第十四章・中谷夫婦の真実

「私は昔から不器用なところがあって、仕事をしつつ、他のことも考えることは出来ない人間でした。だから家族サービスなんて考えられなかったし、こいつの、和子の苦労を考える余裕がなかったのです。いや自分のことで精一杯でした。もちろん、和子を愛してないわけではなかった。だから唯一の休みの日ぐらいは、一緒に、その、夜のあれを」


 言いよどみながら和義を気にしだしたので、他の面々はだいたいのことを察したようだ。つまり、子作りはちゃんとしていたというわけだ。


「それで、達也君たちが産まれてから、更に仕事に精を出そうとしてたんですね?」


 山仲医師のフォローで安心した父が話を続けた。


「はい。今更言い訳がましいですが、和子には育児に専念してほしかった。私の給料だけで生活していけるようにし、和子にまで働かせるようなことはしたくなかった」


 母が泣きながら父を見つめた。父の真剣な表情を見つめていた。


「だから自ら仕事量を増やしてまで、夜遅くまで働きづめに働いてました。そうこうするうちに休みの日も減っていき、そして気がついたときにはもう、和子は達也と和也を、虐待してました」


 虐待 という言葉を聞いて、全員が暗い表情になった。


「和也のことがあって、なるべく家族のことも考えようとしてたのですが、元々が元々だったので、なかなかうまくいかず、それでもせめて子供たちがいるときは、たとえ子供達が寝ていても喧嘩はしないようにしてきました。ですがあの日、和子が、私たちがまだ寝てる早朝に、家に火をつけたのです。家中に灯油をまいて。気がついたときにはだいぶ火に包まれてました。その頃はまだお義(か)母(あ)さんは住んでなかったので、この火事の被害をうけませんでした。私は何とか和也を連れて外に出て、もう一度中に入って和子を引きずり出しました。達也は消防士さんが助けて下さいました。そのときに、達也がこのまま燃える家の中に残ると言ってました。それでうまく、達也が自殺しようとしてたってことにできたんですが、達也が自殺しようとしてたことにしたのは、私の考えたことでした」


「なぜですか?」


「お義母さんから聞いたのですが、その頃の和子はまだ情緒不安定で、精神的にまいってきてたようで、奇行が目立つことがあったようなんです。外出中にも時々子供をベンチに置いたまま、どこかにフラフラと歩き去ろうとしてたり、和也に使っていた子供用リードの予備を、達也にもつけ二人を引きずって部屋の中をひたすら歩いてたり、私が出張で留守にしお義母さんが数日老人会の寄り合いで忙しくしてて家に来ることがなかった間、子供たちだけでなく、自分自身も何も食べずにいたりしてたそうなんです。そのときになって私はようやく事の重大さに気づいたんです。全くもって遅すぎる話なんですけどね。だから、少しでも重苦しい気持ちを軽くしてあげようと思って、達也の記憶が曖昧なことをいいことに……ごめん達也」


 うなだれる父に、達也が立ち上がり近くまで歩いて行って、父をしっかりと見つめ、ゆっくりと話しかけた。全員達也の行動を見守っていた。


「もういいよ。それでも俺たちはこうして生きてる。生きることができたんだから」


「兄さん」


「兄貴」


 和也と和義が同時に呟いた。父が達也をしっかりと見つめてしゃべった。


「ありがとう達也」


 そして、少し微笑みながら和義のほうに視線を動かして呟いた。


「ちなみにそのとき入院した先で、和義がお腹にいたことにようやく気づいたんだけどな」


「ほんとに?」


 和義が素っ頓狂な声で叫んだ。


「ああ本当だ。ずっとただ太っただけだと思ってたらしい。まぁ精神的におかしくなってたから、仕方がないけどな、へたしたら流産するとこだったらしい」


 和義の表情が青ざめた。


 父は、達也の言葉でほんの少し救われたような気持ちになったかのように、表情を少し緩めて独白を続けた。


「それでまぁ、この火事を契機に当時働いてた会社を辞め、自由のきく自営業を始めたのです。昔やりたかった喫茶店を和子と一緒にするようになりました。後はみんなが知っての通りです。ちなみに二度目という事になっていた自殺未遂は、本当に達也が自分からしたものです。それは広田君や、他にも何人も目撃者がいます」


