第十七章・脳障害とリードと

 それは、和也がジャングルジムから落ちた後の話。十一年前の話。


 和也の脳障害もあり、入院したままにして治療を進めることとなったが、記憶障害のこともあり、時々親同伴で外出していたこともあった。外に出て今までいた場所に行けば、記憶が戻るかもしれないという当時の主治医の考えからだった。このときはまだ山仲医師はいなかったため、港町の大学病院に転院していた。


 外出させるにしても、和也にはどうしても見過ごせない問題があった。このとき和也が陥っていた病は、以下の三つ。


 一 重度の記憶障害となり、過去の全てを忘れただけでなく、言葉も忘れ、赤ちゃんと同じ状態になっていた。


 二 脳障害により、半身不随に近い状態となり、左半身が動かしにくい状態になっていた。さらに、脳腫瘍のような物が見られ、非常に危険な状態であった。ただこの腫瘍と思われるものは、手術で取り出すことができ、完治できていたが、半身不随の麻痺状態を治すリハビリが必要だった。


 三 注意欠如多動性障害(ADHD)であった。これは、不注意・多動性・衝動性を特徴とした行動の障害である。


 和也の場合は、多動性が強く見られた。学習障害の精神医学的障害を合併しているようだった。原因は、二の脳障害ではないかと予測された。


 半年ほど病院でリハビリと、学習を中心に治療していた。その間は、達也の面倒は祖母と父で見、和也は母がかかりつけの医者やリハビリの先生と看ていた。とはいえ、多動性の影響で、学習は思った以上に難航していた。どれだけ教えていても、すぐに興味が他にそれたり、突然何かを思いついたらしく何事かを話したりしていた。話と言っても、脳障害の影響もあって、何を話しているのか理解不能で、悪く言えば、犬のうなり声のようにしか聞こえなかった。


 医者たちは根気よく和也のことを看ていたが、母自身の精神が崩れていっていたが、誰も気づく余裕などなかった。


 それでも、和也を始め看病している人たちにとって救われたのは、毎日達也が祖母とともに見舞いに来ていたことだった。和也は達也と祖母がいるときだけは、非常に集中力が高くなり、学習が効率よく進んでいった。どうやら母からの虐待を体が覚えていて、母のことを無意識に拒絶していた。


 達也と祖母のおかげでリハビリは好調に進み、半身不随も若干足に違和感はあれど、普通に立って歩けるまでに回復した。そして、記憶喪失自体は治っていないまでも、記憶中枢の吸収力が高くなっていて、達也達の教えることを次々覚えていき、普通に生活できるだけの状態にはなった。吸収力が高いのは、多動性の影響もあるかもしれないと、誰かが言った。


「多動性は〝絶えずせわしなく動き回る〟。それは、逆に言えば〝いろんなことに興味を持ち、いろんなことを知ろうとしている行動〟。良く言えば、好奇心旺盛なのである。そういった子は、興味があればどんどん吸収していく。どんどん覚えていく。天才少年と呼ばれていた子供たちがまさにそれに似ている。昆虫に興味をもつあまり、様々な昆虫の名前と姿を覚えたり、暗算に興味をもった子は暗算の優れた子になり、鉄道に興味があって調べていくうちに鉄道博士とまで呼ばれるようになった子もいる。和也は、まさにそういう状態なんじゃないか?」


 とその人は言った。


 そんなこともあって、半年というとても早い段階だが、和也を退院させようとなった。もちろんすぐに退院ではなく、時々外出させて様子を見ながらの決断であった。だが多動性だけでなく、衝動性もまだ少し見られたため不安があった。突然車道に飛び出したり、川に飛び込んだりする危険性があった。


 そこで、祖母が一つの道具を出してきた。それが、子供用リードであった。これは、犬のリードのように首に巻くのではなく、体に取り付けたり、子供用リュックにつけたり、子供の腕にくくりつけて、反対側のひもを親が持ったり、親のベルト等にくくりつける物。これは、まだ達也達が母のおなかにいたときに、父がアメリカへ社員旅行で行ったときに、お土産で買ってきた物だった。今後の子供たちの成長を考えて。


 ただ祖母の「犬じゃないんだから」と言う言葉と、母がそのリードで達也の首を絞めたり、リードをつけて散歩に出て公園のトイレにくくりつけて放置したまま帰ってきたり、リードをくくりつけたままブンブン振り回して投げ飛ばしたり(父とたまたま通りかかった広田の父によって、達也たちはけがなくすんだ)など、生死に関わるような虐待をしていたので、祖母の手によって封印された物であった。


「本当は、私だってこんな物に頼りたくはないわ。けど、急に道路に飛び出して、もしものことがあったら」


 まるで淑女のような、白髪としわはあるが、とても若々しい祖母は、苦しそうにつぶやいた。祖母は良く赤を基調とした質素な着物を着ていた。この日もそうであった。


「確かに、車にひかれるよりはましだよな」


 父はそう言いながらも、悔しそうにしていた。ただ、母にとっては、


――結局私に全部押しつけるのよね。


 という想いが強くあった。しかし、この頃にはもう和也たちのことを疎ましく思っておらず、むしろ何とかしょうと思っていた。思ってはいたが、母の精神は崩壊寸前であった。


 それでも、約一年半もっていたのは、達也や周りの家族の支えあってのものだった。達也自身に、母を支えたという意識はもちろんない。母の虐待は少なくなってはいたものの、たびたび祖母たちのいないときに、達也に対して虐待をしていたことはあった。しかし、達也は我慢していた。無意識のうちに母に気を遣っていたのだろうか、決して虐待のことを話したりはしなかった。


