六月十六日 火曜日
翌日、人形のことなどすっかり忘れている私はいつも通りに大学へ向かいました。
相変わらず空は
眠気と闘いながら、なんとかその日の講義をやり過ごし、午後五時前には大学を後にしました。
駅前のカフェで友人と一緒に来週が締め切りのレポートを作成する予定でしたが、予想以上に雨が激しく降っていたので移動が億劫になり、勉強会はまたの機会に延期となってしまいました。
他に予定のない私は、傘が意味を為さないほどの雨の中、一人でアパートへと帰ったのでした。
帰り道がいつも以上に長く感じられ、やっと部屋の前までたどり着いたときには、足元と肩がびしょびしょに濡れており、すっかり辟易していました。
開錠し、部屋の中に入ろうと玄関のドアを開けた瞬間、私の目に忌々しいピンク色が飛び込んできました。開けたドアの少し先、ヒールやパンプスが並べられているタイル調の玄関に転がっているそれ。
それは昨日捨てたはずの、あの人形でした。
「ひぃっ……!」
私は驚きのあまり、後ろへ倒れ込みそうになりました。
昨日、確かにゴミ箱に捨てたはずなのに、どうして玄関の、しかも内側に落ちているのか?
――ゴミ箱から這い出し、私の部屋までやってきた。
自らの意思で動く人形が、脳裏に浮かびます。
このアパートは玄関と室内空間を隔てる段差、いわゆる上がり
もし私が帰ってくるのが少しでも遅かったら、人形は部屋の中にまで辿り着いていたかもしれない。そしてベッドの下に隠れて夜を待ち、私の寝首を……。
そんな場面を想像していると、急に背後から声を掛けられました。
「どうかしました? 玄関で固まって」
外階段のほうから不思議そうな顔を覗かせていたのは、私の部屋のちょうど真下、一〇三号室に住む
青崎君とは大学が一緒で同学年でしたが、学科が違うため普段顔を合わせることはほとんどありませんでした。それでも、朝アパートを出るときや帰りの時間が一緒になることが度々あり、友人とまではいきませんが知り合いと呼べる仲にはなっていたと思います。
彼が電気工学科を専攻していることもあり、アパートに引っ越してきた当初、テレビやパソコンの配線をしてもらったこともありました。
「気持ち悪い虫でもいましたか。あ、僕も苦手なんで頼ってもだめですよ」
おどけた様子で話す彼を見て、私の思考に冷静さが戻ってきました。
人形が独りでに動くなんてあり得ない。私の思い違いなんだ。
「誰かのイタズラですかね。玄関に人形が落ちてたんですよ」
こわばった表情を無理やり笑顔にし、冗談めかした言い方で彼に応えました。
「人形?」
青崎君は私のそばまで来ると、玄関を覗き込みました。
「帰ってきたらあれが玄関の内側にあったんですか」
「そうなんです。気味の悪いイタズラですよね。ほんと」
「イタズラ、ですか。でも鍵は掛けてたんですよね」
「今どき、鍵も掛けないで外出する人なんていませんよ」
誰かが部屋に侵入した、とでも言いたいのでしょうか。しかし、部屋の中を見ても荒らされた形跡は無く、泥棒が入ったわけではないことがわかります。そもそも泥棒が人形だけ置いて帰ったなんて話は聞いたことがありません。
もしかしたらベランダから侵入されたのかとも思いましたが、ガラス戸はクレセント錠でしっかりと閉じられています。
部屋の鍵だって財布の中に入れて肌身離さず持っているので、失くしたこともなければ盗まれたこともありません。二〇三号室の鍵を開けることができるのは、私と、合鍵を持っている母だけです。
しかも、両親は三日前からオーストラリアへ旅行に行っています。出発前に電話がかかってきて、日本に帰ってくるのは木曜日になると言っていました。なので、母が私の部屋に侵入し、人形を置いて帰るなんてことは不可能なのです。月曜日の夜にはテレビ電話で会話もしたので、旅行自体が嘘だったという可能性も否定できます。そもそも、そこまでして母が私の部屋に人形を置きにくる意味も分かりませんが。
また、念のために言っておきますが、アパートの大家さんは合鍵を所持していません。引っ越し前の下見の際、両親が仲介業者の方に確認をとっていたので間違いありません。
「うーん、ぎりぎり入りそうだな……」
青崎君は人形を手に持つと外廊下へ出て行き、玄関扉の中ほどに設けられた郵便受けの口に人形をぐりぐりとねじ込もうとしていました。
「中が空洞で柔らかいから、頑張れば入りそうなんだけど」
ぎきゅっ、という音を立てて、人形の上半身が郵便受けに入りました。
「うん、こりゃいけそうだ」
さらに力尽くで押し込むと、人形は郵便受けに飲み込まれ、最後には部屋の中にぽろっと落ちていったのでした。
