第35椀 ココロふるえる「オムライス」。こども味vs大人味の共演です

 伊緒さんはよく、

「晩ごはんはなにたべたいー?」

 と聞いてくれる。

 "カレー"とか"焼き魚"とかの具体的な料理名で希望することもあるけれど、実際には"何かこう、身体があったまるような"とか"さっぱりしつつもがっつりいけるような"などの曖昧なイメージを伝えてしまうことが多い。

 それでも伊緒さんは、

「ようし、おっけい!」

 と腕まくりをして、ショウガを隠し味にした豚汁や、たっぷりのおろしポン酢を添えたトンカツなどでリクエストに応えてくれるのだった。

 こんなやりとりは、ぼくにとってはものすごく嬉しいことだ。

 ぼくのためにご飯をつくってくれるというだけでも感涙ものだというのに、このうえリクエスト受け付けとは恐悦至極。

 でも、実を言うと「つくってほしい」と思うことはあっても、なかなか口に出せずにいる料理があるのだ。

 なにを隠そう、それは「オムライス」。

 ケチャップライスを薄焼き卵で包んで、さらにケチャップをかけるというケチャッピーな料理。

 ぼくの脳内では仕上げに小さな旗が立っている。

 でも、どんなに思い出そうとしても、子どもの頃にオムライスを食べたという記憶がないのだ。

 お子さま用、というイメージが強いわりには結構手間がかかりそうな料理のため、忙しかった両親がつくってくれたことはないのかもしれない。

 だとすると、もしかしてぼくはそもそもオムライスそのものを、食べたことがないのではなかろうか。

 なまじっか味付けはリアルに想像できることから、いつかどこかで口にしたように錯覚しているだけで、実は未体験なのでは……。

 そんな疑念がいよいよオムライスへのノスタルジーを掻き立て、でもなんだか恥ずかしくてなかなか伊緒さんにリクエストできずにいる。

 洋食、といって頭に浮かぶ料理の筆頭格といっても過言ではないオムライスは、実は日本生まれのものだそうだ。

 その発祥についてはいろいろな説があるらしいけれど、おおむね大正時代の末頃にはいまとほとんど変わらない姿になっていたという。

 おお、けっこう歴史があるぞ。

 もともとはコックさんたちのまかない料理として生み出された、という説も魅力的だ。

 それは日本にまだケチャップがやってくる以前のこと、溶き卵に具材と白ご飯を混ぜ込んで焼いた、「ライスオムレツ」とでも言えそうなものから出発したという。

 その当時はまだ国産のケチャップはなかったため、魅惑の赤いソースはなしだったようだ。

 ケチャップそのものは明治期にアメリカからもたらされたといわれており、日本製品の販売は明治36年(1903年)に始まったという。

 はてさて、伊緒さんばりに歴史のお話をしてしまったけれど、ひょんなことから憧れのオムライスをつくってもらえることになったのでした。


「うわっ!高ーい!」

 思わず二人して声を上げてしまったのはほかでもない、駅地下のレストランフロアを通りがかったときのこと。

 買い物ついでに新しくオープンしたお店を冷やかしはんぶんに覗いていると、長蛇の列ができている一軒があった。

 近付いてみると、なんとしたことかオムライスの専門店だ。

 すごい人だねー、よっぽどおいしいのかなー、などと言いながらショーウィンドウに目をやると、なかなかどうして結構なお値段だった。

 それで思わず同時に「高ーい!」と叫んでしまったのだけど、実にメニューの数が多いのにもびっくりした。

 王道的なトマトケチャップをかけたものはもちろん、デミソースやカレーソース、はてはホワイトソースをあしらったものまである。

 中身もチキンライスだけではなく、バターライスやピラフっぽいのまでさまざまで、オムライスにもこんなにバリエーションがあったのかと感心してしまった。

「むう、おいしそうね……。ようし、今夜はオムライスにしましょう!」

「えっ、つくってくれるんですか」

 ぼくは思わずぴょこんと飛び上がり、短いシッポをぶん回して喜びをあらわにしてしまった。

「もちろんよ。お姉さんにまかせなさい」

 かくしてついに、伊緒さんのオムライスにお目もじ叶うことと相成ったのでございます。

 帰りがけに買い足したのはたまごとベーコンくらいなもので、あとはお家にある食材でまかなえるという。

 伊緒さんのお料理でいつも感銘を受けるのは、味付やメニューのセレクト、調理の手際だけではない。

 とにかく、「今ここにあるもの」を最大限に有効活用していろいろなおいしいものを作り出してくれることだ。

 メニューから食材を選ぶのではなく、手持ちの食材を駆使して食卓をととのえてくれる様子に、ただただ「すごいなあ」と感嘆してしまう。

 お家に着くやいなや、伊緒さんは流れるような手際でオムライスの支度を始めた。

 何か手伝えることは……、と思ったけれどちょっと邪魔かもしれない。

 たたたたたん、とたまねぎ·にんじんをみじん切りに。

 粗みじんにしたベーコンといっしょに、じゃじゃじゃじゃっと炒め合わせる。

 ほほう、これがケチャップライスの具材ですな。

 解説の人に徹し始めたぼくが、心の中でレポートする。

 炒めただけでもおいしそうな具材に白ご飯を投入し、ざっくり混ぜ合わせたらいよいよケチャップの登場だ。

 細くて赤い、何条もの線が白ご飯を彩っていき、甘酸っぱいトマトの香りが台所に広がっていく。

 ケチャップをまとうと、炒めご飯が急にもったりとしてきたけれど、伊緒さんは怯まずに炒め続ける。

 チャーハンをつくってくれたときのように見事な手際で、フライパンの中身を水平方向に回転させながら木ベラでかき回していく。

 いったんフライパンをコンロに置いたかと思うと、休む間もなく常温にもどしておいた卵たちをボウルに割り入れ、軽く溶きほぐした。

 じうじう音を立てて香ばしい匂いをさせているケチャップライスに、鍋肌からほんの少しのお醤油をたらり。

 じゅわっ、と蒸発していくお醤油がいい隠し味になるのは、伊緒さん特製ナポリタンで証明済みだ。

 お醤油とケチャップは、実はとっても仲がいい。

 この後はついにたまごの出番かと、固唾を飲んで見守っていると、

「はい、ここから先は企業秘密よ。あとちょっとでできるから、おりこうに待っててね」

 と、なぜか台所からの退去を勧告されてしまった。

 やっぱり邪魔でしたよネ、とややしょんぼりしていたけれど、かえって楽しみが増幅するように思って気を取り直す。

 台所からはバターの熱せられるこってりした香りが漂ってきて、オムライスをオムライスたらしめている「オム」部分の完成が待ち望まれる。

 ……と思いきや、あれ?

 ケチャップ、たまご、バター……オムライスを構成するあらゆる要素とは異なる、芳醇な香りが混ざっている。

 これはいったい、なんでしょう。

 そんなことを思っている間に、

「はい!おまたせー!」

 と、伊緒さんが両手に一枚ずつお皿を持って、元気よく台所から出てきた。

 ことん、ことん、とテーブルに置かれたお皿を見やると、おお!なんと!

 2種類のオムライスが並んでいるではないか。

「こっちが"こども味"、そしてこっちが"大人味"よ」

 伊緒さんが指し示したその先には、薄焼きたまごでくるんでケチャップをかけたタイプ、そしてケチャップライスにオムレツをのせて、周囲にデミソースをかけたものとが鎮座している。

 前者がこども味で後者が大人味とのこと、なるほど、さっきのケチャップ類と異なる香りはデミソースのものだったんだ。

「こないだのハヤシライスの残りを冷凍してあったから、煮切った赤ワインとコンソメキューブを足して、デミソース風にしてみたの」

 うーん、すごい!

 さらに伊緒さんはナイフを手にとると、大人味のオムレツにすっと縦の切れ目を入れて、ぱかっと左右に開いた。

 するととろっとろの半熟たまごが中からあふれ出て、ケチャップライスを覆ってしまった。

 めちゃくちゃおいしそう!

「さあさあ、熱いうちにいただきましょう。どっちでも好きなほうから食べてね……って、わたしこっちから!」

 スプーンを構えた伊緒さんはそう言って、はじけるような笑顔で"こども味"を指差した。

 ああ、もう、絶対おいしい。これ絶対おいしい。

 ぼくはココロふるわせながら、「いただきます」を言うために力強く両手を合わせた。

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