第6椀 「小鍋立て」はワケあり男女の、大人のおままごとだそうな
しっかりご飯を食べるにはちょっと空腹度が足りなくて、でも食事はしたいなあ、というややこしい腹具合のときがある。
お休みの日なんかに伊緒さんと一日過ごしていると、おなかの空き方もだいたい似てくるようで今日はふたりともまさしくそんな気分だった。
「一度やってみたかったことがあるんだけど、付き合ってくれる?」
腹案があるらしい伊緒さんが、楽しげにエプロンを身に着けてキッチンに立った。
そんな彼女の姿を見ているだけでぼくはもう、おなかがいっぱいになるような気分だったが、はたして何を作ってくれるのか楽しみで仕方ない。
ことん、ざくざく、じゃじゃじゃっ、ぼわんっ、などなど、キッチンから聞こえる音に、ぼくは眼を閉じて聞き入っていた。
合間にぱたぱたとかわいらしい足音がはさまり、その度にぱたん、と冷蔵庫のドアが開け閉めされたり、ごとごと、と戸棚から何かを取り出すような音が聞こえてくる。
一連の音楽のようなそれは、ぼくが子どもの頃に憧れた家庭の姿そのものだ。
こんなときに、自分は幸福だと強く思うのだ。
「わっ、もうできたんですか?」
ほどなくして伊緒さんがお皿を運んできて、あまりの早さに僕は驚きの声をあげた。
「ふふ。このお料理はわけありなのよ」
謎めいたことをいいながら、伊緒さんは卓上コンロをテーブルにでん、と据えた。
そうか、お鍋にしたんだ。そろそろ湯気が恋しい季節になってきたから、嬉しいメニューだ。
でも、コンロに置かれたお鍋を見て、ぼくは首をかしげてしまった。
とっても小さい。
まるっきり一人鍋用の大きさだ。
伊緒さんがしゅぼんっ、とコンロに火を点けると、あらかじめ熱してあったようで小さなお鍋はすぐさまくつくつと、中身が沸騰する音を立て始めた。
「今日は"小鍋立て"をいたします」
ドヤア!、といういつもの調子で、伊緒さんが高らかに宣言する。
・・・小鍋立て・・? ですと・・・?
恥ずかしながら、ぼくには初めての言葉だ。つまり小さめお鍋のことなのだろうか。
「小鍋立てというのはですね、かの池波正太郎さんの本に書いてあったお料理です」
どうして敬語なんだろうと思いながら、ぼくは伊緒さんの解説にふんふん、と耳を傾ける。
これは『剣客商売』なんかで有名な時代小説の大家の本で、彼女が目にした料理なのだという。
文字通り、一人用サイズの小さな鍋を火鉢なんかにかけて、ちょっとずつ煮ながらつまむという分かりやすいもので、具材は2種類程度のシンプルなものに徹するのが流儀なのだという。
まさしく今のふたりのおなか具合にもってこいの料理なのだが、さらにこれにはポイントがある。
「これはですね、ご隠居とそのお妾さん、といったわけありの男女が囲むというのが正式なのです」
つまり、大人のおままごとなのです。
と、敬語のまま伊緒さんが説明を締めくくった。
ああ、恥ずかしくて敬語だったのか。
確かに、そう言われるとなんだかちょっと照れくさいような気がする食卓かもしれない。
具材も流儀にのっとって、レタス・絹ごし豆腐・鶏もも肉の3種類が行儀よくお皿に盛られている。
いずれも小さめにカットしてあり、鶏肉はあらかじめ皮を焼いて焦げ目がつけられている。伊緒さんらしいこまやかな下ごしらえだ。
「すぐに火が通るから、煮えすぎないうちに食べてね」
そう言って伊緒さんが小鍋のふたをとると、張られたダシが沸騰していい匂いを立てている。
「お鍋にレタスって、初めてかも」
珍しい思いでぼくはレタスを箸でつまみ、しゃぶしゃぶの要領でダシにくぐらせた。すぐにしんなりしたところを口に運ぶと、やわらかく火が通りながらも意外なほどシャキシャキとした食感が残っている。
これは楽しい。ゆがいたレタスがこんなにおいしいなんて思ってもみなかった。
ダシにはあらかじめしっかり味がついているが、ポン酢を少し垂らすとさらに味が引き立った。
その間にも薄切りの鶏肉を、伊緒さんがさっと小鍋に放ってくれる。これもすぐに煮えたので、やはりポン酢でいただく。加熱時間が短く済んでいるので、ぷりんとした歯ごたえとみずみずしい旨みが際立っている。
また、あらかじめ皮に焼き目をつけているので余分な脂が抜けて、しかも香ばしい風味もついている。
お豆腐も煮えすぎないよう、軽く温まった頃合を引き上げて口に運ぶと、なんともいえずやさしい滋味が広がった。
すごくおいしい。そして楽しい。
そんなにおなかが空いていないと言いながら、これならいくらでも食べられそうだ。
「ねえ、ちょっとだけ、どう?」
そう言って伊緒さんが持ってきたのは、小さな徳利とおちょこだ。ほのかに湯気が見えるので、燗をつけてくれていたのだ。
これにはあまりお酒が得意ではないぼくも、思わずそそられてしまう。
「おひとつ」
と、伊緒さんがおどけてお酌をしてくれる。とろりとした透明の液体がおちょこに満たされ、ふわあっ、と甘く揮発すような香りが漂ってくる。
ぼくも彼女に差し返し、互いのおちょこを軽く打ち合わせて乾杯した。
口に含むとその瞬間は甘く、ついで辛味を感じさせながら喉を通り過ぎていく日本酒のおいしさに、ぼくは思わずうなってしまった。
こんなにお酒がおいしいと思ったのは、これが初めてかもしれない。
わけありの男女の、大人のおままごと・・・か。
ちょっと分かるような気がしてきた。
「もう一杯、いかが?」
すでに頬をほんのりとピンク色に染めている伊緒さんが、いつもよりなんだか色っぽい目ですすめてくれる。
今夜は多分、ものすごく酔ってしまうような気がする。
たまにはいいですよね、伊緒さん。
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