六月十七日 水曜日
昨日から降り続く雨とあの人形のせいで一日中頭が重く、講義にも全く身が入らずに一日が終わりました。どこかへ遊びに行くような元気などなく、とぼとぼと家へ帰りました。
また人形がいたらどうしようという私の心配は杞憂に終わり、二〇三号室の前には何も落ちていませんでしたし、郵便受けが無理やりこじ開けられた形跡もありませんでした。
これなら部屋の中は安全地帯も同然だ、と安心して玄関の鍵を開け、中に入りました。
もちろん、玄関にも人形は落ちていませんでした。
郵便受けのガムテープを剥がした跡が無いので人形がいるはずはないのですが、それでも、微かな不安を払拭できずにいたのです。
呪いなんてあるわけがない。あれはユミちゃんが、青崎君と仲良く話をしていた私をやっかんで口から出まかせに言っただけ。
今まで怯えていた自分が急に馬鹿々々しく思えました。
郵便受けを塞がれたぐらいでイタズラを断念するなんて、犯人も弱気なものだ。
すっかり気が晴れた私は、その日、清々しい気持ちでベッドに入ったのでした。
――深夜。
急に目が覚めました。普段はこんな時間に目が覚めることなどないので、とても不思議に思いました。首だけを動かす形で、なんとなく辺りを見回します。寝ぼけ
タオルケットをもぞもぞと整え、寝直そうと目を閉じたときでした。
……ずずっ。
部屋のどこかから、何かが擦れるような音が聞こえてきたのです。
……ずずっ。
ベッドの下から……?
私はタオルケットをそっと剥いで、音を立てないように、ゆっくりと起き上がりました。そして床の上に土下座をするような体勢でベッドの下を覗き込んだのです。
すると……。
あの人形が、うつ伏せの状態で床を這っていたのです!
「……っ!」
恐怖のあまり叫びそうになりましたが、必死でそれを堪えました。しかし、私に見つかったことに気付いたのか、人形はぴたりと動きを止めました。
私は慎重に呼吸をし、気配を殺すように努めました。
人形が一体どうやって入ってきたのかなど、考える余裕はありませんでした。
……はやく、逃げないと。
私は、はやる気持ちを抑え、ゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かって足を踏み出しました。
…………ずずっ、ずずずっ。
私が逃げ出そうとしていることに気付いたのか、人形はこちらへ向かって動き出しました。
「きゃぁぁぁ!」
反射的に叫んでしまった私は、一目散に玄関へと走りました。ドアのチェーンを外し、鍵を開け、靴も履かないまま外廊下へ飛び出しました。そして外階段へ向かって走り出したとき、まさにその外階段から、黒い人影が、ぬっと現れたのです。
「……何事ですか」
外階段から現れた人影は、黒いスウェット姿の沼倉さんでした。コンビニから帰ってきたところなのか、手にはレジ袋を提げています。
「に、人形がっ! た、助けてくださいっ!」
「……人形?」
沼倉さんは
「はやく逃げなきゃ! アレが追いかけてくる!」
ドアが開けっ放しになっている二〇三号室のほうをしげしげと見た後、沼倉さんはゆったりとした足取りで部屋の中へと入っていきました。
数分後、沼倉さんが部屋から出てきました。手にはあの人形を持っています。
「……人形って、これか?」
私は怯えながら、無言で頷きました。
「俺が見たときには動いてなかったが、本当にこいつが動いてたのか?」
「……確かに見ました」
ふーん、と唸ると、沼倉さんは人形をいじり始めました。
「何日か前に私の部屋の前に落ちてて……。それで、捨てたのに戻ってきて……。鍵をかけて郵便受けも塞いだのに、部屋の中に……」
私のしどろもどろな説明を聞くと、
「……うーん、怨念が籠ってるようには見えないけど」
霊感がある人は見ただけで判るのでしょうか。
私がただただ彼を見つめていると、
「……寺に預けるか」
「お寺、ですか」
「近くにさ、こういうのを預かってくれる寺があるから」
「はぁ」
確かに、歩いて十五分ほどの距離に、藪に囲まれた小さなお寺がありますが、あそこで人形を預かってくれるのでしょうか。
「でもその前に、ちょっと俺に貸してくれないかな。またとない機会だからさ、いろいろ試してみたいんだ。その代わりじゃないけど、寺の供養代は俺が持つから」
何でもいいからとにかく人形を遠ざけたかった私は、沼倉さんにお願いすることにしました。
「……あの、沼倉さんって、やっぱりその、オカルト関係に詳しいんですか」
「ん、まあ、一般人よりは知ってるって感じかな。君も興味あるの? それだったら丁度、今夜七時からテレビで心霊特集やるから見てみるといいよ。木曜スペシャル、初夏の緊急除霊うんたらかんたらってやつね。俺に言わせれば作り物っぽさが強いけど、入門にはぴったりじゃないかな。それで物足りなく感じるようだったら声掛けてちょうだい。DVD貸すから」
風貌からは考えられないほど饒舌になった彼の言葉を受け流すように適当に相槌を打つと、喋りすぎたと自覚したのか、
「……とりあえず、人形は今日中に寺に持っていくから」
そう言うと、二〇四号室へと帰って行ったので、私も自分の部屋に戻りました。
玄関で足の裏に付いた砂や埃を手で払い、ベッドへと向かいました。フローリングの上を歩くと、足の裏に違和感を覚えました。見てみると、さっき玄関で砂を落としたにもかかわらず、細かい黒い砂が付いていたのです。
部屋の中に砂が落ちているということは、人形は玄関から入ってきたのでしょうか。しかし、玄関の鍵は閉まっていたし郵便受けもガムテープでぴったりと塞がれていました。やはり、イタズラなんかじゃない。それこそ、人形の呪いとしか考えられない。
私の思考は、恐怖に染まっていきました。
床の砂を掃除し終わり、時計を見ると午前三時を過ぎていました。ベッドに入り、眠ろうと努力しましたが、緊張と恐怖によって目が冴え、結局、一睡もできずに朝を迎えたのでした。
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