第9話 「その時」は来るか
地球温暖化で二酸化炭素を削減しようという人類をあざ笑うかのように、海外で大規模な森林火災が立て続けに起きている。人類が一生懸命削減しようとしている二酸化炭素など軽く吹き飛ばしてしまうほどの二酸化炭素が放出され、失われた森林が吸収するはずだった二酸化炭素も放置されることになる。自然は人類の努力を一瞬で吹き飛ばす。こういう状況を見ていると人類は偶然によって生かされているだけなんだろうと感じる。地球規模の異変が起きたら人類などひとたまりもない。
近未来SF映画のような人類の終わりがくるもかもしれないと思う。
このまま自然環境が悪化して、食べ物や飲み水が少なくなっていった時、私はどうするだろうか。
うちには井戸もないし、私がやっている家庭菜園くらいでは到底食べてはいかれない。食べ物や飲み水の値段があがっていくとなると、どこまで値段高騰についていけるのか。量を減らして、回数を減らして、いつも空腹な状態で、他人に優しくできる精神をどこまで保てるだろうか。
映画や小説の中でパニックが起きる状況下で自分勝手な登場人物がいるけれど、それとそっくりなことをしないでいられるだろうか。
生きたいとあがく姿を浅ましいとは思わない。可能性があるなら、捨てるべきではない。でも、それでも生きられないとなったら、どんな気持ちになるだろう。
人類の存続という点だけ見るなら、生きる可能性の高い人を生かすべきだと思う。若い人、子どもを産む可能性の高い人、体力がある人‥そうした人が優先されるべきなのだろう。そうした人達に快く道を譲れるか。
夫がパニック映画が好きなので、時々見るが、私は自分を名もなき一般市民に重ねてしまう。例えば、溶岩が噴出するなら、真っ先に溶岩に飲まれてしまう人だし、恐竜が追いかけてくるなら、建物に逃げ込もうとして追いつかれて食われてしまう人だし、船が沈没するなら船体から投げ出されて海に沈む人だ。
困難な状況に陥った時、最適な判断が下せる自信はないし、下せたとしてもそれを実行できる体力も器用さもないと思う。
でも、そうした「その時」は、たぶん一瞬で終わる。
時間がかかって、少しずつ状況が悪化していくような場合はどうだろう。
食べ物が足りなくなって、店から少しずつ買えるものが減っていき、おひとりさま1個とか制限がついたり、先着順でないと手に入らなくなったりしたら。
一つの食べ物を奪い合うような世界になったら、どうするだろうか。子どもがいる人に譲ってあげられるだろうか。
死ぬ間際にどう行動するか、私はこんなことをなぜ考えているのだろう。
多分、「こういう人でいたい」とか「こういう人にはなりたくない」という人物像があるからだと思う。
世界は変わっていくだろうけど、どういう人間でいたいかというのは、どんな状況でも忘れてはいけない気がする。
その結果、命を失うことになっても、少なくとも自分自身は満足できるはずだから。
でも、一番難しいのは、もう終わりだという「その時」の見極めだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます