第三章・闇からの声
達也は、転がり落ちて河原にくの字で横たわったときには、まだ意識があった。しかし河原の石のどれか、大きめの石にでも頭をぶつけたのか、和也の叫び声といくつもの足音とともに視界がぼやけてきて、次第に闇の中へと消えていった。
闇の中へ闇の中へ。
暗い暗い闇の中、何も聞こえない、匂いも触覚も何もかも感じなかった世界で達也は気がついた。そもそも自分という存在が、本当にここにあるかどうかもわからなかった。達也という意識だけがそこにいるような感じだった。達也は立っているかどうかさえわからなかった。
自分が達也であることを思いだし、今の状況を考えていた。いや、内心は怖かった。何も見えない、何も聞こえない、何も感じないこの場所で一人ぼっちだったのだから。
毎晩寝ているときに見るこの真っ暗い闇の中で、夢とも現実ともとれないこの世界にいるとき、達也は恐怖を感じていた。それは、再び自分が自分でなくなるのではないか? という恐怖でもあった。
恐怖で意識が再び遠のきそうになったとき、目の前に和也の顔の幻影が現れた。それは本当に目の前だったのか、頭の中に浮かんできたのかは定かではなかったが、確かに見えた。和也の顔が見えたとたん、いつものように、落ち着いた自分を演じようとした。
「俺そういえば土手から転がり落ちて――」
土手から転がり落ちたときの記憶が蘇り、独り言をつぶやいた。あのとき死ぬほど痛い思いをしたが、今は不思議と痛みを感じなかった。そもそも体があるかどうかさえわからないのだから、痛みがあるかどうかなど無意味なことだった。それよりも何よりも、
「和也は無事だったろうか、また泣いてないだろうか」
ここにいたっても、頭の中は和也のことでいっぱいだった。
「それ、本当に思ってる?」
突然声が聞こえた。何も存在しないはずの世界に、突然小さい子供のような甲高い声だけが響いた。達也は驚いて、あるかどうかもわからない耳をすましてみた。するとまた声が聞こえてきた。
「本当に和也のこと心配してるのかなぁ」
「心配してるに決まってるだろ!」
言葉にならない言葉で返す。それは本当に口から出た言葉なのか、ただ心で思っただけなのかわからない。だが、目に見えない声だけの存在に向かって達也は叫んだ。
「そうかな、そうかな?」
「誰だよお前」
「僕、僕はねぇ……」
すーっと目の前に何かの幻影が現れた。幻?それとも本物?それはわからなかったが、とにかく人型の何かが徐々に浮かび上がってきた。
最初に顔のようなモノが浮かび上がってきて、次に体も浮かび上がってきた。その顔は和也に似ていた。しかし違っていた。和也にはある、左目の下の小さなほくろが完全になかった。
徐々に鮮明になっていくその姿は、小さい頃の達也。六歳の頃の達也自身だった。なぜか裸の姿で現れた。表情は無表情で、まるで人形のようであった。薄く見える口から再び高めの声が出た。
「心配してるなんてうそ。僕はわかるよ。だって僕は君だから。心配してるなんて違うよね、違うよね。本当は憎い。そうでしょ?あれのせいで大けがをして、はらをたててるんだよね」
「違う、違うっ!」
「僕の言うことを否定するの?僕を否定するんだ。もう一人の僕と一緒に、昔あんなに良くしてあげたのに」
達也の意識が何かに揺らされたように揺れた。そんな不思議な感覚を達也は抱いていた。
「うるさい、黙れ」
「昔君の代わりに痛い思いをしたり、汚い言葉をずっと聞いてあげてたのに、それを忘れたの」
「やめろって言ってるだろっ!」
ふるえるような声で叫んだ。だが達也の遠い記憶が、封印したはずの過去の忌まわしき記憶が、言葉をふるわせているように感じられた。
「僕たちと交わした約束を覚えてる?まだ完全には達成しきれてないよね。何だったら今しょうか」
達也はにらみ付けた。だが幼い達也は少し笑みを浮かべるように、不気味に口をゆがめてからまた達也に話しかけた。
「ほら、耳をすませて、また聞こえてくるよ、あの声が」
幼い達也の言葉が終わるのとほぼ同時に聞こえてきた。地獄の底から響き渡るような、重低音の声。
「痛いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「あんた達なんか産まれてこなければよかったのよ、なんで私の言うことが聞けないのよっ!」
同時に激しく殴られるような感覚が達也の意識によみがえった。顔が見えていたなら、達也は顔中いっぱいに恐怖の表情を浮かべていただろう。泣き叫んでいただろう。
「やめて、やめろ、やめてくれっ!」
その叫びとは裏腹に、今度は遠くの方向で言い争う声が聞こえてきた。
「私にばかり押しつけないでよっ」
「うるさいっ、こっちは仕事で忙しいんだよ」
再び声が同時に聞こえた。そしてすぐ近くで聞こえる甲高い泣き声。その後再び、激痛を繰り返し感じた。
「自分に正直に生きなよ」
再びもう一人の達也が声をかけたが、達也の渾身の叫びでかき消された。
「やめろーーーーー!」
それと同時にまぶしい光が広がった。と同時に意識が遠のいていった。達也は遠のく意識の中、遠くから懐かしいような、怖いような声が聞こえたような気がした――。
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