね。僕の家はあの近くだし、きみもそうだろう?」

 アレクシスは駅の改札方面から近づいたユキを見下ろし、駅を振り返って苦笑した。ふたりともわざわざセントラル駅まで出てきているが、そのために家の近くの路線から一度乗り換えを経ている。そしてアレクシスの家が公園の近くだと言うなら、ユキが普段使っている路線沿いであるはずで、それならわざわざ人の多いセントラル駅前で待ち合わせをせずとも、乗り換え前に合流できたことになる。

「そういえばそうね? フロル・ネージュの街で待ち合わせっていったらここだと思い込んでいたから、すっかり忘れていたわ。って、アレクシスの家、あの近くなの? わたしの家はあそこから三十分くらい走ったところ」

「どっち方面に?」

「駅の方向で言うならフォイユ駅方面」

「あれ、じゃあ僕ときみの家って公園より近いと思う」

 意外なご近所さんにふたりは目を見交わしてくすくす笑った。アレクシスにうながされてふたたびセントラル駅に戻る途中、アレクシスの手がユキの手を取った。人が多くてはぐれるといけないから、と言われ、ユキもアレクシスの見た目より硬い肌に控えめに指を沿わせる。

 広い駅前広場の石畳は夜に降った雪が溶けてしんなり湿り、広場のあちこちにすっかり葉を落とした木々がむきだしの枝に火の入っていない色ガラスのランプをかけられて飾りたてられていた。夜になってライトアップされたら、幻想的な光が見られるのだろう。毎年、恋人たちのデートスポットとしても有名な場所だ。

 想像はたやすく、妙に気恥ずかしくなって、ユキは繋いだ手から目をそらしてICカードのチャージ金額残高などを考えた。というのに、駅の改札前でアレクシスから大きめの切符を手渡される。

「指定席、会員登録外のIC対応してないからね」

 ユキは右手に準備したカードを肩から斜めに掛けた鞄の外ポケットにおとなしく仕舞い、アレクシスから切符を受け取った。切符を使うのはいつぶりだろう。指定席券と区間乗車券だという二枚を重ねてこわごわ改札の投入口に突っ込み、飲み込まれる勢いにやや驚いたユキを可笑しげに見守りつつ、アレクシスはさっさと隣の改札を通過しておっかなびっくり穴の空いた切符を引っこ抜くユキを待っていた。ユキはなんだか自分がとっても子どもっぽい行動をしているみたいで、またアレクシスに手を繋がれながら、ちょっとした反抗心を起こしてまだ笑っているアレクシスを睨み上げる。

「はぐれるほど子どもじゃないわよ」

「ふふ、べつに子どもだって思っているわけじゃないよ。きみが成長してゆくようす、僕は暇にあかして一日に何度も眺めているしね」

「それ、楽しいの?」

「もちろん」

 列車の時間まで少し間があったので、ユキとアレクシスはホームの売店で飲み物や軽食を買った。ユキは、本当はニコおばさんに何かおいしいお菓子を作ってもらいたかったのだが、どうしても誰かとふたりで遠出をするとは言えず、一日出かけてくる、といつも通り家を出てきたのだった。見送りのとき、不安そうだったニコおばさんを思い出して、ユキは鞄に入れたものを意識する。外側から鞄をそっと撫で、わずかに触れた固いものを指の腹で押して、意識から追い出すように手を離した。その瞬間会計を終えたアレクシスが振り向いたので、ユキはなんとなく手を背中に回す。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。帰ってくるころには雪が降っているかしら。折りたたみ傘はあるけれど」

「帰りは家まで送るよ」

 線路を吹き抜ける風が冷たく、雪の気配を含んだ空気はことさら身に凍みるようだった。乗車位置まで長いホームを移動していたら、暖房のある待合室へ入る間もなくつやつやしたワインレッド色の列車が滑り込んできた。ユキは手に持ったままの切符を見て不慣れながら号車と座席を確認したものの、結局アレクシスに先導されて彼が予約した個室に入る。長距離列車は指定席を取るとコンパートメントになっているらしい。このまま山脈を迂回して、山の向こうの街までこの列車で運ばれてゆく予定である。

