第十六章・弟たちの願い

「さぁ皆さん、夕ご飯はうちで食べていって下さいな。ささやかですけど、達也君の快気祝いを用意しました」


 山仲医師の妻が、ずっと泣いていた母が落ち着いたのを見計らって、ようやくといった感じで全員に話しかけた。


「まぁ、冷めちゃったんで温め直さないといけないですけどね」


 ほほ笑みながら話したのは、山仲医師の娘。


「妻の料理は冷めてもおいしいんですっ!温め直す必要なんかないですよ」


「いいえ、温め直しますっ!」


 少し山仲医師の妻が怒っているように見えた。が、実際には彼女なりの冗談のようで、口は笑っていた。その後医院の二階、山仲一家の住居部分の広いリビングで本当にささやかなパーティーが始まった。ささやかだが、部屋中にアンティークで高価そうなものがいくつもあり、いつ見てもここだけ豪華だなと達也は思っていた。


 まるでフランス料理のような料理が次々と出てきて、最後にデザートのモンブランを食べつつ、和也が和義に話しかけた。


「和義、そろそろ寝たほうがいいんじゃない。こんな遅くまで起きてたことないでしょ?」


 天井近くにかけられた、これまたアンティークで高価そうなハト時計を見ると、もう二十三時を過ぎていた。初めてここに招待されたとき、和義だけでなく、和也と達也でさえハトが飛び出るのを見て、とてもはしゃいだものだった。


「えっ、和也兄ちゃん心配してくれるの?」


「そんなの当たり前だよ」


「だって僕、兄ちゃんにいろいろひどいこと言ったし」


「いいんだよ和義は。何も知らなかったんだから」


 だが、和義は困ったように頭をかきながら答えた。


「でも僕、なんだかそういうの嫌だな。何も知らなかったことを言い訳にしてるようで」


「和義、どこで覚えてきたのそれ?」


 達也も同じように思っていた。


「内緒」


 一瞬沈黙が流れた。今度は父が和也に話しかけた。


「和也、本当にいろいろとすまなかった」


 父が急に深刻な表情をして、頭をさげた。和義も和也も達也も驚いて父を見た。


「元はといえば、私が家のことを顧みなかったのが原因なんだ。本当にすまなかった」


「謝ってすむことじゃないよ」


 責める和義を和也は制した。達也はなるべく父たちのやり取りを直視しないように、緑茶をゆっくり飲みながら聞き耳をたてていた。


「いいんだよ和義。父さんも母さんも一生懸命だったんだ。自分だけの力で何とかしようって思いすぎただけなんだ。もっと周りに話していれば良かっただけ」


「和也」


 父が顔を上げて和也を見た。顔中涙でいっぱいだった。反対側の位置に座っている母も和也を見つめながらコーヒーを飲んでいた。


「父さん涙ぐらい拭きなよ、みっともない」


 ほくそ笑みながらそばにあったハンカチを渡す和也。


「あっああ、そうだな」


 苦笑気味にハンカチを受け取り、涙とともに顔を拭く父。


 父は少し気になることがあったらしく、和也に質問した。


「なぁ和也、どうしてあのときあんなこと言ったんだ?『いつも兄さんが助けてくれてた』って。実際は助けてないこともあったことは、記憶の戻った今なら完全に知ってることだろ、達也に気を遣ったのか?」


 達義の突然の質問に和也は面食らっていた。達也はますます聞いていないふりをするように、父たちに背中を向けて緑茶のお代わりを頼んだ。母は少し視線を落としてコーヒーカップを適当にいじっていた。


「兄さんは確かによく助けてくれてたよ」


「けど――」


「うんわかってる、父さんの言いたいことはよくわかってるよ。母さんの言うことも間違いじゃない。僕は全部知ってる。覚えてるよ。まぁここ最近、そんな記憶も薄れていってるけどね」


「忘れていってるってこと?」


 和義が質問してきた。和也は父の視線から逃れるように、和義の顔を見つめて答えた。


「そうだね、忘れていってるんだと思う。なんといっても、いくら思いだしたって言っても、遠い昔のことだから。それに、脳の障害の影響も多少はまだあるようだし。僕はこのまま忘れてもかまわないと思うんだ。だって今の方が断然、家族って感じだから。今更だけど、ああ自分の家に、家族の元に帰ってきたんだなって思えるから。兄さんも言ってたけど、父さんたちちゃんと頑張ってくれてるしね。このまま忘れた方がいいと思うんだ」


