双子物語~罪と罰~
虫塚新一
序章・悪夢
右も左も後ろも前も真っ暗な空間に、一人の男の子が辺りを見回しながらゆっくりと歩いていた。
年の頃は六歳頃。丸顔で子供特有の利発そうな感じ。少し汚れた白いTシャツに泥まみれの短パン姿であった。顔をゆがめ、時より体を小刻みに震えさせながら、ゆっくりと歩いていた。
ここは全くの闇であった。どこをむいても何も見えない。どこを歩いているのか、どこへ行こうとしているのかさえわからない。
わかっているのは、背後のはるかかなたにあるであろう、何かから逃れようとしていることだけ。匂いさえも感じなかったし、わずかな音さえほとんど聞こえなかった。
ただ男の子の姿とその周囲だけが、ぼんやりと霞がかかったように見え、男の子の小さな足音だけが不気味に響いていた。まるで昔行った田舎の村にあった、トンネル内を歩くような音が聞こえるだけであった。
歩いているのか早足で歩いているのか、歩かされているのかどうかさえ怪しく思えてきた頃、突然背後の闇から声が聞こえてきた。男の子は立ち止まり、その場で硬直した。いやな予感がしてふりかえられない。
男の子が立ち止まっていると、声が近づいてきた。声は初め聞こえるか聞こえないかの小さなもので、初め何を言っているのかわからなかった。しかし、しだいに理解できた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・てぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・けてぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・助けてぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ん助けてぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・・ゃん助けてぇー」
「・・・・・・・・・・・・・・ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・・・・・・・・兄ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・・・・・ぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・・・・よぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・・・いよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・・しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・・・・・苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・・ぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・・よぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「・いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「痛いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
男の子はいつしか大きく激しく震えだしていた足をたたいて、走り出していた。しかし声は追ってきた。
「痛いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「痛いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「痛いよぉー、苦しいよぉー、兄ちゃん助けてぇー」
「やめてっ、やめて、来ないでっ」
男の子は、奇声とも言える声を叫びながら走り続けた。走りながら心の中で、この声の正体に気づいていた。そしてどんな状態で叫んでいるかも。頭の中に、その光景が現れる。
真っ赤にそまった地面の上でくの字におり曲がり、小刻みに震える男の子と同じ小さな体。声の主の異常な姿だった。震えていた体の速度と頻度がどんどん小さくなっていく。と同時に黒眼部分が次第に失われていき、両の瞳はうつろに開き、苦悶の表情を見せ、口からは白い物が出てきていた。
ただ声だけは何度も何度も出ていた。子供特有の小鳥のさえずりのようなかん高い声が、次第に老人のようなしわがれた声に変わっていった。
男の子はいやな光景をふり払うように、とうとう更に大きな奇声を発しながら走り出した。暗いくらい闇の中、男の子と彼の奇声となぞの声だけが存在していた。
永遠に続くかと思われたが突然終わりがきた。男の子の足もとから地面がなくなったのだ。いや暗くて見えないため、それがちゃんとした地面だったかどうかは、わからない。ただ今は、男の子は悲鳴をあげながら落下していた。
とうとつに体が止まった。止まったというよりは、まるでエレベーターに乗って下降しているような浮遊感があったかと思うと、落ち始めと同じように、とうとつに落下はおさまった。
いつのまにかどこかの床の上に立っているような感覚がした。まわりは相変わらず暗い。先ほどまでのなぞの声は聞こえなくなっていた。
男の子は、なぜか痛まないおしりをさすりながら立ち上がった。もう声が聞こえないことに胸をなでおろすが、今度は体中に何かがぶつかってきた。いやそれはぶつかってきたのではなく、殴ってきているのだ。
目の前に鬼の形相をした、大人の女性と男性の顔が浮かんでは消えた。その顔はゆがんでいて、どんな人物かはっきりとはわからなかった。ただひたすら男の子に対して暴力をふるい、ひたすら汚い何かを叫んでいた。
男の子はすぐさま目をつぶり、耳をふさいでうずくまり、泣きながら謝り続けた。しかし暴行と暴言は収まらなかった。次第に男の子は思うようになっていた。
――これは夢だユメだ。これは僕じゃない、ボクが体験しているんじゃない!
そんな想いがふくらんでいったとき、突然何者かの声が聞こえた。
「代わってやろうか?」
それは男の子の声に似ていた。いやもしかすると、男の子自身の独り言だったのかもしれない。
男の子はその声に耳を預けた。全てを預けることにした。痛みがなくなるのなら、嫌なモノがなくなるのなら、全てを預けてしまいたいと男の子は思った。すると声は更に聞いてきた。
「望みを叶えてやるよ。どうしたい、本当に一番望んでることは何だ?オレたちが代わりに何でもしてやるよ」
「僕の望み、僕の望み、それは……」
男の子の言葉が終わる前に、突然真っ白い光が男の子を包み込んだ。悪夢からの目覚めのときであった。
いや、悪夢なのか現実なのかもわからない夢、記憶の奥底に沈めてしまいたいモノ、そのモノからの解放、というのが正しいのかもしれない。
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