 四人用の個室で二人掛けの座席が向かい合っていて、ユキとアレクシスは簡易テーブルを出してホームで買ったものを置き、それぞれ窓側の席に向き合って腰掛けた。外と違って暖かな個室にほっとため息がこぼれる。アレクシスがマスクと帽子を外して、いつも身軽な彼には珍しく持っていた鞄とともに空いた席に放り、コートも脱いで、さっそくくつろいだようすでふかふかの座席に背を預けていた。

 出会ったのが秋の終わり、あるいは冬の始まりの頃であったから、コートを脱いだアレクシスの姿は初めて見る。写真集で見たのと似た仕立ての細身の白いシャツの上に首もとが大きく丸襟に開いたグレーのセーターを合わせ、パンツは皺のない黒のスラックス。雰囲気に馴染んで気取らない格好でも細身の骨格が綺麗に浮き出て、冬向きで生地が厚めの服ながらしなやかな身体つきが見た目にわかる。足が長くて座席とテーブルとのあいだで少々持て余しているようなのもさまになっていた。

 つくづく、身じろぐごとの一瞬一瞬がもったいないと思わせてくれるすがただ。あまりじろじろ見ているわけにもいかず、ユキは視線を引きはがして自分もコートを脱いだ。

「だいぶ時間がかかるし、着くまで寝ていてもいいよ」

「せっかく一緒にいるのにもったいないじゃない、ねえ、寝ていてもいいって言うくらいなら、オーディションの練習に付き合って」

「歌うの? ここで?」

 アレクシスは個室とはいえ狭い室内で扉のほうへ顔を向けた。この個室がどのくらいの防音性を持っているのか、列車に詳しくないユキにはわからないが、楽器演奏を想定しているのでもない限り、ユキが本気で歌ったら、どう考えても音が漏れる。

「本気では歌わないわよ。そうじゃなくて、台詞の言い方とか、音程とか、小さい声でいいから確認したいの」

「僕は何をしたらいいの?」

「台本を渡すから、それを見ながら、人魚姫以外の台詞を言ってほしいの。歌になるところは、最初にかっこの中に歌の題名が入っているからわかりやすいと思う。その次から歌詞が書かれているわ。歌わなくていいから、喋って。歌の終わりは行間が広く取られて、またかっこに題名が入っていたら歌が連続するし、そうでなければ台詞ね」

 説明しながら、ユキは早々に鞄から台本を引っ張り出していた。台詞や演出等、いくらか変更はあるが、おおむね去年のオーディションの時と同じものだ。この一週間でヘレナ先生と特に変更点は入念に確認し、同時に、ユキは人魚姫の人物像を丸ごと見直してレッスンに臨んできた。

 これまでのように、役になりきることで役の目で見ていたつもりの世界をあらため、ユキ自身の目で人魚姫のことも、まわりの人たちのことも、世界のことも見て、その上で人魚姫の目を想像した。もともとこだわりをもってずっと研究していた役だから、視点を変えたからといってそうそう大きく人物への理解が変わることはないけれど、ユキの心持ちはずいぶん変わった。

 ユキの感情までむき出しの、書き込みだらけの台本であるので、少々気恥ずかしい気持ちになりつつ興味深そうなアレクシスに手渡す。

「へえ」

 アレクシスは台本を大事そうに扱いながらもページを次々めくってゆき、ほとんど最後の場面になるところでやっと手を止めた。すっと真剣な目をして、人魚姫がナイフを捨て、海に飛び込んで泡になる結末を読んでいる。短いシーンだから彼が黙していたのはわずかな間で、台本から顔を上げてユキに藍の目を向けた。