 そこまで話し終わると、うつむいて黙った。


 山仲医師は一つ気になって、母に質問してみた。


「少し確認させて下さい。そのときは記憶が曖昧だっただけで、記憶喪失というわけではなかったのですね?」


「はい」


 力なく頷いた母と違って、全員が不思議そうに山仲医師を見た。山仲医師が何かを言おうと口を開きかけた時、母がボソッとつぶやいた。


「私は元々子供を育てることに不安でした」


 うつむいたまま、力なくつぶやく母に父も含めて全員が見た。母はポツリポツリと語りだした。


「ましてや、私の母が達也たちに言ったようなことなど、あの頃は思っていませんでした」


「ちょっ、和子」


 父が思わず母を止めたが、達也がそれを止めた。


「いいんだ父さん、俺は聞きたい、母さんのこと。あの時の本当の気持ち」


「いいのか、達也」


 達也はうなずいて答えた。母はそれを確認した後、また話を続けた。


「私は、達義さんと一緒にいられるなら、それだけでいいと思っていました。夜のことだって、ただ気持ちが良かったからしてただけでした。子供が欲しいなんて思ってませんでした。だからでしょうね、最初の子は死産でした」


 中谷一家以外全員の口から驚きの声が出た。達也も和也も和義も本当の長男のことは周囲に話していなかった。話す必要はなかったし、そもそも達也と和也は和也のこととかでゴタゴタしていたし、和義にいたっては今更な感じもしていて話す機会がなかったのだった。全員の驚きの顔を達也は見ながら母の話に耳をかたむけた。


「私にとって子育ては苦痛でしかありませんでした。自分たちの睡眠時間を削られてまでも毎晩起こる夜泣き、片方が泣き出すともう片方も同じように泣くため、収拾がつかなくなる始末。おまけに夫がそれでまた機嫌が悪くなるので、子供たちを連れて夫から離れたり、時には、外に出たりしてました。そうしてようやく寝静まった頃になって朝がすぐに来て、夫の朝食の準備や弁当を作り、そのまま家事をして、また子供たちが起き出して、ミルクあげたりオムツ変えたり、一日一回は日光に当たらないと病気になると聞いてたので、眠い目をこすりながら二人を連れて散歩したり、帰っても残った家事をやってたらすぐに夜が来て、夫の晩飯作ったり二人を風呂入れたり、そしてまた悪夢の夜泣きが始まって……たまにお母さんが手伝いに来てくれてましたけど、正直心身ともに疲れ果ててました。そしていつしか、私自身のおなかにいたんだから、私がどう扱おうと構わないはずだと思うようになったのです」


 達也は思わず視線を落とし地面を見つめた。周りの空気が変わったのをなんとなく感じていた。いつもは重さを感じない空気を重く感じていた。このまま押しつぶされないかと思うほど。それでいて空気がよどんでいるようにも感じられた。


 まるで工場から噴き出した黒い煙を吸ってしまったような、まるで世界一臭い花の香りを匂ってしまったような、言い知れぬ空気の悪さを感じていた。そんな中でも母は独白を続けていた。


「子供たちを放置することが多くなり、オムツを替えることもせず、風呂にも入れず、そのたびに夫と喧嘩してイライラして、そこに夜泣きされて余計にイライラして、それから二人に対しての暴行が始まりました。殴って子供たちが気を失って、ようやく静かになっての繰り返し……」


