第十五章・和也の真実と達也と

「あなたも、まだ何か言いたいことがあるんじゃないですか?」


 和也を達也以外が見つめる。達也には山仲医師が言いたいことがなんとなくわかった。だが、それを止める気にはなれなかった。自分だけでなく和也もまた、何かを変えるべきときなのだと思ったのだ。


「僕もですか――そうですね、確かに言いたいことはあります。先に言っておきたいのですが、僕も兄さんと同じで、他人を信じることができませんでした。それでも聞いてもらえるんですか?」


 急にいつになく神妙に語る和也は、広田達を見つめていた。その姿を見ながら、広田を筆頭に和義と父が和也に語りかけていった。


「あったりまえだろっ、俺たちは親友じゃないか。たとえお前たちにとって俺が親友でなくても、俺はお前たちを親友と思ってる。お前たちが信じようが信じまいが関係ない」


「もうここまできて今更僕をのけ者にしないでよ。ここまできたら意地でも聞くよ、全部聞くまではここを離れないから」


「私も母さんも聞く義務がある。いや、親としてではなく一人の人間としても、和也、お前のことも聞きたい。話してくれないか?」


「全員同じ気持ちですよ。話していただけますね?」


 最後の山仲医師の言葉を聞いて、和也は全員から少し視線をはずしながら語り出した。


「僕は記憶を取り戻して気づいたことがありました。まぁ正確にはついさっき、丘上での一件の後だったんですが、僕も兄さんと同じだったようなんです」


「それはつまり、統合失調症だった、ということですか?」


「はい」


 そう和也が力強く返事をした。誰もが驚きの声をあげなかった。なんとなくうすうす気づいていたのだろう。もしかしたら、と思っていたようだ。達也が統合失調症を発症するほどだったのだから、当然和也だって発症していても不思議ではなかったから。


「ただ、僕は事故で記憶を失ったことで、兄さんほどひどいことにはなっていませんでした。まぁ、脳障害のせいでずいぶんと母さんたちや達也兄さんに迷惑かけてしまったし、記憶が戻った時に変な声が聞こえたり、いつの間にかあの公園にいたり、崖から落ちそうになったりしましたけど」


 和也が幼少期のあの出来事を、事故と言ったことが、達也への気遣いの表れだと達也は思って和也に感謝して、ますます和也を好きになった。


「そう言えば、この夏に達也がけがしてから、自分でも心配かけないようにしようとしてたって言ってたけど、もう少し具体的に教えてくれないか?」


 広田が軽く質問した。ずっと気になっていたようだ。


「そうだね、例えば僕が記憶を取り戻すことになった、あの栗拾いのときのこと。あのときもいつものように兄さんは僕を気遣ってくれてた。けど僕は『大丈夫だよ』と言って、兄さんを安心させようとしてたんだ。ちゃんと足元を見て歩いたりしてるから、心配ないよって。まぁ、今にして思えば当たり前のことだったんだけどね」


 そう言って自嘲気味に少し笑ってから続けた。


「本当は兄さんに、もう心配しなくていいから、ほっといても大丈夫だからって言いたかったんだけど、なかなか言えなかった。実を言うと、まだ家族って気がしてなかったんだよね」


 全員が驚いた。これには達也も気づいていなかったため、思わず顔をあげて、目を見開き、和也を見た。和也は少し達也の方向へと向き直りつつも、うつむいて話し出した。


「記憶を失ってから、ずっといろいろなことを教わり、いろいろなことを覚えていったけど、それって結局聞かされて理解しただけのものだった。別に信じてなかったってわけじゃないよ。ただ何か変な感じだった。家族って気がしなかったんだ。そもそも家族が何かもわかってなかったしね」


 和也がまた自嘲気味にほほ笑んだ。目は悲しそうだった。


「でもなんだろう、僕はそれで良いと思ってた。違和感があってもこれでいいんだって思ってた。その理由が記憶を取り戻してわかったよ。僕は現実から逃げてたんだね。記憶がないことをいいことに、真実から目をそらしてたんだ。家族なのに家族じゃない状態よりも、家族じゃないのに家族のような感じに、ずっと逃げていたんだ。誰もが羨む理想の家族であってほしいと思ってたんだ。それが違和感のあるものであっても」


 それから沈黙が続いた。


 何分かして山仲医師がポツリとつぶやいた。


「なんとも悲しいことですね」


 誰も何も言えなかった。いつしか全員別々に椅子に腰掛けていた。誰も何も発しない時間が続いた。山仲医師の妻も娘も、医院をとっくに閉めて受付前で立ち尽くしていた。窓の向こうからフクロウの鳴く声が聞こえてきた。山に囲まれている街のせいか、たまにフクロウが町中にいるようなのだが、誰もその姿を見た者はいないという。大方どこかの屋根裏にいるのだろうというのが、専門家の意見だった。


