第11話 父の不在
父が入院したと母から連絡がきた。
最近、すっかり足が弱って家の中の歩行も危なっかしくなっていた父が、夜中トイレに行ったまま立てなくなってしまったのだそうだ。そのまま救急車を呼び、入院ということになったそうだ。
週末にならないと時間が取れない。母とLINEのメッセージをやりとりするが、母からのメッセージから父の正確な状態がつかめない。高齢者のメッセージはなんでこうわかりにくいのだろう。句読点の付け忘れは多いし、主語が無くなるので、何のことを言っているのかわからない。聞いたことの半分も回答を得られないままだった。
ともかく、週末、両親宅でお昼を食べてから病院の父のところに面会に行った。
父は、目を開けていた。私を見ると、へらっと笑い
「よく来たね」
と言った。
「大丈夫?」
と聞くと、なんだか頼りない表情で
「さあ、大丈夫というか、なんていうか」
と答えた。自分がまだ立てないということが不安なようだった。父の腕には点滴がしてある。入院からずっと点滴をしていて、昨日針をつける腕を替えたと言っていた。
立てずに自分でトイレに行けないので、おむつをつけているのだそうだ。
「おむつって中でしたら濡れて気持ち悪くなったりしないの?」
と聞くと
「それが、さらっとしていて、びっくりしたよ。全然気持ち悪くないんだ」
と答えた。おむつなんてしたくないと言っていたのに、意外と抵抗がないらしい。
「でも、トイレくらいは自分で行けるようにならないと」
とおむつ生活は今だけという感覚のようだった。
病院に来る前にお昼を食べながら、母と同居している兄が言っていたことが頭をよぎった。
「もう在宅ではみられないとケアマネージャーには伝えてあるんだ。だから、このまま施設に入ることもあるかもしれない。リハビリしても回復しないって医者が言ってたし」
どこまで父が先のことを描いているのかわからない。でも、今はまだ、このまま家に帰れないなんて思ってもいないだろう。
自分で立てるようになってトイレくらい行かれるようにならないと退院できないというふうに思っているのではないだろうか。
毎日変わらず家で過ごし、好きな時に好きなように行動していた父。明日も続くと思っていた日常が、こんな風に終わるなんて思っていないだろう。
「毎日ぼーっとテレビ見ているとますますボケると思って、病室にテレビつけなかったんだ」
と兄は言っていた。ベット脇の机にテレビ画面はあったけれど、下を向けたられていた。使えないようになっているらしい。
テレビが見られないとは思っていなかったけど、本好きな父のためにお見舞いの品は本にしていた。でも、最近は目が悪くなっていて、字が読めなくなってきていると聞いていたので、字が見えなくても楽しめるように世界の変わった風景を撮った写真集にした。断層が波のような地形や、細い柱が固まってできたような岩の写真が載っている。父は私が持ってきた本を横たわったまま広げて
「おもしろい地層だね」
と喜んでくれた。横になったまま見るには、少し重いかったかもしれない。もっと薄い本にすればよかった。
こちらの問いにちゃんと答えるので、意識ははっきりしているようだった。そして、たぶん会話に飢えている。起き上がれないため、まだ同じ病室の人とも会話がないのだろう。父は休みなくずっと話し続け、私はうなづきつつ、会話が続くように言葉を選んだ。喉が渇いた様子を見せたので、ベット脇の蓋つきのコップにあった麦茶を飲ませた。ストロー付きだったので、父も楽に飲めた。
「もっと飲む?乾燥しているからかここは喉が渇くね」
「もういい。あんまり飲むとお腹が変になるから」
飲めばいいのに、と思った。元々父はあまり水分を摂りたがらなかった。今はおむつもしているので、トイレを気にしなくてもいいのに。
まだ話したそうだったが、少し疲れた様子を見せたので、お見舞いを切り上げた。
「今日はよく喋ったわ」
と母が言った。
母も一日ごとに行っているらしいが、緊急入院パックとかいうらしく、パジャマもタオルなどの身の回りのものも病院から貸し出されているので、靴下や眼鏡くらいしか本人の持ち物がない。洗濯物を持ち込んだり、引き取ったりしないので、母としても特に用がないのだ。話だけでもと思うけれど、母にとっては兄に頼んで車を出してもらうか、自分でタクシーや電車を使っていくので、毎日行くのは大変らしい。
そして、毎日一緒にいた夫婦だとそんなに話題がないのかもしれない。たまに会う「嫁に行った娘」の方が会話は弾むのかもしれない。私の役目はここなんだろう。
母も退屈しのぎにと本を持って行ったが、「目が疲れるからいい」と言われて持って帰らされたと言っていた。頭を使うような本はもうツライのかもしれない。
今の病院は緊急入院という扱いなので、あと何日かすれば転院先の話がわかると思うが、病院になるのか施設になるのか、まだわからない。
歩けないかもしれないと父は気付いているのかもしれない。車椅子になったら母と暮らした家で生活するのは大変だろうと思っているかもしれない。でも、このまま二度とあの家に帰れないとは、まだ思っていないと思う。
自由に気ままに暮らしていた父が、もう帰れないと知る時、どんなに深い諦めの気持ちになるだろうと思うと、胸が苦しくなる。施設に入ったとしても自分の希望をすべて諦めることではないとわかっているが、家で暮らすほどの自由度はない。
せめてもう一度、短い期間であっても、あの家に戻れるといいのだけれど。
※追記
その後、父は退院し、なんとか自宅での生活を続けています。
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