「二人ともよく生きててくれたものだよ……」


 父がつぶやいた。


「当時の私は本当に最低だったよ。和子に全部任せ、あまつさえ和子を怒鳴りつけ、時には和子に暴力をふるっていたこともあった……本当にめちゃくちゃだった」


 そう言って母も父も黙り込んだ。達也がそっと顔をあげるとその場にいた全員がうつむいて目を閉じていた。和義の体が、きつく握りしめた両のこぶしが震えていた。地面にポタポタと水滴が落ちているので、泣いているのだろう。それもそのはずだった。母が幼児虐待していた事だけでも信じられないのに、夫婦の仲がひどく悪い状態で、父が暴力をふるっていたと聞かされれば、驚愕を通り越して悲しくなっていても不思議ではないと達也は思った。


 しばらく沈黙が続いていたが、父が弱々しくつぶやいた。


「達也と和也がタフになったのは、そのためだな。一歩間違えれば死ぬとこだったけど」


「ええそうでしたね。そのたびにあなたは私を殴って、いつも私を非難していましたね……」


「そうだったな、本当にすまなかった。もっと速く気づくべきだった」


「いえ私が悪いんです。早い段階から母さんから注意されてたのに、全く気にもとめなかった。それどころか私は『死なせて何が悪い?』などと、愚かなことを口走ってしまった。それでも母は決して私を見捨てることなく、優しく話しかけてくれた」


 ここまで言ってから、昔を思い出すように目をつぶって、当時言われた長い話を語り出した。


「『人が人を殺したり死なせることは、たとえそれが自分の子供であってもしてはいけないもの。なぜなら誰にでも生きる権利があるのに、産みの親であろうと、育ての親であろうと、人からその生きる権利を奪われる理由なんてない。私たちが生きてるのは、いろんな人の命や意志があってこそ生きているのよ。人だけではなく、お肉や魚だってそう。家畜たちや魚たちを死なせて、それを食べて私たちは生きている。生かしてもらえてる。そのことを感謝しないといけない。それほどまでに、命は大事なものなんだよ。確かに今は辛いだろうけど、この子たちはきっと大きくなったら、そのことをわかってくれる。あなたが苦労すればするほど、愛情を注げば注ぐほどに、きっとこの子たちが将来応えてくれる。でもね、決して見返りを期待してはいけないよ。それは本当の愛情なんかではない。本当の愛情に見返りなんてものは存在しない。だからこそ私もうちの人(母の父)も、あなたに対して多くを望まなかった。望まないようにした。ただあなたが生きてくれてるだけで、私たちは幸せだったから。どんな苦労も、どんな大変なことも、将来のあなたの幸せそうな姿を想像していたら、どうでも良くなっていた。あなたにもそうなってほしい。完全じゃなくてもいい、私も手伝うから、少しずつでも、自分と子供たちの関係を楽しめるようになってほしい』」


 そこまで一気に語ると、目を開き一瞬和義を見た後、全員の視線から逃れるように目をそらしながら、話を続けた。


「と母は言っていたけれど、私には母の言いたいことがわからなかった。理解したいとも思わなかった。泣いてばかりいる達也達の気持ちもわからず、いやわかろうともせず、虐待は続いてた。けど、達也達が初めて私を『ママ』と言ったとき、とても嬉しかった。その時も達也達を放置してて、ずっとテレビを適当に見てた。ただ見てただけで、内容なんてどうでも良かった。その頃には家事すらもできなくなってて、今でいうところの鬱病のような感じになってて、そんなときに達也が『ママ』って言いながらハイハイしてきて、私の体に抱きついてきたのです。いつもなら突き放すんですが、そのときに気づいたんです。達也が寂しくてよってきてることに。私の体に抱きついてきて、私を見つめてきてもう一度『ママ』って言ったときに、私は泣きじゃくって達也を抱きしめました。そのときになって、達也たちをかわいいと思えるようになりました。達也と和也が私を必要としてくれていることに気づいたのです。考えてみたら当たり前のことなんですけどね。だけど達也たちの気持ちがわかっても私のイライラは我慢できず、すぐに虐待したり、達義さんと喧嘩したりしてましたが、それでも治そうとは思ってたんです。でも、どうしても子供に手をあげてしまう自分自身に嫌気がさしてきてて、ずっとこんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。そんなときに、和也の事故が起こりました。それで更に自分を責めて責めて、でも達也たちに対しての行為は止められず、そうこうしてるときにある事件が起きました」


