第七章・生きる理由

――なんだ、何かが口の中に入っている。寝起きに何が入っているのだ?


 達也が目を覚まし、目を開ける前に口の中に変な感触を抱いていた。何かがうごめいていた。


――なんだこれ、気持ち悪い。


 目を開けると達也は自分が木の根元で座っていたことに気づいた。そして目の前に広がっている惨劇に思わず悲鳴をあげそうになっていた。


 朝もやの霧の中で見えたのは、目の前に広がっていたのは、赤く血まみれになった落ち葉の上にあったのは、何匹もの犬や猫の死骸だった。そして、自分の口に入っていたのは、鳩だった。


「うわー」


 慌てて口から鳩を出し立ち上がってその場から離れようとした。しかし、すぐに立ち止まり、血だまりと化している背後の光景をそっと見た。


――これはなんだ、どうなってんだ


 自分のおかれている状況が全くのみこめなかった。山仲医院を飛び出して、どこかの山の中で一夜を過ごし、適当に山の中を歩いていると数日後には港町が見える山の上に出ていた。


 その頃には足が痛みだし、何も飲まず食わずだったため空腹で立ち上がるのもままならない状態だった。港町を見下ろす山頂で達也は死を覚悟していた。


――ようやく死ねるのか


 そう思いながら、そのまま座り込んで寝転がって気を失った。そして気が付いたら目の前に惨劇が広がっていた。


 おまけに気を失う直前まで空腹で足も痛かったのに、今は何ともなかった。真っ赤な血のりで汚れた服は、見たことのないものだった。


――なんなんだよ、いったい、何だって言うんだよ。


 達也の思考が停止され頭の中が混乱して動けなくなっていた時、背後で足音が聞こえた。


「あの、どうかされましたか」


 女性の声だった。学校のクラスメイト達のような、頭の痛くなるような金切り声ではなく、澄んだ透き通った声だった。


――や、やばい、変に思われる。もし警察でも呼ばれたら、大変だ。


 達也は慌ててその場から離れようと、走りだそうとした。しかし、死骸の一つに足を取られて転んでしまった。すると、その女性の遠慮がちな笑いが聞こえた。


 達也は思わず座った状態で振り返って弁解しだした。


「い、いや違うんだこれは、俺も今気が付いたらこんなことになっていて、びっくりしてるんだ。信じられないかもしれないけど、俺のせいじゃないんだ。違うんだ」


 もう何が何やらよくわからないことを口走っていた。女性の顔は見られなかった。足元しか見られなかった。女性はネグリジェのような白い洋服を着ていたが、それよりも自分がやたらと慌ててしゃべっていることに気づいて、頭をかいてうつむいた。


「あの、できれば見逃してもらえるとありがたいんだけど」


「うーん、でも人の庭先でこんな事されたら、ちょっと困ります」


「へっ、庭先?」


 思わず顔をあげて聞き返した。始めて凝視したその女性の顔は、まるでフランス人形のようにきれいだった。金髪の髪は腰まであり、パーマがかかっていた。顔だちは本当にフランス人のような顔立ちで、目の色が青だった。


「はい、ここはわたくしの家の庭です」


「はぁ!?」


 思わず叫びそうになって周囲を見ると、確かにすぐ近くにヨーロッパ調の建物が建っていた。


――ここ日本だよな


 達也はさらに周囲を見てみたが、気を失う直前まで見えていた港町が見えなかった。達也は困惑して立ったまま気を失いそうになっていた。


「何かよくわかりませんが、お困りのようですし、わたくしの家に来ませんか」


「えっ、いや、ダメだろ、俺なんか家に入れちゃ」


 また達也が慌てて拒否する姿が面白いのか、また静かに笑って女性は告げた。


「いいんですよ、わたくしの両親は当分帰ってきませんし、他の方たちにはうまく言っておきます」


――他の方たちって言うのは、お手伝いさん的な存在か。


「いや、やっぱりだめだ。俺の事はほっといてくれ」


 そう言って踵を返して立ち去ろうとした達也の腕を女性がつかんだ。


「待ってください、服も汚れていますし、そんな姿で街に行ったら大騒ぎになってしまいます」


「別に街に行くつもりなんかないさ」


「じゃあ、どこへ行くんですか?」


 達也は思わず立ち止まって考え込んでしまった。すると、達也のお腹のむしがぐぅと鳴った。達也は思わず頭をかいてうつむいた。


「とりあえず、中でお料理をお出ししますわ」


「いや、だからそれは」


「あら、女性のお誘いを断って、わたくしに恥をかかせますの」


 一瞬の躊躇の末、頭を下げて、


「ああ、もうわかったよ。飯食ったらすぐ立ち去るからな」


 とつぶやいた。


「はい」


 その女性はなぜか嬉しそうに満面の笑みで返事をした。その笑顔は、誰かに似ている気がしたが、全くわからなかった。


 結局達也は飯だけでなく風呂と洗濯まで世話してもらい、今は立派なリビングのソファに座っていた。どう見ても洋館であるこの家の構造と存在に違和感を抱きながらも、ソファに座ってココアを飲んでいた。