 それでも、どうしても祖母たちにバレたことはあった。電車に乗って隣町まで買い物に行って、和也と共に放置されたときは、さすがに祖母に連絡して、助けてもらった。そんなこともあって、電車の乗り方とか切符の買い方とか覚えたのだろう、七歳のある日和也が家出をした。この当時は、あくまでも脳障害のせいということになっていた。


 そんな家出事件のあった年、もう一つ悲しい事実を突きつけられた。近所の小学校が、和也の入学を断ったのだ。小学校側の理由もわかる。そもそも小学一年生では、まだまだ目の離せない子が多い中、それよりもさらに目が離せないどころか、他の子と同じことができないのでは、教育もできない、だから和也だけのに面倒を見られないというのは、もっともな話だった。


 そこで和也だけ、少し離れた山の麓にある、小さな養護施設に通わせることになった。そこはまさに和也のように、脳障害を受けた子供たちが通う学校だった。中には、養護施設で寝泊まりしている子供もいた。そんな場所で和也は学習することになった。


 和也は、確かに多動性と衝動性があるものの、興味のあることへの集中力が高く、養護施設内でもトップの成績であった。だがそれでも、やはり達也がいないことの不安からなのか、時折集中力がなくなり叫び出したり、そうかと思えば鬱病のようにうつむいたまま何もしなくなったりしていた。


 そんな中、小学二年になり八歳の誕生日の朝、火事事件が起こり、近所の空き家に引っ越し、九歳になる少し前に達也が死にかける自殺事件があり、和也は自分がしっかりしないといけないと、子供心に思うようになった。


 それから、和也はちょっとずつではあったが、変わっていった。だが、衝動性はなかなか抜けなかったため、翌年小学四年生の十歳になっても、外を出歩くときは、リードをつけていなくてはいけなかった。


 そんなある日、達也が両親と祖母を集めて言い放った。


「和也にリードなんかいらないよっ!」


「けどな達也、父さんたちだってこんなことしたくないけど、和也の命を守るためなんだよ。車にひかれて死んでしまったら、何にもならないだろ?」


「そんなの、僕がちゃんと止めるし守るから、リードをはずしてあげてよ!」


 本当はこのとき、後に広田から教えられるのだが、ずっと学校で「和也が犬みたいだ。弟が犬だから、兄の達也も犬だ!」と冷やかされ、いじめられていたという。そのたびに「和也は犬じゃないっ!」と叫んでは、喧嘩していたという。だが達也はその事実を話さなかった。自分のことはどうでもいいと言わんばかりに、自分の身に起こっていたことは話さなかった。それは考えてみれば、母から虐待が行われるよりましだと思っていたのかもしれない。


「和也も僕も同じ人間だよ、同じパパとママの子供だよ! 何も違いなんてない」


 達也の必死の叫びが、祖母の心を打っていた。だが、あえて両親の判断に任せようと思って、無言で二人を見た。この頃にはすでに、火災で焼失し放置状態だった家を改装した喫茶店で働き始めていた二人の耳に、時折心ない言葉が聞こえていた。


「子供を犬か何かと思ってるのか?」


 そんなことを言う人に、いちいち説明していくのは、正直もう疲れていた。自分たちも、いつまでこんな物をつけていなきゃならないのかと思っていた。苦しんでいた。


「和也ばかりに、辛抱させてちゃいけないよな」


 父がポツリとつぶやいた。


「今は昔と違って、私も自由に動ける。和子と和也ばかりに我慢させなくていい方法はある。大変だろうけど、今の私たちには、そうしなくちゃいけない理由もある。そうだろ?」


 そう言って母を見る。母は自分がしてきた罪を思った。達也も自分がしでかした罪を思い出していた。いや正確には両親から教わったことを思い出していた、と言うのがこの段階では正しい。


「私たちはあの子と達也を産んだ。その子供たちに、自由を束縛するような生き方をさせたくはない。我慢させるようなことはしたくない。きれい事なのはわかる。現実的ではないだろう。それでも、私は子供たちの自由を束縛したくはない。その想いは和義に対しても同じだ」


 いつになく力強く語った父を母は眩しそうに見ていた。


 こうして、この日を境に和也の体からリードがなくなり、できる限り和也の送り迎えは、父と達也で行い、休みのときなんかは、無理に自宅に隔離するようなまねはせず、率先して外で遊ばすようにした。細心の注意をはらって、和也をのびのび自由に育てることにした。


 最初のうち陰からこっそり父と祖母が見守り、本気で危険なときには達也と和也二人を助けていたが、いつしか広田もまた、和也を守るようになってくれていた。もちろん、広田は和也の状況をよくわかっていなかったが、達也のまねをするようになってくれた。と同時に、本人たちの気づかないまま母の精神的疾患もなくなり、虐待は完全になくなっていた。


 そして、和義が五歳になる年、和也は近所の八友中学校へと、達也とともに通うことができるようになった。


 この、山の上にあり森に囲まれた自然豊かな地にある学校は、創業当時は別の学校名であったが、友情の塔と呼ばれる像が建ち、同時期に八人の学生がいくつもの事件を解決させたことにより、この名前になった。このときのことがきっかけとなり、養護教室なる教室ができた。そこにはいわゆる、知的障害や脳障害の生徒たちが学習する教室があった。


 和也も養護教室に入る予定だったが、達也の必死の呼びかけにより、養護教室とは違う通常の教室で、達也だけでなく広田とともに、同じ教室で学生生活を送ることになった。


 そうしていく上で、和也は普通の人と変わらなくなった。顔面麻痺の影響があって、笑顔に見えたり、若干視力と聴覚が弱かったり、子供っぽい性格だったりするが(たまに、興味がそれて衝動的に動くのを、子供っぽい性格なんだ、ということにしてたらしい)、他は全く普通の学生となっていた。


 そして、今に至る。

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