 そう言ってから、和子は和義の方を見てから一呼吸おいて話を続けた。


「その事件についてはあえて言いません。ただ、自分の身に危機が及ぶ夢をよく見るようになっていました」


 父以外全員驚いていた。達也も思わず顔をあげ母を見た。


 和子は一呼吸の後再び続けた。


「その夢がきっかけで、このままでは私も子供たちも決して幸せになれないと思って、それで一家心中しようとして……」


「それで例の火事騒ぎですか」


 山仲医師がそっとつぶやいた。母はうなずいて、再び話を続けた。


「それからは、ずっと実家を守ってた母さんがこっちで住んでくれるようになりました。それで、少しずつ良くなっていってたつもりだったんですが、達也が広田君の目の前で飛び込み自殺を図って。あの子実は自分の名前だけでなく、暴行されてた記憶もとんでたみたいで、完全に記憶喪失みたいな状態になってたんです。私たちは和也のときのように、それを利用しようとしてました」


「そのアイディアを出したのも私です。もちろん先ほども言ったように、自分たちに都合の良いことは吹きこんでいません。達也はいつの間にか記憶を取り戻したのだと思います……おそらく悪夢を見続けたことで」


 父がそう付け足した。


「わかってますよ、ちゃんと信じてます」


 山仲医師がそういうと、達也が両親に声をかけた。


「大丈夫だよ、本当に悪夢を見て思い出したんだ。あの交通事故から意識を取り戻して数日後かな。一時的な記憶喪失だったこともあって、いろいろ思い出したんだ」


「そうか……」


 両親がどこか寂しそうにうつむいていたのが気になった。


 山仲医師は、再び全員に話しかけるように話をしだした。


「わかりました、だいぶ話がそれましたけど、話を戻しましょう」


 全員再び山仲医師の話に耳をかたむけた。


「今までの話を聞いてますます推察できました。その火事のとき、基本人格の達也君はどう思ったでしょう? 幼いながらもこんな怖い目にあわせた母親を憎んだかもしれません。いつか殺されるんじゃないかと恐怖におののいていたかもしれません。そして達也君、今のあなたのように、逆に好かれるようにしようと思ったのかもしれません。好かれようとすること、それは裏を返せば、嫌われないようにすることであったり、誰かから怒られないようにするためだったり、それこそ、必要とされるようにするためだったり、様々です。達也君、あなたはもしかして、自分の身を守るために、周りに好かれるようにしていたのではないですか? そして周りに誰かがいてほしいのは、寂しさもあるけど、いつか殺されるかもしれないという恐怖からと、自分を否定されないようにするためだったのではないですか?」


 全員の視線が達也に向けられた。達也はその視線に耐えられなくなって顔をそむけた。沈黙が続くかと思ったが、広田がすぐに達也に詰め寄った。達也を自分の方に無理矢理向けて。広田の目にほんの少し涙があふれてきていた。


「ちゃんと話せよ! そんなに俺たちのことが信じられないのかよ、そんなに俺たちは頼りない存在なのかよ?」


 すると達也が叫んだ。いつもと違って覇気のこもった激しい声。誰もが聞いたこともないような声で、達也は叫んだ。


「ああそうだよ、信じられないよっ! どうやって信じろって言うんだよ。実の両親も信じられなかったのに、赤の他人まで信じられるわけないじゃないかっ。赤の他人に、何度も母親や和也を殺したいと思ってたなんて言えるかよ」


 そのあまりの気迫と内容に、広田だけでなく山仲医師以外全員が驚いてしまっていた。


「それがあなたの本当の気持ちだったんですね」


 山仲医師が冷静にそっと話しかけた。達也は、言いすぎたと思って、肩を落として顔を下に向けていた。


「達也君、いいんですよ、そうやって自分を出すことが、今あなたに必要なことです。そして、」


 そう言ってから今度は和也を見てこう言い放った。


「和也君、あなたもですよ」


「えっ!?」


 達也と和也以外全員の声が響いた。

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