 山仲医師は、そんな重苦しい空気を振り払うようにして、話をしだした。


「達也君の話に戻りますが」


「まだあったのかよ先生」


 広田が思わず言い放った。山仲医師は申し訳なさそうに頭をかいてから続けた。


「話はもうちょっとだけ進みます。今の達也君がうまれたのは、実質最初の自殺未遂である、交通事故による自殺未遂の後ではないかと思います」


「どういうことですか先生?」


 今度は和也が聞いた。


「この事故のとき、火事のときの記憶力の曖昧さと違って、本当に記憶を少し失ってたんですよね?」


「はい」


 達也は一言だけ返事をした。それを確認した山仲医師は話を続けた。しっかりと達也を見ながら。


「その時に母親とかから自分の名前とかを聞かれて、そのまま自分のことだと、思ってしまったのではないですか?」


 全員がまたも驚いて山仲医師を見つめた。山仲医師は、また全員を見渡しつつ話をした。


「みなさん、すりこみという言葉を知ってますか? ある種の動物の子供が、産まれてすぐに見たものを親と思ってしまうという現象です」


「ちょっと待って下さい、達也を動物と一緒にしないで下さいよ」


 父が反論してから、広田が続けた。


「いや達也だけでなく、他の誰でもなんないだろ」


「そうでしょうか?先ほどの火事の件にしたって、達也君の記憶と真実が違ってたじゃないですか」


「いやまぁ、確かにそうだけど……」


 広田は思わず口をつぐんだ。


「人の記憶ほどあやふやでいい加減なものはありません。たとえ絶対的な自信があっても、間違えることもあります。ましてや死にそうな目にあい、記憶障害を起こし、混乱してたときなら、なおさらです」


「僕が記憶を失ってからのが、いい例だよね」


 和也がゆっくりとそう言った。全員が納得した顔でうなずいた。


「一応確認しますが、この時に和也君への想いや自己犠牲のことなどの情報を、達也君に信じ込ませてたってことはないですね?」


 山仲医師が少しだけ睨むように両親を見つめながら聞くと、父がすぐに反応した。


「そんなことは断じてしてません。火事の時も、和也に対してどう思ってるかとか、罪の意識を植えさせるようなことはしてません」


 突然の山仲医師の質問と父の返事のやりとりに、周りの誰もが驚いて、二人を見ることしかできなかった。


「本当ですね」


「はい、誓って言えます」


「私もです」


 両親の真剣な表情に、いや少し父が怒っている様子を見て、山仲医師は二人を信じることにしたようだ。


「わかりました。疑ってすいません」


「いえ、疑うのは、当然だと思いますので……」


 山仲医師が両親を見つめるのをやめて、周りの他の人間は心底ホッとしていた。山仲医師は、二回深呼吸してから、再び全員を見ながら話をしだした。


「その二度目の自殺未遂の時、基本人格の達也君は死にたくて自殺しようとしてた。けど生きていた。生きていたけど、再び恐ろしい目にあいたくなかった。また怖い想いをするのが嫌だった。そのときに、またもう一人の自分を生み出したのかもしれません」


「それが俺ってことですか?」


「正直なところわかりません。無責任な話ですいません。まぁ一番可能性がある推察としては、その本来の自殺未遂のときに一度記憶を失っていたことで、記憶があやふやになり、いくつかに分かれていた人格が基本人格と一つになり、今の達也君になった、という可能性です」


「どういうことですか?」


「まぁ早い話が、今の達也君がまぎれもない本当の達也君なんだろうってことです」


 その場にいた誰もが安堵の息を吐いた。そして達也を見た。達也は何かを考え込んでいるようだった。ずっとうつむいていた。


「兄さんどうしたの?」


「俺は本当に基本人格なんだろうか?まだよくわからないんだ。なんだか、まだ自分の中にもう一人の自分がいるようで」


「あなたには頼れるだけの人間がいます。何でも話せばいいじゃないですか。先ほどのように」


 達也が山仲医師を向いた。心配そうに両親は達也を見、広田も和義も達也を見ていた。達也は、不安そうに山仲医師に語り出した。


「けど先生、俺怖いんです。やっぱり怖いんですよ。自分がまた殺意を抱くんじゃないかって。いやそれどころか意識がなくなってる間に、とんでもないことをしでかさないかって。正直言って、ずっと夜寝るのが怖いんです」


「そうですね、難しいところです。実際私の前で別の人格としか思えない存在が現れてましたし。ですが気持ちを強くもって下さい。そして、もっと自分と周りを信じて下さい。もちろん、周りもまた信じられるような人間でないといけませんがね」