「ねえ、これって例年の公演だよね。良い結末ではないのに、どうして人気なの?」

「えっ? ええと、そうね……言われてみれば人魚姫は王子様とは結ばれないし、話の中でもだいたい悲しんでばかりだし、最後は泡になって……でもその後に消えるのではなく、魂を得るのよ。誰かを心から愛する心が、永遠になるの」

「人間の魂は消えることなく、天高くいつまでも輝き続ける……」

 アレクシスが台本の中の一節を口ずさんだ。ユキには歌い慣れたフレーズだったので、そこに込められた人の思いを心にうかべてうなずいた。

「人のいのちは、もしかしなくても儚いものだわ。どんなに大切に思っていてもあっけなく失われてしまうこともある。人魚姫の物語が作られたのは今から数百年も前だから、そのころは今よりなおさら、死は身近にあったかもしれない」

 アレクシスがもの言いたげに唇を薄く開き、けれど言葉が出ないというように悲しげに瞳を曇らせる。ユキはそんな彼をじっと見つめていた。アレクシスはきっと今、人のいのちの普遍のはかなさを思って悲しげなわけではない。彼の心にいる誰かのことを思っているのだろう。おぼろな輪郭を掴みかけながらも、ユキはあえて、今はそれを手放した。あくまで物語の解釈として、アレクシスに語る。

「人を愛する、誰かを大切に思う心は、たとえ死んでしまっても残る。残された人の中でいつまでも輝いている。それは人の祈りなんだわ。死にゆく人にとっても、残される人にとっても、そう思うことで悲しみを乗り越えようとした」

「人魚姫が魂だけになって王子様を見守っている結末を用意したのもそれで?」

「そうね。人魚姫は自分が心から愛した人に愛を返されなかったけれど、それでもその人の幸せを祝福し、見守っているわ。それが人魚姫の新しい幸せでもある。だって王子様は人魚姫が心から愛した人、自分の命を捨ててでも生かしたかった大切な人だもの。その人にはしあわせでいてほしいじゃない」

「恨まないのかな」

「恨むくらいなら刺してるわよ」

「そうしたら人魚姫は、たぐいまれな歌声と、人間にはない長い寿命を取り戻せたのに」

「それよりもただ王子様を愛していたのよ。王子様が幸せでいてくれることのほうが、自分の歌声や寿命よりも大事だったの」

「それは」

 アレクシスがためらいがちに、あまり人魚姫の気持ちを認めたくなさそうに顔を歪めて台本に目を落とした。ユキもつられてアレクシスの手もとを見、すぐに彼の表情に目を戻す。

「王子様が王子で、いずれは国を背負う重責を担う人だったから意味があることだったかもしれないけれど、ただの人だったら、人魚姫の歌声や寿命のほうが価値があるんじゃないかな」

「誰にとって?」

「……世界?」

「…………」

 ユキはそこは考えたことがなかったので、少し黙考した。人魚姫の物語は人魚姫の愛と王子様の幸福で完結していて、世界にとっての価値などが入り込む余地はない。王子様が設定上王子なのも、王子という地位の価値を見たというより、人魚姫とどうしても結ばれない結末が必要だからだろう。物語に王子であることの価値そのものが描かれていないのは、それがたぶん、どうでもいいことだから。大事なのは王子であろうとなかろうと、人魚姫がその人のために命を投げ出す選択をしたことだ。人魚姫が王子を刺さなかったのは、彼が国の跡継ぎだったからじゃない。

「ええと……人が誰かを大切に思うのってすごく感情的なことでしょ。それをね、世界にとっての価値がどうこうなんて、当事者にとっては考える余地、ないんじゃないかしら。もし人魚姫と王子様が逆で、たった一人のために国を放り出す王子っていうのは、さすがにどうかと思うけれど。でもそうじゃない、ただひとりの人間として、っていうなら、たとえ世界中が大声で価値を叫んだって雑音でしかないんだと思うわ」

