第十二章・混じり合う想い

 達也たちが向かった先は、小高い丘の上にある、街を一望できる公園だった。崖沿いにベンチがあり、普段はカップルが夜とかに眼下に見える町並みを眺める、絶好のデートスポットであった。


 そのベンチのそばで和也は立っていた。和也は物思いにふけって街を眺めているようだった。表情は達也たちからは見えなかった。


「懐かしいなここ」


 達也の突然の言葉に、和也が驚いて振り返った。


 今は和義に離れてもらい、ベンチの縁に片手を置いて、和也の近くで達也は立っていた。いつの間に来たのか気づかなかったことに慌てて、その場を立ち去ろうとする和也の手を、精一杯の力を込めて達也が捕まえた。


「待ってくれよ和也、俺のことが嫌いなら嫌いでもいい。けど話を聞いてほしい」


 和也が振り返った瞬間だけしか見えなかったが、和也の目は虚ろだった。とても正気の目ではないことが、なんとなくわかった。


「和義が言ったことは気にしなくていいんだ。あいつ勘違いで言ってしまっただけで、本人すごく反省してる」


 相変わらず和也は顔をそらしたまま無言だ。やはり、和義のことが原因ではないのだろうと達也は思った。


「なぁ和也、確かに俺たち一家は昔からバラバラだった」


 そう言ってから達也は、和義がそばにいたことを思い出した。和義は達也のその言葉に驚いていただろう。何をもってバラバラだったと言っているのか?和義には達也の言葉の意味が気になっていただろうが、何も聞いてこなかった。和義の存在を達也はなるべく気にせず、続けて和也に話しかけた。


「でも、あの、お前が記憶を失ってから少なくとも父さんたちは、一生懸命変わってくれた。それだけは事実なんだ。俺のことが気にくわないなら、俺はもうお前の前には現れない。どっか別の所で一生を過ごす。お前が死ねと言うのなら死んでやるよ」


 和義が慌てて達也に反論しようと声を出すと、達也がそれを制した。和也は相変わらず顔を背けていた。


「なぁ和也、でも今の父さんたちのことは信じてやってほしいんだ。確かにいろいろあったけど、だからって、和也がいなくなる必要なんてないんだ」


 すると途端に、和也が達也の手を振り払って達也を見据えて叫んだ。その表情は無表情ではあったが、目に涙がたまっていた。


「そんなことないもんっ! 僕が消えれば何もかもうまくいくんだもん」


 それはあまりにも唐突のことだった。とても高校生が話すような口ぶりではなかった。いや、今までだって、和也はこんな口調したことがなかった。まるで、和也に似た別の誰かがしゃべっているようであった。


「和也、お前まさか」


 達也は和也が自分と同じであることに気づいた。しかし達也たちの驚きの隙をねらって、和也が柵を越え崖から飛び降りた。


 和義の叫び声とともに達也も飛び出した。和也の手を握り、もう片方の手で崖の縁につかまる達也。間一髪のところだが、いつ落ちても不思議ではなかった。ひたすら泣き叫ぶ和義に、


「早く誰か呼んできてくれ」


 と言う達也だったが、今にも和也をつかんでいる手が滑り落ちそうだった。和義は達也に言われて、フラフラになりながらも、麓へと走っていった。和也は気を失っているのか、目をつぶったまま動かない。


「和也、おいっ和也、起きろっ、目を覚ましてくれ」


 達也の声で気がついたのか、和也が目を覚ました。と、突然辺りを見渡して、驚いた声を上げた。


「なんでこんなことに?」


「頼むから暴れないでくれよ、手が痛いじゃないか」


 頭上を仰ぎ見た和也はようやく自分の状態を理解したようだった。達也も和也を見た。いつもの和也がそこにいたのでホッとした。さすがに笑顔ではないものの、いつもの弟の顔がそこにあったことに安堵して、思わず崖の縁をつかんでいるほうの左手を放しそうになった。