 山仲医師はそう言ってから周りを見渡した。達也も周りを見渡した。すると全員が口々に達也に話しかけた。


「バカ言ってんじゃねぇよ、俺がそんなことさせっかよ。愚痴りたくなったらいつでも言いにくればいい。なんだって聞いてやるよ。俺も何でも言うけどな」


「兄貴、僕もできる限り味方になるよ、力になる。だから諦めないで」


「兄さん、僕は死なない。兄さんといつも一緒って決めたんだから。殺されるような墓穴はほらない。それに僕は信じてるから、兄さんはそんなことしないって。でも無理してほしくないから、言いたいことがあったらなんでも言って。どんな暴言でも、僕聞くよ。けど理不尽なことだったら言い返すけどね」


「達也、私たちに気を遣わなくていい、頑張りすぎなくていい、私たちに落ち度があるならなんでも言ってほしい。昔の幼児期の頃と違って、今の達也にはそれができるだけの力がある、知恵がある。きっと私たちのことを信じられないだろうけど、少なくともあの本当の自殺未遂以降、私も母さんも、達也たちのことを愛していた。それだけは信じてほしい」


「私たちが言ったところで信じられないだろうし、なんだか恩着せがましく聞こえるだろうから、私は何も言わない。ただ、どんなかたちであれ、元気で生きていてほしい。私の望みはそれだけよ」


 達也は、全員の顔を再び見渡した。全員が笑顔だった。笑顔で達也の次の言葉を待っていた。


「フッ」


 っと鼻で笑ってから達也は言い放った。


「広田、和也、俺は愚痴りだすと、多分止まらないから、覚悟しとけよ」


「望むところだぜ、もう二十四時間でも四十八時間でも連続で聞いてやるって」


「いやいやいや、それは長すぎだよ広田君」


 和也が本気で焦っているのを見て和義が笑い、達也も広田も笑い出した。


 ひとしきり笑ってから、達也と和也が両親をまっすぐ見据えた。両親は静かに立ちあがった。


「父さん、母さん、俺、いや和也もだろうけど、正直まだ完全には信じることできない。許すことなんてできない」


 達也は一瞬つばを飲み込んでから続けた。


「今日いろいろ話してたら、いろいろなこと思い出して、正直どうしていいかわからないんだ。けど、この数年間のことは信じることができる。だってこの数年は、まぎれもなく本当の家族だったから。父さんたちが頑張っていたことを知ってるから。この数年を否定して、なかったことにするのは、俺にはできない。それに、婆ちゃんの言ってたことも信じられるしさ」


 そう言って達也はうつむいた。達也の脳裏に祖母の姿が現れた。おそらく和也と両親の脳裏にも、ありし日の祖母の姿が現れたことだろう。母の母でとても優しいおばあさんであった。達也と和也にあの丘の公園のことを教えたのも祖母だった。いつしかその場所は父も知ることとなった。


 達也は顔をあげてまた話し出した。


「それと俺、これからはもっと強くなる。今の自分が本当の達也なのかは、まだ正直よくわからない。けど、俺は俺として弱い自分を変えてみせる。そうすればもう一人の俺だって現れない。そう思うんだ。もしかしたら基本人格の達也が現れるかもしれないし。それまでこれからも俺は和也を守り続ける。それは俺が自分に課した償いだから。和也が許してくれても、それだけは変えられない。けど今までみたいな、無謀なやり方ではない。俺は和也と一緒に生きる。和也を助けながら生き続ける」


「僕も変わるよ。強くなる。そして、兄さんや父さんや母さん、和義を守れるような人間になってみせる。どんなことがあったって諦めない。兄さんとともに生きる」


 そう和也が言い終わると、和義が二人の間にわって入り、同じく両親を見て言いだした。力一杯和義なりに虚勢をはって。


「僕も兄貴たちに守られなくてもいいように努力する。そして、父さんや母さんや、兄貴たちを助けられるようにするよ」


「なーまいってんじゃねぇよ」


 毒づいた達也だったが、内心うれしかった。和義と和也の頭を優しくなでながら、


「これからは、俺たちで父さんと母さんを助けていこうな」


 と言ってほほ笑んだ。


 それを聞いて父が三人の息子を抱きしめ、涙ながらに「お前たちは最高の息子たちだ!」と叫んだ。


 達也は、珍しく泣きじゃくる父の体をそっと離し、一回二回と小さく深呼吸してから、母に話しかけた。できる限りの笑顔で。


「一つだけ言えてないことがある、その、今更なんだけど、」


 一呼吸おいてからまっすぐに母を見て、達也は、いや和也も一緒に力強く言い放った。


「母さん、産んでくれてありがとう」


 母の目にみるみるうちに涙がたまっていき、両手で顔を覆いながら、うつむき、


「私こそ、達也も和也も和義も、三人とも産まれてきてくれて、本当にありがとう」


 と言ってから泣き崩れた。それを達也が優しく抱きしめ、和也と和義と父がほほ笑んで見つめていたが、いつしか目に涙がたまっていた。広田と山仲一家は、遠巻きにこの光景を見つめて微笑んでいた。達也は少し気恥ずかしさがでたが、あえて気づかないふりをしていた。

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