第八幕 灯し火
おはなしはもうおしまい。最後に、お嬢さんにプレゼントをあげましょうね。この貝殻は、あなたのお父さんとお母さんが、あなたに贈ってきたのよ。そばにいられない代わりにね。私? 私はあなたのフェアリー・ゴッド・マザー。庭のりんごの木の精ですよ。あなたのことを、あなたのお母さんのお腹にいる時から、ずっと見守っていました。特別な人魚の子。私たちの大切なユキ。
土日を完全に休んでいた分、ユキは特に丹念にレッスンにのぞんだ。だが焦る気持ちはない。気持ちだけ空回りしても何も手に入らないと学んだ。ひとつひとつ基本を確認して、細かくても納得できないところは調整し、理想に近づけてゆく。
踊るのが、歌うのが、演技をするのが好きだ。その先に、叶えたい夢がある。気持ちを大切に抱えて、今まで自分が積み重ねてきたものを認めて、さらに上へゆくために試行錯誤し、考える。
ヘレナ先生のレッスンはやっぱり少し気まずかったけれど、先生は先週のことに触れることなく、何度も何度も同じところを繰り返すユキに根気よく付き合ってくれた。
課題曲は相変わらずエヴァンジェリンの物語をやっている。
エヴァンジェリンがどんなことを考えているのか、何を感じているのか。決してエヴァンジェリン本人にはなれないユキだから、考えることで懸命に彼女を捕まえようとした。彼女を理解するためにユキにできることは、ユキと彼女とは違う人間なのだとちゃんと知って、その上で理解しようと精一杯努めることだ。ユキが何度も口にする「もう一度お願いします」の意味が先週とは違うとヘレナ先生も感じているのか、鍵盤に指を滑らせる彼女は機嫌がよさそうだった。
エヴァンジェリン、あなたはお兄さまが本当に好きなのね。たとえ偽物とわかっていても、お兄さまが本当にあなたを愛してくれているのを知っている。
兄を想うときのやさしい気持ち。兄が自分みたいな子どもよりちゃんとした大人の女性と話しているのを見たときの焦りと嫉妬。大人になりたい焦燥、そして、兄が自分を見る目に愛情を見つけたときの幸福。
想像して。
ふいに、いつか聞いたアレクシスの声がよみがえった。歌ではエヴァンジェリンになって演技に集中しながら、思考に残るユキとしての部分が反応して、そうね、と応える。
想像するしかない。しょせんは他人の気持ちなど、想像でしかない。実際の人間関係がそうであるように、演技であっても、他人の気持ちを自分がそのまま感じられるなどと思うのは、ただの思い上がりだ。だからこそ誠実に、エヴァンジェリンの気持ちを想像する。想像したものをまっすぐ表現する。表現する技術は、長年精一杯努力して培ってきただけに、ちゃんとユキの中にある。
大丈夫。わたしは、ちゃんとやれる。
「ユキ、自分を信じて」
ユキが感じたほんの少しの不安を、すかさずヘレナ先生は察したようだった。伴奏の手を止めず短く指示する。それだけでユキの気持ちの揺らぎが止まった。息継ぎで短く息を吸って、感情をためらわずすべて歌に流し込む。
舞台の上で、時々、身震いするような興奮を味わうことがあった。今まで舞台に立っている時のユキはただ夢中で、その意味を考えたことがなかったけれど、今、懐かしさすら覚える興奮を確かに感じている。
自分で自分に感動できるほどの演技が、腹の底からわきあがるような情動を呼び覚ます。ともすればユキを巻き込んで吹き飛ばそうとする勢いのそれを、ユキは演じている自分と制御する自分の間で不思議なほど冷静に受け止めて、必要なぶんだけ演技に持っていく一方、同時に心地よく高揚していた。
感情と技術を感性と理性で掌握して音楽に表現してゆく。けれど決して醒めているわけでもない。音と言葉が感情を包んで、ごく自然に唇から流れ出てゆくようだった。
ユキは自分がとても自由であるかのように感じた。何者にもなれる。何者でも在れる。同時に他の何者でもないユキ自身が真ん中に立って彼らを見ている。
どこにも無理のない演技は、一曲が終わってもユキの身体にさしたる疲労を感じさせなかった。いつまでも歌っていられそうな気がして、だが精神のほうは、集中が切れたとたんいつも以上の疲れに見舞われた。統制していたつもりの感情の昂りが、演技を終えた瞬間ユキを飲み込んだのだ。
そうなる気がしていたから、慌てず目を瞑って呼吸を落ち着け、荒れ狂う気持ちを宥めてやる。これは舞台から下りた時にいつもやっていたことだった。こうすることでユキはユキだけに戻る。ユキが自分を落ち着かせたタイミングで、興味深そうにユキを観察していたヘレナ先生が待ちきれなくなったように口を開いた。