「兄さん、どうして」


「いいから俺の体を伝って、上に登るんだ」


「そんな、危険だよ」


「俺のことはいいから」


「よくないよっ。そんなこと言って、またどっか行くつもりなんでしょ。僕はもう嫌なんだ、僕のせいで兄さんや母さんが悲しむの、苦しむの」


「和也……」


 達也が力なくつぶやいた。達也の体力はもう限界だった。そもそも立っているのもようやくで、ここまで来られただけでもすごいことなのだから、当然だった。だから、もし和也が達也の体を伝って登ったら、達也は確実に力尽きて落下してしまうだろう。和也もそのことを察していただろう。和也はこれでも人一倍賢く、何でもよく気がつく。だから今回のもすぐに察したのかもしれない。しかしこのままずっといても、いつかは二人とも助からないことは確かだった。


「そうだ、僕が手を離せばいいんだ」


 思わず和也がつぶやいた。達也はすぐに和也の手を、さらに強く握って叫んだ。弱々しい声だったが、精一杯叫んだ。


「変な声に耳をかすな。 俺は、お前に生きててほしい、お前のいない世の中なんて、考えられない、頼むから悲しくなるような事言うな」


「けど、でもだって、兄さんは僕のことが嫌いなんでしょ?いつも、僕のせいで辛い想いをしてたんでしょ?」


「そんなこと誰が言った。俺は、確かに昔は、お前のことを疎ましく思ってたこともあった。けど今は違う。本当に大切に思ってるんだ」


「それはあくまでも罪の意識から」


「違うっ! あのとき俺がお前の元から逃げたのは、お前に嫌われるのが怖かったからなんだ。お前に人殺しって言われるのが、怖かったからなんだ。決して嫌いだからじゃない」


「兄さん」


 と和也がつぶやくと同時に、達也の体が下に少しだけずれた。いよいよもたなくなってきたようだ。達也が覚悟を決めようとしたとき、突然体が宙に浮いた。達也の体が上にあがった。もちろん和也も一緒に。


 二人して頭上を見ると、そこには父と広田がいた。二人で達也達を引き上げてくれていたのだ。引き上げられた二人は父と広田と同じように、地面の上に座り込んだ。


 二人が何かを話し出す前に、父が達也と和也を抱きしめて、助かったことを涙ながらに喜んだ。


「父さん」


 二人同時につぶやき、改めて周囲を見渡してみた。いつの間にかそこには和義や和子だけでなく、仲間たちが立っていた。よく見ると、なぜか山仲医師まで来ていた。心配になって一緒に来てくれたのだろう。母は涙ぐんで立ちつくしている。


 ひとしきり喜び泣いてから、父は達也と和也の体を離した。ばつの悪そうな顔で、恥ずかしそうにしている。顔が赤いのは周りをはばからず泣いたことに対してのものなのかよくわからなかった。


 達也と和也は、素直に父に、


「父さん、ありがとう」


 と同時に言った。すると、父はうれしそうにほほえんで二人の頭をなでた。その後、達也がうつむいてつぶやいた。


「ごめんな和也、いつも俺のせいで、お前に辛い想いばっかりさせて」


 和也は、そんな達也を見つめてしっかりと答えた。


「どうして、どうして兄さんはいつもそうなの?」


 全員、和也の言っている意味がわからなかった。和也が続けて話しかけた。


「兄さんはどうしてそうすぐに、自分で勝手に決めちゃうんだよ。どうして全部自分一人で抱え込んじゃうんだよ」


「だ、だって、それはお前が」


「僕は、兄さんを苦しめてまで、自分だけ楽になんかなりたくない。だから記憶を失ってたときも、兄さんが苦しんでるのを見て、いっとき自分なんて消えてしまえばいいって思ったけど、頑張ったんだよ。半年前の夏に兄さんが大けがしてからも、自分の身ぐらい自分で守れるようにしようとしたんだ。兄さんに守られなくていいように、しっかりしようとしてたんだ。そして、今度は僕も兄さんを守れるようになりたいって思ってた。だから、先月のあの山でのときだって」