「それでは達也さんは本当になぜあんなことになっていたのか、わからないのですね」


「ああ、そうなんだ。そもそも、ようやく死ねると思っていたのに、何だってこんなことに」


「どうして死にたいと思われてるのですか」


 達也が無言でうつむいた。まりあという名前のその女性は、持っていたコーヒーカップをガラスのテーブルの上に置いて、達也に話しかけた。


「何があって自殺をお考えになっているのか存じませんが、死んでもどうにもなりませんよ。そんなことしたってなにも変わりません」


 達也が顔をあげ女性を見ると、女性がうつむいていた。その表情は暗く、先ほどまでの明るい表情がなかった。


「死ねばすべて丸くおさまるなんてことはないのです。絶対に」


「あんたに何がわかるって言うんだよ」


 達也はイライラしていた。そのイライラがどこからくるものなのかわからなかった。


「生きていたくても生きていけない人もいるのに、死にたいというのはぜいたくな事です」


「うるせぇ」


――あ、あれ、俺何を口走っているんだ?こんなこと言いたかったわけではないのに。


「あんたはいいよな、生きる理由があって」


「生きる理由って、必要な事なんでしょうか」


「はぁ、何を言ってるんだよ」


「生きる理由がない人は、生きる資格もないのですか?ただ生きていたい、生きていてほしいというのではいけないのでしょうか?」


「意味がわかんねぇよ。俺はもう出るぜ」


 そう言って立ち上がったが、女性の言葉が彼を止めた。


「あなたは、そうして拒絶して生きていくのですか」


「なんだと」


 振り返った彼の顔は怒りで顔が歪んでいた。それでも女性は気負いせずに優しく語りかけた。


「逆に聞きますが、あなたには生きる理由がないのですか?生きる理由がなくていいのですか?」


「うるせぇ、黙れこのあまっ」


 そう怒鳴って女性の体を押し倒し、馬乗りになって首を絞めだした。彼女の表情がみるみる青ざめていき、もだえ苦しむ姿を見ても、彼は首を絞め続けていた。


――やめろ、やめろ、やめろーっ


 達也が心の中で叫んだ。すると、首を絞めていた腕が離れ達也は立ち尽くし、女性を見つめた。


 女性は白目をむいて倒れていた。何も動かなかった。何の気配も感じなかった。


 達也は大きな悲鳴を上げて飛び出した。屋敷を飛び出して、森を駆け抜けていくと、港町から少し東にそれた集落に出た。呼吸を整えて立ち止まっていると、一人の老人が現れた。


「おまえさんどうしたんじゃ、こんなところで」


 達也は再び逃げ出そうとしたが、彼女の事も気になりしどろもどろになりながらも屋敷の女性の事を話した。ところが、屋敷の女性と会ったと言ったところで、老人が怪訝な顔で聞き返してきた。


「屋敷の女性じゃと、この山の中にそんな屋敷も女性もおらんぞ」


「へっ、いや、だって俺、確かに」


 達也がしどろもどろになって反論していると、いつの間に来たのか老婆が会話に加わってきた。


「そりゃ爺さん、きっとマリアさんのことじゃろう」


「何を言うとるか、彼女はもう何十年も前に死んでるじゃろうが」


 一瞬にして達也の顔色が変わっていった。それを見てとった老婆がマリアという女性の話をしてくれた。


 マリアというのは、老婆と老人がまだ幼い頃、九十年前にこの土地に住んでいたフランス人一家の一人娘であった。今やただの森と雑草まみれの険しい山となっているが、かつては丘を利用したきれいな庭園が広がっていた。


 その中心の館にそのフランス人一家が住みだしたのは、マリアの病気療養のためだった。マリアの病気は、当時の医学では治すのが難しいとされていた。そのため彼女はいたく悲しみ、自分のために苦労している両親を不憫に思っていた。


 その悲しみと病気の苦しみは彼女の心をむしばみ、とうとう彼女は自殺してしまった。それは、彼女の病気を治せる治療法が見つかる前日のことだった。


 彼女は、誤った選択をしてしまった。もう一日待っていれば、もう一日自殺を思いとどまらせていれば、マリアは確実に助かっていたのだった。


 しかし、時すでに遅く、マリアの父は彼女の悩みを聞かなかったとして妻をきつく当たり散らし、酒びたりの毎日を暮らし、妻でありマリアの母もまた、自分を責め続け、ある朝夫と共に庭園ごと屋敷を燃やして、何もかも灰にした。


 残っていたのは、庭園の裏にあったマリアの墓のそばで抱きしめあって横たわる黒ずんだ二体の骸骨だけだったという。それこそがマリアの両親であるという話になり、今ではマリアの骨壺とともに近くの神社で眠っている。


 達也はそれを聞いて、フラフラと先ほどまで屋敷のあった場所へと向かった。そこには、周囲と違って大きな広場となっている場所があったが、屋敷どころかなんの建物もなかったし、あれほどきれいだった庭園もなかった。


 先ほどのあれは夢だったのかとも思ったが、少し先に動物の死骸があったし、何より自分の手にはまだ残っていた。マリアの首を絞めていた暖かい何かの感触の後が。


 達也はそのまま泣き崩れた。


――俺は、俺はどうしたらいいって言うんだ。俺は、俺は。


「あなたにとっての生きる理由って、本当にないのですか」


 ふと、マリアの言葉が耳に入ってきたような気がした。

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