「愛しているから?」

「そうね」

 微笑んでいたが、アレクシスの口調は皮肉気だった。ユキは鞄の中身のことを思いつつ、短く頷くに留める。その話をするなら、もう少しだけ猶予がほしい。

 それからしばらく、ユキとアレクシスは『人魚姫』のオーディションの練習に熱中した。アレクシスは特に王子様に引っかかりを感じるのか、その台詞を言うときは露骨に嫌そうで、ユキは時々笑いをこらえられなくなってしまったりして、練習しているのだか遊んでいるのだかわからないところもあったけれど、随所で挟んでくるアレクシスの質問を受けているだけでも作品研究にずいぶん役に立った。それに、ユキが役に入り込むだけでなく、ユキとしての思考も保ってアレクシスのようすを見ているために、ふつう、この物語の人物にはうかんでこないような、彼個人の感情の機微までよくわかる。慣れた役者を相手にすると脚本から想定しやすい役の感情のみで進んでしまう箇所でも、アレクシスだと簡単に役を離れて新鮮な反応をするから、それを受けて自分の演技も変化させてみたりと、ユキにとってはなかなか刺激的だ。

「この王子様ってさ、自分を本当に助けてくれたのが違う人だって気づきもせず、浜辺で自分を見つけてくれた娘さんしか愛せないって断言するんだよ。矛盾してない?」

「人は完璧ではないっていうことなのよ、きっと」

「にしても王子様は都合がよすぎるよ」

「アレクシス、その拗ねた顔、人魚姫がかわいそうっていうより、まるで人魚姫を王子様に横取りされたみたいだわ」

 ユキはアレクシスがあからさまにふてくされているのがあまりに可笑しくて、涙が出るほど笑った。そうするとアレクシスがいかにももの言いたげにユキを見て、ますます拗ねた顔をするのがなお可笑しい。でもそうやってユキが笑っているほうが、まじめに諭すよりやがてアレクシスの機嫌は向上するのだった。

「アレクシスは人魚姫より、美女と野獣のほうが好きそうね。あっちは歌詞にあるの、『真実の愛はたったひとつ』って。野獣が本物の愛を知って美女と結ばれ、人間に戻る話だわ」

「そっちのほうが誠実じゃない? あっ、ユキ、もしかしてきみもいつかそっちの舞台も出るの?」

 アレクシスは舞台を見たいと言うにしては微妙そうな顔で手もとの人魚姫の台本とユキとを見比べた。彼がどんな答えを求めているかわからなかったので、ユキは素直に答える。

「どうかしら。とりあえず人魚姫にはこだわってたけど、他のことは考えていなかったわ。でもオーディション時期が人魚姫より都合がよければそっちを受けていたかも。別に人魚姫じゃなくてももういいのよ、どんな舞台でもいい、どんな舞台でもこなしてみたい。この世界で生きていきたいのだから」

「ユキはえらいなあ。僕がきみの歳のころって、もっとのんきだったよ」

「アレクシスっていくつなの?」

「二十一。今度の二月で二十二」

「嘘でしょ」

「なんだろう、そんなに驚くところ?」

「そんなに年上だと思わなかったんだもの。だって二十歳をいくつも越えたいいおとなが、池の柵を越えようとする?」

「いやまあそれはそうなんだけど……でも二十一とか二とか、そのへんってきみが思ってるほどおとなじゃないよ。どちらかというと、きみが、おとなになろうとするのが早すぎるんだよ。だってまだ十六の女の子なのに」

 十六の女の子、と言われて、ユキはいまいちピンと来ずに首をかしげた。アレクシスの二十二歳は、そういえばあの写真集が三年前のものであることを思い出せば、行動はともかく顔立ちや身体つきからして妥当と思える。彼が気安く接してくれていたから歳の差を意識しなかったのかもしれない。だが、自分の歳と「おとなになろうとするのが早すぎる」という言葉がいまいちうまく結びつかないでいる。

「僕は、きみは自分で童顔って言っていたし、もう少し年上なのかと思っていたよ。なんだかずいぶん焦っているように見えたし、それでも必死に前へ進もうとしていた。そうやって焦るくらいの歳なんだろうなあって思ったんだけど」