 その場にいた誰もが驚いたようだった。栗拾いの時の事故は、てっきり和也が足を滑らせたのだと思っていたようだ。そして、記憶を取り戻したあの日、突然幼い頃の記憶が戻ってどうしたらいいかわからず、達也に助けを求めようとしていたのに達也が逃げてしまい、和也はずっと悩んでいた。達也に嫌われたと思って。記憶が戻った、なんて言ってしまったから、また達也が自分のことを嫌いになったのだと思った。


 和也のその想いを聞いて、達也は驚いて和也を見つめた。


「もし、もしも」


 急に和也の口調のトーンが暗くなった。


「もし、僕がそばにいることで兄さんを苦しめてるなら、僕がいなくなればいいと思ったんだ。そう思ったらなんだか急に気が遠くなって、気がついたらここにいた。幼い頃にいつもここに二人で来ていたこの場所に。ここでいろいろ思い出していたんだ。記憶を失って言葉も失ってから、なかなか言葉を理解できず、当然名前なんかも覚えられなかった頃、母さんが隠れて泣いていたり、兄さんが自殺未遂をしたときに、自分は一体何なんだろうって思ってたことを思いだした。一人悩んでたことを思いだした。何度か家出をしようとしてたことだってあった。僕がいなくなれば、みんな苦しまないんじゃないかと思って。だけどすぐに見つかって、そのたびに脳疾患の影響ってことになって、僕の本当の気持ちに気づかれずにすんでいた」


 あっ!と、両親と広田と達也が小さくうめいた。


 和也は、ふっと崖を見つめた。その目はもうこの公園で見かけたときのような目ではなかった。


「ここに来てそういったことを思い出してたら、なんだか自分を消してしまいたくなってた。でもさっきの兄さんの言葉で、考えを改めたよ」


 全員がホッと胸をなでおろした。


「そしてもっと思い出したんだ。あのとき兄さんに蹴飛ばされたとき、とてもショックだった。あの頃の僕たちには、他にお互いを慰められる相手がいなかったのに」


「慰める?」


 仲間たちと和義の疑問の声が聞こえたが、その声には答えず和也は話を続けた。


「僕たちにとって信じられるのは相手だけだった。僕は兄さんで、兄さんは僕しか。だからあのとき兄さんにも裏切られたような気持ちになった」


 両親がうなだれ肩をすくめていた。達也はそれをなるべく気にしないようにして、和也の話に耳を傾けていた。


「それで、記憶をなくしてたんだと思う。つらい事実を、悲しい現実を忘れてしまいたくて。けどね、僕は思い出したんだ。いつだって兄さんが僕を守ってくれてたことを。いつだってそばにいてくれてたことを。あの事故以来ずっと両親から兄さんのこと、嘘教えられてたわけだけど、中には真実もあったんだよ。本当のこともあった。今ならわかる。ただちょっと、父さんたちは過大評価しすぎてただけ。だから僕も、兄さんのことを異常なほどに尊敬することになったんだ」


 和也の、達也を思う気持ちは、実際異常なところがあった。達也も当然両親にやめるように言ったり、和也に両親のは冗談だと説明しても、和也はなぜか両親の言う事をますます真に受けて、達也のことを尊敬するようになっていた。達也たちは、和也の話の続きを黙って聞き続けた。


「きっと兄さんが僕のことを疎ましく感じていたのは、僕が兄さんに甘えすぎてたからだよね。だから僕は、兄さんの重荷にならないように兄さんに甘えないように努力する。だから兄さんも約束して。もう二度と命をはるような、命を賭けるようなことをしないって。自分を責めないって。自分を傷つけないって。だって僕は、兄さんのこと恨んでないんだから。怒ってないんだから。僕も兄さんのいない世界なんて考えられないよ」


「か、和也」


 そうつぶやいて、達也はその場で泣き崩れた。何度も何度も謝りながら。だが徐々に声が小さくなっていく。達也はそのまま気を失った。

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