第10話 精神とシモの話
最近、大腸の環境が健康に大事と言われている。シモの話で何だか気がひけるが、精神状態とお通じは関係が深いらしい。
ところで「お通じ」という言い方は今も通じるのだろうか。「便通」と言った方が通じるのだろうか。20年ほど前に入院した時、看護師さんが朝ベッドわきに来て「昨日のお小水とお通じの回数は?」と聞いてきた時に初めてその言葉が本当に使われていることを実感した。でも、それ以来入院していないし、この間お腹を下して医者に行ったときに「お腹を下していて‥」と言ったら「下痢ってことですか?」と聞き返されたので、自分の言葉が通じなくなっているのかもと不安になった。
それはさておき、精神とお通じの話である。
私は、自分の体の不調に気づきにくいタイプの人間だ。体が丈夫なので、多少の無理がきくという思いがあるせいだろうと思うが、体の悲鳴に気付かないことが多い。
緊張するとトイレが近くなるという人がいるが、それは緊張すると自分の体がどう反応するか自覚できているということでもある。緊張という精神的なストレスと内臓の関係が自覚できているのはいいことだと思う。
私の場合はたぶん逆で、緊張するとお通じがなくなる。休日と平日でお通じの回数が違うなと思ったことが始まりだった。休日でも外出していると回数が減る。お通じと精神状態が密接なら、家にいてのんびりしている時はストレスなしの最高の状態のはずだ。そういえば、退院間際で病院内でよく食べ、好きな時に寝てという生活をしていた時に看護師さんに「昨日のお通じの回数は」と聞かれ、「3回です」と答えたら驚かれた。ストレスなしの状態だと、毎食後にお通じがあるというのが私の体のリズムらしい。社会人になって、絶対休めないとか責任が重い役割がある仕事の場合、その仕事が終わってからお通じがあったことがよくある。最近では、そういう時、「ホッとしたんだな」と自分の体を思うようになった。
高校生の頃、大体木曜にお通じがあった。日曜日もあった気がする。その当時はあまり不思議に思っていなかったが、今思うとすごくストレスを抱えていたということなのかもしれない。本人に自覚はなくて、ただ毎日忙しくしていたという思い出しかない。ごはんも普通に食べていたし、運動部ではなかったけれど部活動もしていた。なのに週2回程度のお通じ。そういえば、社会人になってからの数年も、そんな調子だった。特に不調はないと思っていたが、当時の自分を振り返るとストレスをたくさん抱えていたんだなと思う。今は毎日お通じはあるし、平日でも複数回あることもある。ストレスがないわけではないと思うが、感じにくくなったのか図太くなったということなのか。悩みもあるし、疲れもあるのに、それは精神的なストレスではないということなのか。まぁ、出ないより出るほうがいいので、ヨシとしておく。
トイレのことを「空想と思考の場」と言っていた友人がいたが、確かに自分の体の声を聴く機会ではあると思う。出したものを確認し、調子が悪いのか、原因は何かと思考する。不安に思ったら病院へ行くことを検討する。トイレの短い時間だけでも自分の体のことを思うのは、忙しいからこそ、必要なことだと思う。
自分の体の声を聴くというのは難しい。私は時々マッサージに行くが、その時に「今日はどこがどんな様子ですか?」と聞かれる。この問いの答えに毎回苦しむ。行くまでに体のチェックをして、肩が重いとか背中がだるいとか見つけておかないといけないのだが、みつけるためには「通常の体の状態」」が把握できていないと比べようがないのだ。
残念なことに私は自分の体の通常な状態がよくわかっていない。正常な状態がわかれば、自分で不調を治すこともできるのに。自立できていない人のようで、とても悔しい。
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