「ねえユキ、とってもいいわ。何か変わったことがあったみたいね。週末、いいことがあった?」
「変わったことは、色々あるんですけど……、一言では言えないです。あ、でも一番は、少し前に新しい友だちができて、土日の間その人に会えなくて寂しかったのが、今朝は会えて、わたしのことを励ましてくれて、それがとっても嬉しかったです」
アレクシスのことを思うとそれだけでなんだか元気になる。明日、会ったら先生に褒められたって伝えよう。ああでもそういえば、連絡先を交換したんだった。レッスンが終わったらメッセージを送ってもいいかしら。そういうお喋り、アレクシスは嫌がるかな。だけど早く伝えたいな。
自然にほころぶユキの表情をまじまじと見て、ヘレナ先生は瞳をキラリと輝かせた。
「あら? ユキ、その相手の人はもしかして男性?」
アレクシスに送るメッセージの内容を考えていたユキは、はっと我に返って訊かれるまま頷く。
「はい」
「恋をしたの?」
「えっ?」
「その人はユキの恋人なの?」
「違いますよ」
否定したのに、ヘレナ先生の目は興味津々かつ見守る気を隠そうともせずユキに向けられていた。ユキはたじろいだ。
「恋は人を変えると言うものね。恋をするのは、演技をする上でも良いことだわ」
「恋をしたからじゃなくて、わたしのその友人がとってもいい人で、いつもわたしを勇気づけてくれるんです。それで」
アレクシスはいい人だ。外見ももちろんこの上なく魅力的であるが、その言葉が、心のありようが、ユキにとって好もしかった。けれどアレクシスはもとからそういうひとなのであって、恋をしたからアレクシスをいい人だと思っている、と思われたくなかった。ユキが恋しようがしまいが、彼がすてきな人であることは変わらない。
ヘレナ先生にわかってほしくて言い募るユキに、先生は首を縦に振るばかりだった。伝わっているのかどうか。なおも言葉を探して唇をもごもごさせるユキに対して、ヘレナ先生は椅子の上で上体を倒して、ユキを覗きこむように下から見上げた。ユキが小さいころ、大事なお話しをするために屈んでくれた先生の目線だった。
「ねえ、ユキ。ユキが恋じゃないと思うなら、それでもいいのかもしれない。でも、恋でもいいじゃない。誰かを好きになれるのはすてきなことよ。それに、演技をするのに、体験したことしかできない役者なんてつまらないけれど、経験を増やすこと自体は良いことだわ。恋も、涙も、怒りも、感動も、すべてが藝の、土であり、水であり、太陽なの。そしてあなたという種を育て、人生を豊かにする。ユキはずうっと演劇や歌や踊りを頑張ってきたわね。でも、藝の道に生きるのだとしたって、同時にユキ自身の人生があることを、忘れてはいけないのよ。ユキがしっかりユキ自身を生きて、その上にあなたの歌や踊りや演技があるの」
「わたし自身?」
「そう。ユキ、本当のあなたはどんな人? 何が好き? どんなことがしたい? どこへ行きたい? お休みの日は何をする? どんな男性がタイプ? 自分に似合うのはどんな色だと思う? 十年後、どんな大人になりたい?」
矢継ぎ早の質問にユキは目を白黒させた。それって、みんなすぐに答えられるような問いなのだろうか。ユキが戸惑うのをわかっていたかのように、ヘレナ先生が口調を和らげて続ける。
「すぐに答えられなくてもいいの。でもユキ、最近、あなたも考えてみたんじゃないかしら、あなた自身のこと」
「少し。私はずっと人魚姫になりたかったけれど、本当はそれだけじゃなくて、歌ったり踊ったり、舞台に立っているのが、やっぱり好きだなって、思いました」
「自分のこと、どう思う?」
ユキは困って首を傾げた。ニコおばさんに聞かされてきた物語の、人魚の子なんかでないことにはいつからか気づいていたのに、気づかないふりをしようとしていた。じょうずに歌が歌えるのも、踊りができるのも、人魚の力と、陸の魂とを持って生まれてきたからだと思っていた。それ以外に、自分に信じられるものなんてなかったから。
人魚の子。それだけがユキをかたちづくるものだった。おとぎ話を失った今、ユキはまだ自分のかたちを見つけられていない。
「ゆっくりでいいわ、考えてみて。あなたがこれから演じるどんな人物も、根っこはユキなの。だから、ユキが自分のことをちゃんとわかってあげようとしないと、なかなかうまくいかないと思うわ」