「誰だって、うまくいかないことがあったら焦るでしょ」

「そうかな。きみの歳ならまだ……ああでも、そうやってひとつのことしか見えていない感じは、確かに歳相応だね」

「ちょっと、それどういうこと」

「もうちょっと子どもっぽくてもいいんだよ」

「……急におとなぶって。それじゃおじさんっぽいわよ」

「いや待って、僕、絶対にまだそこまでの歳じゃない」

「知らないわ。おとなの歳の区切りなんて」

 ユキはふいっと顔を背けて窓の外を見た。さっきからずっと山沿いを走っているのであまり代わり映えしない景色が続いている。でも山間部だからか、フロル・ネージュの街より一足早く、すでに木々にはうっすら雪が積もっていた。見慣れない風景のせいで、ずいぶん遠くに来たような気がしてしまう。実際はただ列車ひとつで行き来できるだけの場所にすぎない。

「……わたし、早くおとなになりたかったの。たぶん」

「たぶんって?」

「おとなになっても舞台に立っていられたら、自分に本当の才能がある証明になると思ったの。それに、おとなだったら誰も頼らずに生きていけるし」

「おとなのほうが、本当は頼りにできる人が必要だよ。自分にそういう人がいないって気づいたとき、とてつもなくむなしくなる」

「そうかしら」

「人はひとりでは生きてゆけないのだということを、おとなのほうがよく知っているから」

 アレクシスのほうに顔を戻すと、彼は穏やかに、でも諦めたような笑みを唇でうっすらかたちづくっていた。ユキは少し考えて言う。

「ひとりで生きているのではない(ヽヽヽヽ)ことを、知るのよ、たぶん、おとなになったほうが」

 アレクシスは目を丸くして、唇を半開きにした。何かを言おうとして、言わず、代わりのように安らかそうなほほえみをうかべる。

「たしかに、そんなふうに言ったほうがいいね」

 お喋りと練習とを交互にやりながら、時間はあっという間に過ぎ、列車が乗り換えの駅に到着した。ここから一時間もかからず目的の街に着く。ワインレッドの車両を下りて、ホームを移動し、今度は銀色の現代ふうの車両に乗った。中核都市らしく、フロル・ネージュほどではないがそれなりに人も多い。列車の窓から見えた街のようすは、フロル・ネージュよりもむしろごちゃごちゃした印象だった。

「フロル・ネージュは百年くらい前に大規模な都市整備をして街のかたちを整えたからね。女神にふさわしい美しい街に、って。でもこの街は発展してきたそのままの姿を残しているから、古い建物と建て替えた新しい建物が入り交じって、見た目には整頓されていないように見えるんだろうな。歩くと面白いよ」

「よく知ってるのね、アレクシス、前にも来たことあるの?」

「僕はけっこういろいろなところに連れていかれたよ」

 曇り空の下の雑然とした街を、アレクシスは懐かしそうに眺めていた。列車が動き出すと、たまに目立つ建物を指してあれは三百年前からある役所、あっちはつい数年前に完成した電波塔、と教えてくれる。その街も、数分もしないうちに駆け抜け、列車は海を目指す。海沿いを走るわけではないから海が見えるわけではないとアレクシスに教えられても、ユキはそわそわと落ち着かずに窓を見ていた。肩掛けの鞄の紐をぎゅっと胸の前で握り、どきどきしてくる心臓を宥める。

「大丈夫? 疲れた?」

「ううん、違うの。なんだか緊張してきた」

「海、きれいに見えるといいね。空が曇っているから、海の色はあまり映えないかもしれないけれど」

「その前に凍っていないかしら」

「えっ?」

 声をあげたアレクシスに、ユキはきょとんと首を傾げてみせる。何かおかしなことを言ったかしら? ユキが尋ねると、彼は数度目を瞬かせたあと、意味ありげに笑って口をつぐんだ。


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