第57椀 アツアツ「マカロニグラタン」。深夜の帰宅で心に沁みます

 最近急に出張が多くなってきた。

 理由ははっきりしていて、ぼくの会社の大阪支店に欠員が出て常駐の編集者がいなくなったためだ。

 ぼくが関西育ちだから、という単純な理由だけではないけれど、急遽のサポートのため頻繁に大阪に足を運ぶこの頃だ。

 ほかの業界ではどうなのか分からないが、ぼくの会社でやっているような小規模な出版なら、関西の会社がわざわざ関東の業者に発注することは少ないようだ。

 できるだけ地元の企業間でやりとりをするというプライドみたいなものも感じられて、それもあってうちの大阪支店は窓口業務がメインとなっていた。

 支店の歴史そのものは古く、会社の草創期からあるそうなので、それでも一定の認知はされている方みたいだ。

 でも支店内だけで本格的な取材から制作までを行うことは想定しておらず、そのために編集者は一人だけという状態が続いていたのだ。

 で、その編集者が突然退職してしまった。

 詳しいことは聞いていないけれど、関東育ちのその人はどうしても大阪の水が合わなかったとのことだ。

 だとすると気の毒な話で、転勤・転属などの方法もあったのではないかと思ったりもするが、退職という決断にはもっと複雑な葛藤を経たのだろう。

 関西人というのは、テレビで見るようなテンションの高いお笑い芸人のようなのだと、他地域の人は思うらしい。

 たしかに、日常に笑いを採り入れる文化土壌は強固だけれど、それは独特のコミュニケーションでお互いを測り合うことに根差している。

 よく言われる「ボケ」と「ツッコミ」の二大要素が、それを端的に表したものだろう。

 片方が何かトボけたことを言う。

 するともう片方がそれについてコメントをする。

 ただそれだけのことなのだけど、これによって各人の属性・見識・判断力等々の総合的なコミュニケーションスキルが白日のもとにさらされるのだ。

 これは大げさに「人間力」といっても差し支えない。

 ボケる、というのは周囲に対してある種のシグナルを発し、会話の糸口となるお題を提起する意味がある。

 そしてツッコミとは、そのお題を受けてさらに高度な笑い話へと昇華させる役割を担っている。

 つまり二人以上の人間同士による、コミュニケーションの真剣勝負ともいえるだろう。

 さあ、どうだ!とばかりにボケたところを、間髪入れず機知に富んだツッコミを入れるというのは、なかなか訓練だけでどうこうなるものではない。

 センスと教養、そして反射神経の鋭さが求められる。

 このツッコミの良さ如何で、たとえボケ方が失速気味だったとしても、大きな笑いへと転化することが可能だ。

 したがって関西では、ツッコミの上手な人材は「マエストロ」として密かに崇められるのだ。

 笑いには、場の空気そのものを和ませて、人と人との距離を縮める力がある。

 だから関西人特有のボケとツッコミとは、人間同士の観察と洞察、そして気遣いと思いやりの上に成り立つ文化なのだ。


 大阪支店では、ぼくはいつも大歓迎を受ける。

 なぜなら本当にみんな困っているからで、「ようやっと編集さん来はったで!」

 と安堵の息をついてくれる。

 ぼくの特殊能力といえば流暢な関西弁くらいなのだけど、それでも喜んでもらえるのはうれしいことだ。

「おお、秋山くん!いっつも遠いとっからえらいすまんな!ほな、飲み行こか」

 出張したぼくが顔を出すと、支店長はいつものようにボケてくれる。

 時刻は朝の8時半だ。

「ええんですか、フグなんて」

 すかさず高飛車めに切り返す。

「どあほ!フグどころやのうてキャビアやぞ今日は!"畑の"て付くけどな」

「それトンブリですやん」

 こんな感じだ。

 関西で暮らしていたときは何とも思わなかったけど、いまはこんな軽妙なやりとりがとても心地いい。

 ぼくの中ではいつしか、大阪出張がひとつの楽しみになっていた。


 かつてバブル期という神話の時代には、出張といえば大した用事がなくても泊まりが基本だったという。

 でもそれは、ぼくの世代にとっては、ツチノコとかカッパとかと同じような伝説にしか過ぎないので、よほどのことがない限り日帰りになる。

 とはいえ、ギリギリまで大阪にいると帰宅は日付をまたぐので、いわゆる午前さまだ。

 ようやくお家にたどり着くと、深夜にも関わらず伊緒さんは起きて待っていてくれた。

 正直に言うと、申し訳なさにうれしさが勝ってしまう。

 あんまり食欲を感じなかったのでそのまま寝ようかと思ったけど、

「遅い時間だけど、こういうの軽く食べない?」

 そう言って伊緒さんが見せてくれたのは、あとは温めるだけという状態のグラタンだった。

 思わずおなかがグウ、と鳴って、

「いただきます!」

 と即答していた。

 すぐにオーブンで焼き目を付けて、カップによそったコンソメスープとともに食卓に供してくれる。

 すごくうれしい。

 こんがりきつね色に色付いた表面のパン粉から、ざくっとスプーンを入れる。

 ほわりと甘い湯気が立ち、とろんとホワイトソースがあふれ出してきた。

 スライスしたじゃがいも、ほうれん草、小エビ、そしてたっぷりのマカロニ。

 やさしくて、どこかなつかしいような、心からほっとする味わいだ。

 コンソメスープもあっさりとしていて、深夜帰宅の身にじんわり沁みわたっていく。

「めっちゃおいしいです」

 関西弁のまま、ぼくが言う。

「そらよかったわ」

 伊緒さんがすかさず返事をしてくれる。

 本当にびっくりするくらい、いつの間にか関西弁が上達している。

「疲れてる思うけど、ええ顔してはるね」

 伊緒さんの言葉に、ちょっと照れてしまう。

 充実感だけは、あるかもしれない。

「せやけど伊緒さん、ほんまに関西弁うもうならはったなあ。もうあっちでも住めるんちゃうか」

 思わずそう言うと、

「うちはどの土地でも暮らせるよ!単身赴任でも転勤でも、どこでも付いていくさかい!」

 と、伊緒さんはドヤァ!と胸を張った。

 そんなことも、あるかもしれない。

 それはぼくにとってなんだかわくわくするような、夢でも見るみたいな想像だった。

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