六月十八日 木曜日

 動く人形を目の当たりにしてしまった私は、この日、過剰なぐらい臆病になっていました。戸棚の中、カバンの中、トイレの個室。あらゆる場所で、人形の影に怯えながら過ごしました。

 帰宅して部屋に一人でいるときも、物陰や背後が気になって仕方ありませんでした。

 夕飯を食べ終わり、パソコンでレポートを作成していたところ、インターホンが鳴りました。集中するためにテレビやラジオも消していたので、突然のインターホンの音に驚き、心臓が止まる思いをしました。

 部屋の時計は午後八時を指していました。

 ……一体、誰なのだろうか。

 もし玄関ドアの覗き穴から外を見たとき、あの人形がいたら。こんなに緊張した状態で玄関に立ったのは生まれて初めてでした。

「夜分にすいません。青崎です」

 ドア越しによく知った声が聞こえてきて、私は安堵しました。

 ……人形じゃなくて良かった。でも、なぜ青崎君が訪ねて来たのでしょうか。

「あれからイタズラ、大丈夫ですか。どうしても心配だったもので」

 玄関ドアを開けると心配そうな顔をした青崎君が立っていました。

「ええ。郵便受けを塞いだのが効いたみたいです」

 昨日あった出来事――動く人形について話してしまおうかとも考えたのですが、あまりに荒唐無稽で信じてもらえない可能性の方が高く、また、むやみに心配をかけるのもどうかと思い、黙っておくことにしました。

 わざわざ様子を見に来てくれた青崎君に、お茶でも出してあげようと、彼を部屋の中に招き入れました。

 男の人を部屋に上げることに抵抗がないわけではありません。それでも、このときの私はひどく怯えていたため、誰かと一緒にいたいという気持ちのほうが大きかったのです。

「あ、レポート中でしたか」

 机の上のパソコンを見て、彼はそう呟きました。

「今、コーヒー淹れますから。どうぞ座っていてください」

「ああ、すみません。すぐ帰るんでお構いなく」

「気にしないでください。私もあんなことがあった後で、少し心細いんです。さっき玄関に出たときも、あの人形じゃないかってビクビクしてたんですよ」

「それは申し訳ないことをしちゃいましたね」

 彼はバツが悪そうに笑いました。

「ですから、レポートが終わるまで、一緒にいてもらえたら心強いのですが……」

「僕は構いませんよ。音楽でも聴きながら、邪魔にならないようにしてますんで」

 すみませんと一言ことわり、コーヒーの入ったマグカップを青崎君へ渡すと、私はレポートの作成に取り掛かりました。青崎君は片耳にイヤホンを付けて音楽を聴きながら、スマートフォンをいじっています。

 しばらくしてレポートが一段落したので、あまり構わないのも悪いと思い、彼にこんなことを聞いてみました。

「青崎君はこのアパートで怖い思いをしたことはあるんですか?」

 今回の怪奇現象はこのアパートに由来しているのではないか、そう思った私はそんなことを青崎君に訊いたのでした。

「うーん、僕がここに入ったのも今年の春だから。オカルト的恐怖体験は一度もないですね。強いて言えば天井裏のネズミが恐いってことですかね」

「ネズミ……ですか」

 築三十年にもなる木造アパートで、床はかなり薄いと大家さんからは聞かされていましたが、床下からネズミの足音が聞こえたことは一度もありませんでした。

「お風呂場に、天井裏へ繋がる点検口があるんですけど、いつネズミが落ちてくるか、入浴中はいつもヒヤヒヤしてますよ」

「電気関係には強くてもネズミには弱いんですね」

 電気工事と言えば天井裏、天井裏と言えばネズミ、という勝手なイメージで、電気系の人はそういったものに慣れていると思っていた私は、青崎君の返答がなんだか可笑おかしく感じられたのでした。

「まあ僕の部屋は汚いから、すでにネズミが室内にいる可能性も否めませんが」

 青崎君は笑いながらそう言いました。

 引っ越しの挨拶のときに一度だけ彼の部屋を覗いたことがありますが、電線やドライバー、大きなスパナなどが散乱した室内は、さながら発明家の部屋のようでした。

「ちゃんと片付けた方がいいですよ。ゴミ屋敷になる前に」

 ピンポーン。

 会話を遮るように、インターホンが鳴りました。時刻は午後九時。普通、訪問は控える時間帯です。

「こんな時間に。一体、誰ですかね」

 青崎君は小さく首を傾げました。不安げな表情の私を見て、青崎君は無言で頷くと、玄関へ向かいました。青崎君の背中に隠れる形で私も着いていきます。

 青崎君がゆっくりとドアを開けると、そこに立っていたのは背の小さな女の子――青崎君の妹、ユミちゃんでした。

「ユミ! 今何時だと思ってるんだ。そもそも、宿泊学習じゃなかったのか?」

「宿泊学習は昨日だよ。それに、今は塾の帰りで、誰にもバレないから大丈夫」

「そういうことじゃなくってなあ……」

「部屋に居なかったから、もしかしてと思って来てみれば。この前の約束、もう忘れちゃったの。お兄ちゃん?」

 小学生とは思えない、迫力のある低い声に、青崎君が困った様子で頭を掻いていると、ユミちゃんは私の方を向き、部屋に上がってきました。

「あれ、お姉さん、まだ死んでなかったんだ? おかしいなあ、ちゃんとお人形さんにお願いしたのに」

 ……この子は、何を言っているんだ。

「多分これからお姉さんのところに、あのお人形さん、行くと思うから。気を付けたほうがいいよ?」

 ……この子が、私に人形を仕向けた?

 全身に鳥肌が立ち、今すぐ逃げなくてはいけないと直感します。

 子供の表情からかけ離れた嫌な嗤い顔で迫ってきたユミちゃんを突き飛ばし、部屋の外へ飛び出しました。後ろからは、あの子の高笑いする声が響いてきます。

 私はアパートの外へと逃げました。とにかく、あそこから離れなくては。大きな通りまで出るとタクシーを捕まえ、隣町にある実家へと向かったのでした。

 部屋の鍵をかけていないだとか、預金通帳を置いたままだとか、そんなことはどうでもよく、恐怖の根源から、一刻も早く遠ざかりたかったのです。

 私が実家に着いたとき、まだ両親は旅行から帰ってきていませんでした。実家の鍵は持っていたので中に入って待っていたのですが、両親が旅行鞄と大量のお土産を抱えて帰ってきたのは翌日の朝になってからでした。

 両親には突然ホームシックになったと嘘の説明をし、その週末にはアパートを引き払いました。怒られるかと思いきや、また私と一緒に暮らせると、母は嬉しそうにしていました。

 現在、私は実家で暮らしながら大学へ通っています。二時間のバス通学も、人形の恐怖に比べたら大したことはありません。

結局、あれ以来、怪奇現象は起こっていませんが、今でも、おもちゃ売り場や公園で、幼児向けの人形を見かけるたびに、この心霊体験を思い出してしまいます。

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