部屋の中を見ると、確かに私が帰ってきた時と同じような位置に人形が転がっていました。無理やり押し込められた人形は、顔がぐにゃりとへこみ、なんともおぞましい表情になっています。しかし、柔らかい素材なので、変形した顔はすぐに元通りになりました。
「これで人形の侵入経路は分かったわけだ。それにしても、誰がこんなイタズラをするんですかね」
「さあ……」
犯人の目星など私につくはずもありません。
青崎君は真剣な表情になると、少しトーンを落とした声でしゃべり始めました。
「そう言えば、二〇四号室の
二〇四号室、つまり私の部屋の隣なのですが、住人である沼倉さんとはあまり面識がありませんでした。たまたま深夜にコンビニへ行った際に見かけたことがありますが、ぼさぼさの髪に無精ひげを生やした彼からは不健康そうな印象を受けました。汚らしい風貌のせいで確かなことは言えませんが、私の目には二十台後半に映りました。
「友達の兄貴が同級生だったらしくてですね。彼、オカルトが好きみたいで、よく儀式めいたことをやってたって話です」
「……儀式、ですか」
「ええ。ノートに魔方陣とか呪文を書いていたり、ウサギ小屋からウサギを盗んだり。当時――中学生の頃の話ですけど、彼はアブナイやつだってのがクラスの常識だったみたいです」
猟奇殺人犯はその初期段階として小動物を殺傷する、なんて話をよく聞きます。沼倉さんには注意をしたほうが良いのかもしれないと、私は気を引き締めました。
「まぁ、いざとなったら僕の部屋に避難してきてくださいよ。男の一人暮らしだから散らかってますけど」
彼は冗談で言っているのでしょうが、その提案を聞いた私は、内心、そうしたいと思いました。見ず知らずの男の人というわけでもないですし、青崎君の部屋へ入るリスクはほとんどないでしょう。
「……お兄ちゃん、なんで女の人と話してるの」
声がしたほうを向くと、いつの間にか、外階段の降り口に小学生ぐらいの女の子が立っていました。
「お前、また遊びに来たのか」
青崎君は困った顔をすると、
「妹のユミです」
ひそひそと私に教えてくれました。
「……ねぇ、なんで話してるの」
「いや、なんでって言われてもなあ。ご近所さんが困ってるみたいだから話を聞いてただけだよ」
無感情な声のユミちゃんに、青崎君はおどけた口調で答えます。
「それよりユミ。明日から宿泊学習だろ。早く帰って準備しなくていいのか」
「…………」
青崎君の問いを無視し、ユミちゃんは私のほうへと近づいてきました。そしてじっと私を見つめるのです。
「えっと、どうか……した?」
「……お人形」
「えっ」
ドアが開けっ放しの玄関。ユミちゃんはそこに転がる人形を指さして、にたぁ、と嗤いました。
「そのお人形さん、お姉さんのことが大嫌いみたい。呪い殺されちゃうかもね、お姉さん」
そう言ってくるりと回り、私に背を向けると、
「ね! 一緒にラジコンやろう! 家でも練習してるから、この前より上手くなったんだよ!」
ユミちゃんは青崎君の手を引っ張り、彼を連れて行こうとします。
「え、あ、あぁ、別にいいけど……」
うろたえた様子の青崎君は去り際に、
「郵便受け、しばらくは塞いでおいたほうがいいですよ」
そう言うと、ユミちゃんと共に外階段を下りて行きました。
人が居なくなった途端、辺りが静寂に包まれます。
玄関に転がった人形。一人で対峙すると、たちまち恐ろしさがぶり返してきました。
人形にはあまり触らないようにし、部屋にあったレジ袋に入れて口を縛ると、近くのコンビニに設置されたゴミ箱に捨ててしまいました。
部屋に戻り一安心したところで、先ほどの青崎君の言葉を思い出しました。
……郵便受け、塞がなきゃ。
テレビの横のカラーボックスからガムテープを取り出し、ドアの内側から郵便受けの受け口に何重にも貼り付けました。
受け口が開かないことを外側から確認し、ドアを閉め、鍵を掛けました。
今一度、ベランダの窓にも鍵が掛かっていることを確認しました。これで外からの侵入は不可能です。
全ての出入り口が閉じられた薄暗い部屋の中は雨のせいか湿っぽく、嫌な感じがしました。
『呪い殺されちゃうかもね』
急にユミちゃんの顔が脳裏に浮かび、全身に悪寒が走りました。
テレビを点けてなんとか日常を感じようとしましたが、それでも気は紛れず、その日はごはんを簡単に済ませシャワーを浴びると、そのままベッドに入りました。
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