「和也」


 父がそうつぶやき、何事かを話そうとしたが、和也はスッと立ちあがり、二人だけでなくリビング全体にも背を向けて、天井付近を眺めながら話を続けた。


「なんてね。本当は忘れたくないこといっぱいなんだ。忘れたくても忘れられないのもある。うん、今でも鮮明に覚えてる、鬼の形相で僕の身体に乗って、首を絞めてきた母さんの顔」


 父も和義も青ざめてうつむいてしまった。母も悲しそうにさらに視線を落とし、達也はこっそり和也の様子をうかがった。父と和義の向こう側に見えた和也は、一瞬しまったとばかりに口に手をやりながら母のほうを向いていた。その視線に気づいたのか母が顔をあげて和也に無言でうなずいてみせた。和也はそれを見て安心したのか手をおろして、父たちに背中を向けて語りだした。


「やっぱり兄さんはすごいよ。兄さんだって怖いのに、わざと母さんを怒らせるようなことしてるんだから」


 和義が何か言いそうになったのを、父がそっと手で制し、首を横に振った。和也はまだ続けて話している。


「兄さんが助けてないときって、実はほとんどが僕が代わりに怒られてるときだったんだ。ほら、山仲先生も言ってたでしょ?周りが見えなくなる、聞こえなくなるって。そんなときに限って母さんが機嫌の悪いときだったりするんだ」


「はぁ?」


 二人同時に呆れたような声を出し、和也を見た。母も驚いて凝視した。達也はなぜか恥ずかしくなって頭をかいてうつむいて緑茶を一口飲んだ。なぜか和也が照れたように頭をかいた。


「でも僕全然苦じゃなかったんだ。いつも助けてくれる兄さんの代わりができるって、むしろ嬉しかったんだ。それでつい笑顔になってまた母さんに叱られるんだけどね」


 二人ともまるで息ができないかのように、どん引きしていた。


「兄ちゃん、それで本当に良いの」


 和義が、おそらく誰もが思っていたであろう疑問を投げかけた。


「うん、いいよ。だから、そういう記憶は覚えておきたかったりするんだ。唯一兄さんの役にたててるときだから」


「ねぇ和也兄ちゃん、もっと別のことで役に立つことをした方が良くない?」


 と和義が言うと、和也は振り返って不服そうにつぶやいた。


「うーん、別の方法が思いつかないんだからしょうがないでしょ」


 一瞬の沈黙ののち、父が少し息を吐き、うつむきかげんで、


「私はもう何もいらない。ただ、子供たちと和子の笑顔があればいい。元気であってくれさえすれば、それでいい。もう変な高望みなんてしないよ。自分は自分らしく、家族みんなを見ていきたい」


 と言ってから、和義の頭をなでながら、和義に話しかけた。


「和義、なんかずっと騙してたみたいな感じで、ごめんな。和義も、言いたいことはなんでも言ってくれていいからな」


「じゃあ、お小遣い、もうちょっと上げて」


「それは却下」


「何でも言っていいって言ったじゃん」


「言っていいとは言ったが、何でも願いを聞くとは言ってない」


「ちぇっ、ずるいや」


 そう言ってふくれっ面になる和義を見て父は、


「和義は、今のままでいていいぞ」


 と言った。その姿を見て達也と和也と母がほほ笑んでいた。


「何それ? 意味わかんない」


 父は、そのままひとしきり笑った。久しぶりに心から笑えたようだった。そんな父を見て、和義も笑った。だがすぐに真面目な顔つきになり、父に聞いてきた。


「じゃあ、これから聞くことは答えてよ。和也兄ちゃんの脳障害って、どんな感じだったの?」


 急に父が黙りこくった。達也は背中を向けてうつむいたまま緑茶を飲み、母は父の言葉を待つように見つめていた。和也は自分の席に戻ってうつむいて食べかけのケーキをゆっくり食べだした。広田は達也の様子を見ながら達也に話しかけつつも、少し気にしていたようだった。山仲一家は、なるべく意識しないようにしているのか親子でたわいない話をしていた。


 しばらく躊躇して沈黙が続いた後、父がゆっくり語り出した。過去の話を。時折母と達也と和也が助け舟をいれながら、話し出した。

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