第七幕 ダイヤモンドの輝き(下)

「あんなふうに訊いておいて、そんなこと?」

「僕が思うに、このお願いって『そんなこと』で流せるものじゃないよ」

「そうかしら? いいわよ、べつに」

 自分から言い出しておいて、アレクシスはなんだか不本意そうな顔をした。だからといって取りやめるわけでもないらしく、ユキの肩に手をかけてそうっと彼のほうへ引き寄せる。ユキはあっけなくアレクシスの腕の中に収まった。アレクシスが両腕を背中にまわしてぎゅっと抱きついてきたので、ユキもやさしい気持ちになって彼の背に手のひらを置いた。すらりとした細身の人だけれど、男の人だからユキよりずっと肩も背中も大きくて、ユキの腕はいっぱいいっぱいだ。

「前から思ってたけど、ユキって、案外こういうことに慣れてるんだね」

「こういうことって?」

「僕がくっついてもあんまり気にしないでしょう。女の子って、よっぽど慣れてないと多かれ少なかれ身構えるものだと思う」

「それって、わたしが女の子っぽくないって言ってる?」

「違うよ。だから、その、男とくっつくのに慣れてるんだろうなあって」

「だってけっこうよくやるもの」

 ユキが当たり前に答えたら、アレクシスがちょっと残念そう、いやだいぶ不満そうにしている。くっついているからか、筋肉のわずかな緊張、弛緩や、小さな感情の動きもよく伝わってきた。ユキには懐かしい感覚だ。

「劇って、抱きしめたりくっついたりするシーンが案外多いのよね。シニアになると主に恋愛の場面になるけれど、私は子役だったからお兄さん役とか、お父さん役とかによく抱かれてたわ。わたし、子どものころは体格が小さめで、特にお兄さん役に抱きしめられていた感じが今のアレクシスと似てる。懐かしくて、なんだか落ち着く気がする」

「抱きしめられると落ち着くほど抱きしめられてたの?」

「落ち着くのは回数っていうより、劇の中で抱きしめられるシーンって、仲良しのシーンだったり、事件が解決して無事を喜んだり、気持ちが和む場面が多いからだわ。そんなシーンで抱きしめられていることを意識してぎこちなくなると、子どもっぽくないでしょ。わたしも最初は他人にくっつかれると緊張してた……んだと思う、たぶん。小さいころすぎてあまり憶えてないわね。シニアの女性役になると、恋愛が絡むから感情も違うのだけど、わたしはそれはやったことないし」

「そっか、確かにユキって、子役しかやってないよね。人魚姫を上手に演じてたから忘れてた」

「……アレクシスにその話、したかしら」

 オーディションに落ちてシニアデビューできず、今までくすぶっていることを誰かに話せるほど、ユキの傷はまだ塞がっていない。出会ってから互いの素性について交わした会話を思い返しても、ユキはそもそも劇団に所属していることさえ自分からは言ってない気がするし、さらによくよく考えてみれば、彼に自分がネージュだとも言っていない。アレクシスが当たり前に話してくるので今まで疑問も持たずにいたけれど、フロルとアレクシスは見た目が同じであるから容易にわかるが、声しか出ていないネージュとユキを、アレクシスはいったいどこで確信に至るほど結びつけたのだろう?

「ねえ、今さらだけどそういえばわたし、ネージュだって名乗ったこともないわよね。なのにあなた、どうしてわたしがネージュだって知っていたの」

 アレクシスがユキの頭上で小さく笑った。ユキの肩に彼の肺の振動が伝わる。

「そんな気はしてたけど、きみ、ネットで自分のこととか、調べたりしないんだね」

「あんまり使わないもの。やっぱり今時、使えたほうがいいのかしら」

「SNSは?」

「ネージュのはマネージャーが管理してる。わたしのは友だちとの連絡用アプリだけ。あっ、アレクシス、電話番号」

 同じことを考えていたらしく、アレクシスはすでに端末を手に持っていた。真っ先にアプリじゃなくて電話番号って言うのがそれらしい、とまた笑われつつ、アプリのIDと端末の番号を交換する。その時にユキの画面を確認してくれたアレクシスがアプリの通知が溜まっているのを見つけ、ユキは表示項目を変えて誰からの連絡かを確かめた。

「あ、ヨハンさん……」

 ちょっと意外だった。けれどそういえば土曜日から何度も受信していたのをすっかり忘れていた。

「誰?」

 間髪入れず訊いてきたアレクシスに「ネージュのマネージャーさん」と答えると、不審そうに眉を寄せていた彼が一転、あからさまに心配そうな顔をした。わたしだって子どもじゃないんだから、と今度はユキが眉を寄せる。