「わたしの、どんなことを、その」
「簡単なことから始めたらいいのよ。さっき、歌や踊りが好きだって言ったでしょう。それと同じように、何かを見て、ユキ自身がどんなことを感じたかとか、何を思ったかとか、そういうことに目を向けてみるの。こういうものが好きだな、嫌いだな、もし自分だったらこうするな、とかね」
「あっ、それは、最近考えたりします」
「そういうことよ。何でも歌や演技のことに繋げるばかりじゃなくて、ユキ自身がどう感じているか、しっかり感じ取って」
ヘレナ先生はにっこり笑った。
「ユキが新しいお友だちについて嬉しそうにお話ししているのを見て、私はほっとしたわ。その人のことを考えているときのユキはね、私の見たことのない顔をしているの」
「それって、どんな顔なんですか……変な顔じゃありませんか?」
「ツヤツヤしてる。若いっていいわねぇ、って。これまで劇の中でばかり生きてきたのに、やっとユキ自身の世界が動いているのねって思ったわ」
そこまで言って、ヘレナ先生は少し息をついた。笑顔だったのに曇らせて視線をピアノの上の楽譜へ向け、ユキをちらりと見て何かを言いよどむ。明らかに良くないことを言おうか言うまいか迷っているそぶりに、ユキは速くなりそうな鼓動を宥めて息を吸う。
何を言われても、夢を見ていようと決めた。自分の夢を、自分で終わらせたりしない。
ユキがじっとヘレナ先生を待っていると、先生はまた少し微笑んだ。小さい子にするみたいに手招かれて、先生のすぐ近くに立つ。椅子に座った先生と、昔は同じ目線だった。今は見下ろす位置になる。
「実はねぇ」
先生もユキの背の高さに目を留めたように、まぶしそうに目を細めた。
「人魚姫のオーディション、あなたを落とすように言ったのは私なの」
「……えっ」
ユキの心から、喉を通って、思わずこぼれた音だった。何を言ったらいいかわからず、目を見開いて硬直する。けれど頭のどこかで、冷静なユキが、今自分はたいしてショックを受けていないのだ、と判断していた。ヘレナ先生を見つめるいっぽう、頭の中ではなぜ、と問いかけ、自分自身から答えが返る。
もう終わった話だからだ。
「本当はオーディションの時、歌もダンスも演技も、ユキはいつも通りとっても良かったわ。他の子よりじょうずだった。だけど、あなたには考える時間が必要なんじゃないかしらって、思ったのよ、私」
何をか。ユキは反射的に答えていた。
「わたしが、本当にここで生きていくのか、ということ」
ヘレナ先生は少しばかり驚いたようだった。
「……その通りよ。あなたはこの劇団に本当に小さいころから居て、ずっと舞台に立っていて、全力疾走してきたわ。そのまま走らせてもいいのかもしれないとも思った。それともここで一度立ち止まらせるべきか。ユキの人生だから、私が干渉すべきではないのかもしれなかったわ。あなたが特に『人魚姫』にこだわっているのを知っていたからこそ、私はどうするのが正しいのか、実は私にもわからなかった。だけど賭けをするならここしかないと思ったの。この世界、将来がどうなるかなんて私にもわからない。才能があると思った子がうまく行かなかったのも何度も見てきた。だからあなたをここで立ち止まらせるのはリスクでしかないかもしれない、できるうちにできるところまで走らせるのが正解なのかもしれない。でもね、その結果あなたがどうなってしまってもいいなんて、どうしても思えなかったから」
ヘレナ先生の言葉は、暗に、ユキの生い立ちをよく斟酌してきたことを示していた。ユキ自身が目を背け続けていた間にも、ユキの身の上をまわりのおとなたちは心配してくれていたのだろう。ユキはワンピースのスカートをぎゅっと握った。その手のひらに、ふいにアレクシスの手の感触がよみがえる。冷たい風にさらされる中で、彼の手は大きくてあたたかかった。
やさしくて綺麗な、すこしくすんだ藍色の瞳。彼にうながされて見たヨハンさんからのメッセージ。毎晩繰り返されたニコおばさんの作り話。
「わたしは」
舞台に立つときと同じように、腹に力を込め、背をまっすぐに伸ばし、怖じ気付くことなくヘレナ先生を見返す。
「わたしの夢をわたしが諦めたら、終わってしまう。うまくいくかどうかなんてわからなくても、わたしは諦めたくない。舞台の上でも生きてゆきたい。舞台が好きだし、小さいころにわたしがとても感動したように、わたしも誰かに夢や勇気を与える存在になりたい」
