第8椀 「ごちそうチキンカツ」。給料日前でも、伊緒さんの手にかかればこの通り

 ぼくの安月給でも何とか生活ができて、おいしいご飯を食べられるのは、ひとえに伊緒さんが上手にやりくりしてくれているおかげだ。

 でもさすがに給料日前ともなると、懐具合がさみしくなってあと何日、あと何日と指折り数えて支給日を心待ちにしてしまう。

 一人暮らしをしていた頃はその度合いがもっと顕著で、今の会社に入って一年目の、最初の給料日直前には冗談じゃなく本当に野草を摘みに行った。

 『食べられる野草・シティ編』という、ものすごくニッチな本を片手に河川敷をウロついたのは忘れもしない。

 その時の野草のなんとまあ、おいしかったこと、おいしかったこと・・・。

 と、なればいいのだけど、調理がまずかったのと季節はずれなものを無理やり採ってしまったのとで残念なメモリーとなっている。

 伊緒さんだったらきっと上手に料理してくれるんだろうなあ、と思いつつ、春になったらふたりで山菜採りに行く想像をして一人にやついてしまう。

 ともあれ、給料日前だ。

 一人暮らしのときだったら、それこそスーパーのおつとめ品や半額惣菜をつけ狙い、「天かす丼」とか「具なしパスタ」とかでなんとかしのいでいる頃だ。

 ・・・でも、いまは。


 ココン、コンコン、カリカリカリとドアを鳴らすのが、ぼくが帰ってきた合図だ。

 ぱたぱたとかわいらしい足音がドアの向こうから急接近してきて、がちゃこん、と時代じみた鍵を開けて伊緒さんが笑顔をのぞかせる。

「おかえりなさい、晃くん。今夜はごちそうだよ!」

 いっつも大ごちそうです。伊緒さん。

 と、心の中で感謝しながら、なんだべなんだべ!とテンションが上がってしまう。

 手洗いうがいももどかしく済ませ、食卓についた瞬間をみはからって、

「どじゃーんっ!」

 と、お茶目な擬音とともに伊緒さんがでんっ、とテーブルの真中にお皿をすえた。

「うわっ! トンカツ・・? でかっ!! 」

 そこにはお皿からはみださんばかりの、大きな大きなカツがのっかっていた。

 これでもかと存在感をアピールしてくる豪勢な料理だ。

 しかも給料日前という修羅の時期なのに!

 伊緒さんはいったいどんな錬金術を使ったのだろう。

「ふふ。”と・ん・か・つ”だと75パーセント正解ね」

さあ、熱いうちにめしあがれ!

 と、謎めいたことを言いながら手を合わせる。

 伊緒さんにならってぼくも手を合わせ、ふたり同時にいただきます、と唱えて箸をとる。

 大きなカツには包丁は入れておらず、伊緒さんがナイフとフォークを手にざくっ、ざくっと小気味よい音を立てて切り分けてくれた。

 断面から白く引き締まった肉の繊維が見えたとき、僕は「75パーセント」の合点がいった。

「あ! チキンカツだ!」

「そう。”とんかつ”じゃなくて”とりかつ”でした!」

 巨大なカツの正体は、鶏むね肉を開いて作ったチキンカツだった。

 かぶりつくと衣のさっくりした歯ごたえを追いかけるように、しっとりとジューシーな肉の口当たりが合流してくる。

 鶏むね肉は火を通しすぎるとパサついてしまうのだが、揚げ加減が巧みでとってもやわらかい。

 それに、ソースも数種類を用意してくれているのがまたうれしい。

 とんかつソースにおろしポン酢、タルタルソースにからし醤油とバラエティ豊かになるよう気を配ってくれている。

 ソースによる味わいの変化が楽しく、それぞれで別の料理をいただいているようだ。

「あっさりしたお肉でもすごいボリューム感ですね! すごくおいしいです」

「そう。よかった」

 喜んでカツを頬張るぼくに、伊緒さんがにっこり笑いかけてくれる。

一人暮らしをしていたとき、鶏むね肉は食材の中でも安くてたっぷり使えるのが魅力だった。

 たしか特価の日なら、グラムあたり50円を切っていたのではないか。

 でも、おいしく料理するには火加減がむずかしく、脂肪分も少ないのでぼくの腕ではあまり思い出に残るメニューにはならなかったのだ。

 それを、伊緒さんはごちそうに変えてしまった。しかも格安、給料日前でも気兼ねなくおなかいっぱい食べられるように工夫してくれている。

「カツの起源ってね。”コトレット”っていうフランス料理なんですって」

 スライスした仔牛肉に、目の細かいパン粉をまぶして炒め焼きにしたものが最初といわれているそうだ。

 英語読みの”カツレツ”という語が使用され、日本で洋食としてアレンジされて現在のカツになったという。


 チキンカツといえば、学生時代にお世話になった学食での思い出の味でもある。

 たしか3番目くらいに安いメニューに「カツラーメン」というのがあって、醤油ラーメンに極厚の鶏むねカツがのっかっていたのだ。

 ぼくはバイト代が入るとそれを食べるのを楽しみにしており、時おり学食のおばちゃんが一切れ二切れ、サービスしてくれたのも思い出深い。


 そして今、自分のお嫁さんが家計をやりくりして、安く手に入る食材をごちそうに変えてくれたメニューがチキンカツ、というのにも感慨を覚えてしまう。

 ありがとう、伊緒さん。

 もっともっと頑張ります。

 でも、もし将来、給料日前だからといってさして困窮しない日々がやってきたとしても、ぼくはきっとこのチキンカツの味を忘れないと思います。

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