「マネージャーからのメッセージ二十件放置って、それはまずいんじゃ」

「ヨハンさん、本当に大事な用件はまず電話してくるから」

「通知切ってたの?」

「風邪ひいてて携帯見る気にもならなくて、うるさかったの」

 本当は気分が地に落ちていて通知で表示される名前も見たくなかったから、なのだが、それは言わない。しかし仕事の件ならまず電話をしてくるヨハンがアプリで連絡を寄越すのは本当に珍しい。つまり仕事の件ではないということ。アレクシス効果か、名前とアイコンを見ても穏やかな気持ちでいられたので、ユキはやっとヨハンからのメッセージ画面を開いた。

 メッセージは最初こそ当たり障りのない、体調を気遣う文言がいくつか送られてきていたが、やがて『あなたの好きなカフェの割引券をいただいたので、今度渡しますね』とか『ごはんはちゃんと食べていますか?』とか『そういえば私のところにフロルの未公開シーンの動画データがあるんですよ』との文言のあとにデータが送られてきていたりとか、だんだん方向性がわからなくなって、特にフロルのデータはとっても興味があるけれど、私的に送っているならヨハンは仕事上怒られるんじゃないかと思う。だいたい一時間おきくらいに送られてきていたメッセージは、日曜の夜八時が最後だった。その前は夕方の五時で、それまで届いていたメッセージから急に間隔が開いている。そしてそれだけ長文だ。ユキは何事が綴られているのかと、おずおず内容に目を通し始め、すぐに瞠目した。

『ユキちゃん、俺はきみが心から楽しそうに歌って踊っているのを見るのが、本当に好きだった。きみはひときわ小さいのに頑張りやで、そのぶん身体いっぱいで輝いていて、きみひとりで眩しいくらいだった。昔から、きみが俺の夢だ。今はゆっくり休んで、また楽しそうに歌っている姿が見られたら嬉しい』

 送るか送るまいか、迷って躊躇った時間が、送信時刻の記録で見えていた。ユキちゃん。ユキをそう呼ぶのは、小さいころのユキにいろいろ教えてくれた劇団の先生や、お兄さん、お姉さんたち。そのうち、ユキがまだ小さいうちに劇団をやめていった人たちの顔を、ユキはもう思い出せない。端末を握りしめて、メッセージを何度も読み返す。

 ヨハンは、どんなに頑張っても舞台に立てなかった、ヘレナ先生の教え子。そして幼かったユキを知っているのだ。彼はどんな気持ちで舞台を去って、そして今、ユキを見ているのだろう。

 自分に特別な才能はないのだと知ったとき、ユキはそれまで自分を導いていた光が消え去ったように感じた。光があることだけを頼りに懸命に生きてきたのに、突然暗闇に道を断たれる絶望感。すぐそばで、それが当然だとでも言うように輝いている仲間たち。

 惨めで、妬ましくて、悔しかった。それなのに。

『きみが俺の夢だ』

 端末の画面にぽつぽつとしずくが落ちた。表面張力で盛り上がる水を親指で拭って、滲むメッセージを必死で目に焼き付ける。

「どうしたの?」

 悲しい涙でないことがわかるのか、アレクシスの尋ねかたが穏やかだった。ユキはしゃくりあげそうな喉をおさえ、細く震える息を吸った。

「ヨハンさん、小さい頃わたしの面倒を見てくれてた先輩だったの。わたし、全然気づかなかった。自分は夢を諦めざるをえなかったのに、歌って踊っているわたしが好きだったって。また楽しそうに歌っているところが見たいって、言ってくれて」

「僕も、歌って踊っているきみが好きだよ。この寂しい池の前にたったひとりなのに、きみがいるだけで、ここが眩しいくらいライトの当たる舞台になる。きみのまわりに違う世界が見える。僕たちみたいな世界でいちばん大切なのは『輝くこと』って言うけれど、僕にとってはきみがいちばんの光だよ」

 今度はユキの頬にこぼれる涙を、アレクシスがタオルでやさしくおさえる。乾いた面を使ってくれたけれど、ほんの少しひんやり湿っていて、アレクシスの涙の跡を感じた。

「もちろん、舞台に立っているきみも好き」

「わたし、しばらく公演に出てないのよ。アレクシスは、わたしが舞台に立っているところなんて見たことないでしょ」

「直接はね。でも劇団の写真集や公演を収録したディスクとかがあるから」

 そんなものまで手に入れていたのか。確かに劇団は公式で公演のディスクや写真集を出している。けれどユキが出ているものとなると、ちょっと古いはずだ。今でも購入できるのだろうか? アレクシスはなんだかネットなどに詳しそうだし、そのあたりから入手するのは意外と簡単なのかもしれない。

