第3話 閉じる世界

 中高生の頃は「世界を広げろ」と周りの大人たちに言われた。

「自分のやりたいことをみつけるために、いろいろ知ることはよいことだよ」

「知識を深めることは将来の役にたつよ」

何が自分に向いているかわからなかったし、得意分野も自覚できていなかったので、私は興味が向くものに首を突っ込んでみたりした。結局、何にもならなかったが。

 で、大人になった今、世界を広げるのはとても力のいることだと感じている。

 興味を持ったものを追っていくこと、それを続けていくことは大人には大変だ。大人には「仕事をしてお金を稼ぐ」という役割があって、それとの両立が至難の業なのだ。

 最近、世の中で流行っているもの、テレビでやっているものがすべて面白いと感じなくなった。興味がなくなっているわけではない。知らない世界はまだあるし、クイズ番組で知識を得たりすることもある。

 けれど、おもしろいと世間が言っているものがすべて面白いとは思えない。感覚がズレてきたのかもしれない。

 でも、最大の原因は言葉だ。

 若い人の発音が不明瞭で早口で何を言っているのかわからない時がある。

 テレビ番組の街頭インタビューや、若手芸人の言葉が聞き取れない。

 近所のスーパーのレジや銀行の窓口の若者の言葉が聞き取れない。

 聴力が落ちているわけではない。音としては聞こえている。ただ、意味をつかむ前に次の音がきてしまうので、言葉としてつかみ取れない。

 もっとゆっくり、もっとはっきり話してほしい。

 コロナでマスクをするようになって、それはさらにひどくなっている。

 仕事で年配の人との接点が多いので、比較ができるのだ。

 そして、最近、思うことがある。

 年齢があがると世界は狭くなっていく。自分の交友関係、自分の手の届く範囲になってくるようだ。考え方やその人にとっての「常識」は、その人が一番元気だった頃のまま更新されなくなることも多い。

 それは決して悪いことではないのではないかと思うことがある。

 大体、今の世の中は細分化しすぎて、すべてに興味を持ってそこに精通してという状況は考えにくい。みんな、自分の興味のある分野は深く知っているが、興味のない分野は全く知らないのだ。そして、たぶん、知らなくても困らない。知りたい時に調べればいいのだ。

 いろいろな考え方の人がいるよね、という風潮だし、常識外れでも生きていける。世間の波に乗らなくても、過ぎていく波を立ち止まって見ていたっていいのではないだろうか。

 なぜ、年寄りは演歌を聞いて、時代劇を見るのか。

 それは、理解できる自分の世界が、あの中にあるからだ。

 演歌で使われるゆっくりした歌い方、表現されている男女の心情や情景。そして、時代劇で描かれる人情や勧善懲悪の筋書き。

 マンネリでも結末が読めていても、いいのだ。自分が理解できるように話が進んで、思ったような結末になる安心感。

「やっぱりそうなると思ってた」

それが大事なのだ。

 今、世の中にあふれる情報はとても多くて、不要な情報はシャットアウトしないと自分の器が壊れてしまいそうな気がする。広げることのできる世界が大きくて、追っていくと自分の器が薄く破けそうになってしまいそうだ。専門的な情報でも、探そうと思えば掘り下げることができる世の中は、良い面もあるが、危うい面もある。

私は、詰め込まれる情報より、情報を咀嚼して自分の身のうちに取り込む作業の方が大事だと思うのだ。そして、それをしていると取り込める情報は、それほど多くない。それは、自分で線を引いて、世界を閉じる作業なのかもしれない。

 若くて勢いがあるうちは、世の中の波についていけるし、波に乗っている楽しさもあるだろう。でも、ある一定の年齢になると、波に乗っていける体力はなくなる。その高さや荒さが怖くなってくる。そうしたら、波から降りて自分にあった流れを探せばいい。他の人がどう思おうが、自分が疲れなくて笑顔でいられることが一番だ。

 そういうわけで、私の世界は少しずつ閉じ始めている。

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