第7話 老いるということ
夜、母からLINEにメッセージがきた。
「写真の送り方、忘れた。どうやるんだっけ?」
横にいてくれると画面を見ながら説明ができるので簡単だが、離れているので言葉だけで説明するのは、ちょっと面倒くさかった。
この間、教えて、その時はできたのになぁ。
八十才を超えたにしては、母は頑張っている方だと思う。新しいことを覚えるのは少々ゆっくりになったが、物事の理解力はまだ何とかなっている。ずいぶん前に足を悪くしたので、歩行には杖が必要だし歩みはかなり遅い。でも、まだ料理もできるし買い物もしている。母より頭の回転が早く、知識も豊富だった父の方が最近ちょっと衰えが目立つ。あんなに理解力のあった父が「よくわからない」と口にするのを見るのは切ない。いろいろ考えるのが面倒くさくなってきたと言い出した頃から、坂道を転がるように父は新しいことが入らなくなっていった。
子どもの頃、両親は逆らえない大人だった。正しくて、私よりも物事がわかっている。年齢を重ねるにつれて、両親のいうことが絶対に正しいわけでもないのだとわかり、子どものことが全部わかっているわけでもないとわかった。そして、今、両親は私より弱者だ。力も知識も私の方が上だ。生活の経験値はかなわないが、社会への適応は私の方が上だ。両親の衰えていく姿を見ると、言いようのない寂しさがこみ上げる。
二人はもう走れない。がんばって早く歩く必要もない。急かすと転倒の危険があり、杖を使っている母はもちろん、歩行がおぼつかなくなってきている父も骨折でもしたらたぶん二度と歩けないだろう。だから、私も両親と行動するときは時間のことは考えない。時々、二人に行動の速さを期待していない自分が、ひどいことをしているような気になる。もうできないと決めつけている自分が両親を見下しているような気持ちがする。
父も母も自分が高齢者であることは自覚していて、できないことが増えていくことを冷静に受け止めているように見える。
「この間、渋谷駅に行ったの。乗り換えがわからなくて、うろうろしていたら若い人たちが助けてくれたの」
そう話した母に私は
「ゆっくり歩いていて突き飛ばされたりするかもしれないから、都心に行くのはやめなよ」
と言った。渋谷まで行かなくても、買い物はできるはずだと思ったのだ。
「年寄りは近場でうろうろするしかないのね」
寂しそうに母は言った。その時、しまったと思った。
母は日常と違う場所に出かけたかったのだ。毎日見ている風景ではないものを見て、自分とは違う暮らし方の人たちを見たかったのだ。
行動はゆっくりになったけれど、まだ一人で電車に乗れるし都心にだって行けると母は思っていたはずで、それは母にとっては大事なことだったのだ。
老いることは残酷なことだと思った。父は考えるのが面倒くさいと言った時、理解することをあきらめたのだ。世の中の流れは速く、新しい横文字の言葉はどんどん出てくる。父はそれを理解し、ついていくことをあきらめた。母は、母なりに諦めずについていこうとしている。二人の差はここだと思う。
二人と別れる日が近づいている。最近、特に実感する。あんなに自分の意見をはっきり言っていた父が、もう何も言わない。何かについての意見を聞いても「よくわからない」と言う。それがもどかしい。母は料理をしている時、よく焦がすようになったし、今まで同時進行でやっていたことができなくなった。正確に言うと料理はできあがるが、調味料を一種類入れるのを忘れるとか、仕上げに使うものの準備を忘れるとか細かいことができなくなってきた。たまに会うからこそ、老いの進み具合を感じる。
自分のことを考える。どこで、老いた自分を自覚するだろう。そして、できなくなっていく自分を冷静に受け止められるだろうか。
老いは等しくどの人にも訪れる。どんな気持ちで受け止めればいいのか、まだ覚悟できない。
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