「そういえば、どうしてネットだとわたしがネージュだってわかるの」

「うーん、僕としてはユキにはあんまり、ああいうのには触れてほしくないから教えたくないんだけど、ネットで検索するとけっこうネージュに関する噂があるんだよ」

「噂?」

 ユキは少し不安になってアレクシスが手に持ったままの彼の携帯端末を見下ろす。ネージュについて、ネット上でいったいどんなことが言われているのだろう。

 ユキだってきのうフロルのことをネットで検索したばかりだというのに、自分が検索対象になることは思いつきもしなかった。フロルについての書き込みの中には、あまり気持ちの良くないものもある。自分もあんなふうに書かれているのだろうと思うと落ち着かないが、一方で、子役時代に露出が多かったユキは顔も知らぬ他人からの評価にはそれなりに慣れているので、どちらかと言えば書き込みそのものよりそれを見たアレクシスがどう思うかが気になった。

「ネット上の噂なんてたいていアテにならないし、僕は気にしないんだけど。ユキもあんまり気にしないほうがいいよ」

「でもアレクシスは、そこからわたしとネージュについて知ったんでしょ」

 アレクシスは悪びれず軽く肩をすくめて「まあね」と言いながら、宥めるように不安げなユキの頭を撫でた。

「別に悪い情報ばかりってわけじゃないんだよ。きみを初めてここで見かけた朝、なんとなく声が似てるなって思って、試しに『ネージュ 中身』って検索してみたんだ。そうしたらある劇団の歌の上手だった子役が二年くらい前から舞台に出てないけど、その子じゃないかって書き込みがいくつか見つかって。それできみと会ったあと、劇団の名前ときみの名前で検索をかけたら、顔写真も出て一発だった。きみ、子どものころとあまり変わっていないね」

「童顔ってこと?」

「変わらずにかわいいってことだよ」

「けっこう変わったわよ」

「そう?」

 アレクシスは携帯端末を操作して、画面に写真を表示した。ユキが七歳くらいのころの、雪の妖精役をやったときの劇団のプロモーション写真だった。他にもさまざまな年齢のユキがアレクシスのフォルダにあって、ユキは、さっきこっそり彼を盗撮した自分と、人の幼少期の写真を、公式に発表されたものとはいえ大量に端末に保存している彼と、どちらがより罪深いのだろう、と考えた。

「これとか、これとか、本当にかわいいね、ユキ。あ、あときみが十歳くらいの時なのかな、あの舞台、主人公の青年のパートナーになる天使役をやってたときのきみは本っ当にかわいかったなあ。歌も透明感があって上手だし、素直で慈愛に満ちて、いかにも無垢な感じが、本当にふわふわの雲から落っこちてきたみたいだった。最初は感情に乏しかったのに、主人公と過ごすうち少しずつ人間らしくなっていって、最後に主人公に『別れたくないよ』って泣いて抱きつくシーンなんて、僕が引き取って育てますって言いたいくらいだった」

 アレクシスが何かの期待を込めてユキを見る。ユキは思わず一歩後ずさりながら首を横に振った。

「何のために子役がやっていると思うの」

「ユキだったら今でもいけると思うな」

「無理よ」

「大丈夫だよ」

「ねえ、歳を考えてよ。それは十歳くらいの小さい子が演じるものなのよ。だからそれだけかわいく見えるの」

「大丈夫、ユキ、本当にこの頃と変わらないくらいかわいいから。それとももしかして、もう歌えないの、この歌。大きくなったからって、それくらいできみは、もうこの役を『演じる』こともできない役者なの?」

 からかい混じりだが明らかに挑発されて、ユキはついカッとなった。ふだんからそんなに頭に血が上りやすいほうではないはずが、今、この場ではタイミングが悪い。役者として、受けて立たねばならないような気にさせられる。

「あの舞台の結末を覚えているでしょうね」

「もちろん。人気の公演のものだったから一昨日やっと手に入れたばかりだけど、もう十回は見たかな」

「うそでしょ」

 不用意にアレクシスの足を突っ込んではいけない部分に踏み入ってしまったのでは。萎えそうな気力を奮い立たせて、ユキは現実を突きつけた。

「まあいいわ。それならわかっているでしょう、最後はあなた、よぼよぼのおじいちゃんだから。しわくちゃで若い頃の影もない老人になってしまうのよ」

 小さな天使が別れたくないと泣くシーンからそこまで、歌は一曲だった。青年とのかけあいが混じりつつ、一曲で劇の始まりからテーマとなる曲やクライマックスに歌う歌の旋律を含み、ラストまで進む壮大な締めくくりの一曲。