小さなユキにとって舞台は、現実の自分の姿を忘れるための手段だったのかもしれない。没頭していれば自分のことについては何も考えずにいられた。拍手をもらったら特別な人魚の子だからと胸を張れた。
でも、人はおとなになってゆくときに、いつまでも無邪気におとぎ話を信じてはいられない。ユキはすべての魔法を取り去った本当の自分と向き合わなければならなかった。ヘレナ先生が危惧した通り、立ち直れない可能性もあった。
「わたしの夢を、心から信じてくれている人がいるんです。ただそれだけでも、わたしは自分の人生を賭けてもいいって思いました。そう思わせてくれる人たちがいるから、わたしもわたしを信じてみたい。たとえうまくいかなくても、最初から諦めるより、せいいっぱいできるところまでやったほうが、わたしはきっとしあわせだわ」
現実の世界に、おとぎ話も魔法も存在しない。でもいつかアレクシスが言ったように、目には見えない何かがあって、それが絶妙な瞬間にユキの背を支え、ふたたび歩き出させようとしている。
天運とか、才能とか。たぶん人はそういうふうに呼ぶ。
それは支えにしようとしたらもろともに倒れてしまうもので、拠り所ではないもの。だがユキの中に火を灯し、道を照らす。道の先がどこへ続いているのかはわからないけれど、辿り着きたいと思う場所があるならば、ユキは歩き続けるしかないのだ。
自ら火を消しさえしなければ、ユキの中の炎がユキを照らすだろう。歩き続ける限り、きっときらきらと、さまざまな角度からユキは炎を映して輝ける。
「ユキ。あなたが悩んで出した答えを、私は嬉しく思う。でも、それでも忘れないで。道は一つきりじゃない。あなたの可能性はたくさんあるの。選んだ道の先で、どうしても乗り越えられない壁に当たってしまっても、自分の可能性を信じていてね。あなたがあなたを諦めない限り、あなたの人生は輝くのよ」
「はい」
今のユキにとって、他の選択肢を選ぶ道はない。ヘレナ先生が言う壁は、ずっと未来のことかもしれないし、案外すぐそこにあるのかもしれないし、死ぬまでないものかもしれない。だからヘレナ先生の言葉はお守りにしようと思った。
近い将来のことでさえ、いったいどうなっているかわからない。だがいつか振り返ったとき、この二年間は、忘れられない日々になっているだろう。願わくはこれから先も、忘れられない毎日を過ごしてゆきたい。
「先生。わたし、今度の『人魚姫』のオーディション、受けたいです」
今日は、本当は自分の状態を確かめてみるだけのつもりだった。なのに先を見た言葉が当たり前のようにするりと口から飛び出していった。
例年の公演でも、劇団では年ごとに毎回オーディションを行って役者を入れ替える。そういう演目は複数あって、新規の公演も含めオーディションもほとんど年中おこなわれている中、人魚姫のオーディションは、ユキが十七歳を迎える直後にスケジューリングされていた。ここ数ヶ月内のオーディションでは最も近いものだ。
「ひと月しか時間がないわよ。いける?」
「大丈夫です。実はずっと練習していたので、他の演目より、たぶん一番有利です」
「ネージュの仕事はどうするの?」
「それは……実は、思いつきだけどちょっとやってみたいことがあって。でもわたしひとりではできないから、相談します。でもまずはひと月だけオーディションに集中させてください」
「相談って、ヨハンにじゃないわね?」
「ヨハンさんにはあとでちゃんと言います。その前に、どうしても……。だからヨハンさんには秘密にしてください」
自信をもって次の舞台にのぞむために、ネージュとしての仕事もやり遂げる。その、もしかしたらネージュとしては最後になるかもしれない仕事に、スポンサーや他の誰かに言われるがまま歌うのではなく、歌姫と言われるにふさわしい成果を残してみせたい。
舞台からは届かないフロル・ネージュの街の人たちにも、ネージュの歌声は届く。彼らにも感動を、夢を与えられる歌姫だったと、思われたい。それがユキの歌だから。
「わかったわ。じゃあオーディションはエントリーしておくわね。書類があるから今書いてしまってちょうだいな」
書類の空欄を埋めてゆく、少しどきどきする時間が久しぶりだった。年齢は来年の公演初日時点のものを記入することになっているから、ひとつ年上の数字を記入する。
十七。
何かが終わり、新しく始まる予感がした。
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