「そうしてきみが迎えに来てくれるんだ」

 うれしそうに言ったアレクシスを半ば無視して、ユキは息を深く吸った。あのころとは声質が違う。同じ歌声は出せない。なら、今のユキであの歌を表現するとしたら、どんなふうに歌うか。今のユキだったら、あの子をどう演じられるだろう。

 アレクシスを相手役に見立てて正面に立つ。ふたりで見つめあう。別れを、天使も青年も知っている。


 さよならなんだよ、フラム。わたし、もういかなきゃ。おとうさまが呼んでいるの。フラムはしあわせになる方法を見つけたから、わたしはもういなくていいんだよ。


 青年は黙っていた。別れを受け入れるとも拒むとも言わず、ただじっと小さな天使を見つめている。天使は、自分から空に去るべきだとわかっていながら、フラムからたったひとこと、さよならの言葉が欲しくて待っていた……わたしだったら、さよならを言われないならずっとここにいられると思う。天使との約束事は言葉で果たされるのだから。天使として誰よりそのことを知っているのだから、この子もそうかもしれない。


 フラム、わたし、あなたに会えてよかった。あなたがしあわせになる方法をいっしょに探すのが役目だったけれど、そうしたらわたしのしあわせも見つけたの。ありがとう。


 天使は心から歌っている――否、人間の心を持ってしまった天使なら、きっとこう考える。こういうふうに言ったら、彼はちょっとくらいわたしをいじらしく思ってくれて、引き留めてくれるかもしれない。

 天使は期待を潜ませて青年を見上げた。けれど。


 ありがとうおちびちゃん、きみがぼくのもとに来てくれて嬉しかった。きみのことは一生忘れない。神さまにも感謝するよ。


 期待がかなわなくて悲しい、でもこれで、お役目をまっとうして空に帰ることができる。安堵と寂しさ。物足りなさと満足感。どれもが本当の気持ちで、天使は、重責と青年の存在のどちらもが居なくなろうとして軽くなってゆく胸を手のひらでおさえて小さく笑う。

 アレクシスは歌がうまくないのね、とユキは思った。もちろんそれは共演した先輩団員たちと比べてであり、まして公演のディスクを見て耳で覚えているだけのアレクシスは、そもそも比較すべきでさえない。だが歌の安定したお兄さんとしかこの歌を歌ったことのないユキにはアレクシスの上手でない歌が新鮮で、せめて音程だけは自分がリードしなくては、と思いながらアレクシスが動くのを待つ。

 アレクシスが身を屈めてユキと同じ目線になる。例のシーンだ。天使が自分の心をおさえられなくなって、本当のことを言ってしまう。それまで綺麗な旋律で歌っていた天使の歌が途切れ、「別れたくないよ!」これだけは全力の台詞で言う。天使が青年に抱きつく。それを青年はやさしく抱き返してひどいことを言うのだ。


 ぼくも別れたくはない、でもきみは帰らなければ。そうしていつか、ぼくを迎えに来てくれるね。その時までに、きみが教えてくれたしあわせを、たくさん見つけていよう。


 もの分かりのいいおとな。小さな天使にはそれが悔しくてならない。でも、ユキは思った。この青年、ちゃっかり将来の約束までして、それはおとなの打算では? けれど人間の心を持ったとて、いまだ無垢な天使にはわからない。ほろほろ泣きながらうなずくしかない。


 また会おうね。そのときには、たくさんおはなしを聞かせてね。フラム、炎のようなひと。あなたは一瞬だけ燃え上がるのではなく、あかあかと燃え続けて、たくさんの人をあたためるの。やくそくだよ。


 またすぐにでも会いたい。でもしあわせに長生きしてほしい。相反する思いを、天使は慈愛で包んで青年へ受け渡す。彼が一生、しあわせと、そして自分を忘れないように。


 やくそくだよ。またね、フラム。


 祈るように言って、天使は空へと帰っていった。

 フラムはそれから毎日空を見上げて、小さな天使を想った。人生に何が起こっても、空を見ていればしあわせを見つける方法を思い出せた。妻を娶り、子が生まれ、育ち、孫が生まれ……その間に彼と大事な家族をどんな試練が襲っても、フラムはしあわせになる方法を忘れなかった。そうして数十年が過ぎた、穏やかな昼下がり。

 フラムは懐かしい歌声を聞く。


 しあわせってなんだろう? どうしたらそれが見つかるの? 神さま、人はどうやってしあわせになるの?


 だれかを、いとしいと思うのさ。


 歌に応えながら、フラムはうっすら目を開けた。遠い昔と同じように、小さな天使が無垢な瞳を丸くしてフラムを見ている。その小さな口が開く。何を尋ねられるのか、フラムにはもうわかっていた。


 あなたは、しあわせ?

 とってもしあわせだよ、おちびちゃん。


 フラムの憶えているままの小さな手に、しわくちゃで節くれ立った手が重なる。その瞬間、フラムはあざやかに若返った。ふたりは昔と同じように目と目をあわせ、声を重ねて歌う。


 しあわせの見つけかたを知っている? ひとには近く、自分には遠いしあわせの見つけかた。

 ぼくはもう知っているよ。どんなに遠く見えていても、かならずそこにいてくれると。でもすこし意地悪で、向こうからやってくることはない。

 だから歩き続けて、手が届くまで。どこへって? 知っているでしょう、

 道しるべは、あなたなの。

 道しるべはぼく自身。

 冬来たりなば春遠からじ、今が冬ならきっと聞こえるわ、春の足音。信じて。前へ進むことをやめなければ、あなたは春にたどりつく。

 凍える冬に負けそうな夜は、耳を澄まして雪の向こうに春の足音を聞く。この夜に負けさえしなければ、春はかならず訪れる。



「アレクシスって、演技、けっこう上手なのね」

 重ねた手を名残惜しく離そうとしたら、アレクシスも惜しいと思ったのか、指さきが絡んで引っかかった。それでもすぐに重力に従って落ちてしまう。アレクシスの指のゆくえを少しのあいだ目で追ってしまい、気恥ずかしくなって慌てて正面に視線を戻した。

「ううん、僕は演技はできない。ユキの天使がかわいいからだよ。僕はね、演技ができるほど器用じゃなくて、思ったことや考えたことがそのまま顔に出るんだ。だから僕に少しでも演技ができていたとしたら、それはうまく乗せてくれたきみの力」

 よどみなく言ってのけるアレクシスのそれは、言い慣れた人の口調だった。真剣に努力したこともないのにできないと言う人の口ぶりとは違う。少なくとも演技に関して、アレクシスは何か理由があって諦めきっているようだ。

「そんなことはないと、わたしは思うけど……」

 アレクシスをうかつに傷つけてしまいそうで、ユキの声音は弱くなった。眉を曇らせるユキに、アレクシスはやさしい笑みを向けた。あの、ユキが見つけたたった一枚の写真を思わせる微笑みだった。

「きみは僕に夢を見せてくれる」

 アレクシスの眼差しも声音も、言葉以上にものを言う。胸が詰まって、ユキは唇をきゅっと引き結んだ。アレクシスがユキの歌や演技をとても大切に思ってくれていることが伝わるから、自分はもうだめなのだと考えたことが悔しかった。自分では彼の夢に応えられないと思いたくない。

 ヘレナ先生の言うとおり、演技をするのは苦しい。昔は難しいと感じても楽しいばかりだったけれど、今のユキにとって困難はただ苦痛だ。暗闇に取り残されたかのようで、先に何があるとも知れない。

 だけど本当は諦めたくなかった。苦しくても、歌も踊りも演技も、舞台に立つのも大好きだから、やめてしまうことに比べたら苦しいほうがましだと思う。

 小さいころから聞かせられてきたおとぎ話は、人魚姫になれなかったあの日、壊れてしまった。でも人魚の子だなんて嘘、そんなこと、実はもっと昔から感づいていた。語り聞かせるニコおばさんにそんなのは嘘だと反論しなかったのは、ユキが信じていたかっただけ。舞台の上で輝くのに必要なものを自分が持っていると、おとぎ話で確信していたかっただけだ。

 今のユキにはもうなにもない。否、夢だけがある。

 諦めなければ夢は叶うという――そんなのはおとぎ話だ。けれどおとぎ話を本当にしてみせるのが舞台で、それはこの世界に存在するたったひとつの本物の魔法であり、ユキが幼いころからずっとやってきたことだった。何度も演じてきた人物たちだって、その誰もが、諦めない心でハッピーエンドを掴んでいたのに、演じたユキ自身がいつの間にかその魔法を信じていなかった。

 舞台の上は夢の世界。夢の世界は、夢だけど、夢じゃない。諦めなければ、ユキの心の中にある。

 もう一度、ユキにも使えるだろうか。あの光り輝く、すばらしい魔法を。

 夢を見せたい人がいる。あなたは特別よと、言ってあげたい人がいる。


 女神さま。もしも願いが叶うなら、わたしにたったひとつだけ、本物の魔法をください。

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