第12椀 「ブリの刺身→ヅケ→照り焼き」。お楽しみの三段活用

 数ある魚の中でもブリが一番好きだ。

 西の方で育ったぼくにとって、お正月の魚といえばなんといってもブリだった。

 見るからに豪勢な姿の大きな魚は、幼いぼくの心に「ごちそう」としてインプットされたのだ。

 普段は忙しくて、めったに揃うことのない家族だったが、お正月だけは特別だった。

 漁師町で育った父は平凡なサラリーマンになったが、見事な包丁さばきで魚をおろすという特技を持っていた。

 そこで年末には奮発してブリを一本まるまる買い込んで、ずんばらりんと自分で調理するのが常だったのだ。

 ぼくは手品でも目にするかのように、夢中になってその手際を眺めていたものだ。

 その甲斐あって、あんまり大きなものでない限り、ぼくも魚一匹をさばいてお刺身にすることまでならできる。

 料理そのものは得意じゃないぼくの、数少ない特技のひとつだ。

 でも大人になって、この技術がこれほど役に立ってくれることになるとは思ってもみなかった。

 なぜなら、ぼくが魚をさばくのをとっても喜んでくれる人ができたから。


「みてみて、晃くん!お買い得だったよ!」

 ドヤァ!とばかりに伊緒さんが掲げるパックには、燦然と「半額」のシールが輝いている。

 中身はこれまた艷やかなブリのサクだ。

 三枚におろしたものを、さらに縦半分にした腹身側。ただしウロコを引いた皮が付いている。

 半額といえど十分に瑞々しく、指で押してみると鮮度を保証する確かな弾力が感じられた。

「いいのありましたね。お目利きさんですね!」

 そうほめると「えへへー」と、伊緒さんがブリを持ったまま照れたりしている。

 もうちょっとほめて、もうちょっと照れてもらおうかなあ、と思っているうちに、

「では先生、お願いしやす」

 と、ブリを差し出されてしまった。

 魚の下ごしらえや、刺身を引くことだけはぼくに任されているのだ。

 台所でほとんど役に立たないぼくの、唯一といってもいい見せ場だ。

 この時ばかりは、伊緒さんにほんの少しいいところを見せられる。

 まな板も包丁もきれいにして、ブリのサクを皮を下にして据えた。

 ウロコが身にはねていたり、血が浮いていたりしていないかチェックして、包丁を手に取る。

 サクのしっぽ側の端にキッチンペーパーを巻いて滑り止めにし、左手でしっかりと握った。

 できるだけ身を無駄にしないよう、端っこぎりぎりのあたりにストン、と包丁を入れ、皮目の境で角度をつけて固定する。

 そうしておいて、「ぎこぎこぎこ」と、左手で摘んだしっぽの端を左右に揺するようにしながら手前に引っ張っていく。

 それに合わせて包丁の角度も徐々に鋭角になるよう調整し、途中でちぎれないよう加減しながら皮だけをはずしていくのだ。

「皮を引く」と俗に呼ばれるこの作業は、魚をおろす技の中でも難しい部類に入る。

 不器用なぼくは、子供の頃危なっかしい手つきで何度も何度も練習したものだ。

 結婚してから初めて魚をさばいたのは実に久方ぶりだったけど、身体がきちんと覚えてくれていた。

 そして時折こうやって、伊緒さんがぼくに調理を頼んでくれるようになったのだ。

「すごい!板前さんみたい!」

 と、無邪気にほめてくれることに、ぼくはすっかり気をよくして喜んで魚をさばいている。

 ブリの皮は、しまいまで首尾よく引き終えることができた。

 まな板と包丁の間にはしっとりと魚の脂が滲み出し、刺身の旨さへの期待をかきたてる。

 お皿には伊緒さんがすでに大根のツマを敷き詰めてくれている。

 ブリを少し厚めのそぎ造りにして、姿よく盛り付ければ完成だ。

 たいした手間ではないけれど、伊緒さんが喜んでくれるのでぼくも嬉しくなってしまう。


「ああ・・、しあわせ」

 お刺身をほおばった伊緒さんが、猫のように目を細めてうっとりとそう言った。

 とろんとした脂をまとったぷりぷりの身が、口の中でとろけていく。

 血合いに近いところはしこしことした歯応えで、甘いながらも青背の魚特有の金気のようなしゃきっとした風味も併せ持っている。

 脂が強いので、お行儀は悪いけど直接醤油に多めにワサビを溶いて、とっぷり漬けて食べるのがおいしいと思う。

 ぼくも一切れを箸でつまんで、小皿の醤油に刺身をつける。

 瞬間、醤油の表面にぷわっと油膜が広がり、あらためてブリの脂の乗りを感じさせる。


 伊緒さんと二人でお刺身を堪能しても、まだ結構余ってしまう。

 大きなサクだったので、たっぷりの量となったのだ。

 でも、これからがまた、さらなるお楽しみなのだ。

「では先生、あれにしやしょうか」

 伊緒さんが誰だかよく分からないキャラになって準備を始めた。

 ぼくが魚の調理当番になったときは、伊緒さんはぼくを「先生」と呼んで「お願いしやす」「そうしてくだせえ」と語調が変化する。

 多分、ナントカ一家の用心棒的なポジションという設定なのだろう。

 余ったお刺身は、「ヅケ」にするのがいつものお気に入りだ。

 醤油とみりん、日本酒を好みの割合で合わせ、そこにお刺身を一晩漬け込む。

 表面にはぴっちりとラップをかぶせ、調味液がまんべんなくお刺身に浸透するようにして冷蔵庫へ。

 マグロなんかではよく見られるが、ブリでやるのもとってもおいしい。

 日本酒の代わりに白ワインを使ったり、あればちょっぴりブランデーを垂らしたりするのも乙な味になる。

 これを翌日の朝ごはんのときに、熱々の白飯のおともにするのが滅法うまい。

 みずみずしいプレーンのお刺身とは違い、ほどよく水分が抜けてもっちりとした食感で楽しませてくれる。

 もちろん、出汁茶漬けにしてもおいしい。

 伊緒さんはこれを、小ぶりなお茶碗によそったご飯にのっけて、おろし生姜をあしらって「ヅケ丼」にして食べるのが好きなのだ。

 さらにとろろと刻み海苔、うずら玉子なんかがあると鉄火丼風の豪勢な料理になる。

 でも、朝から大量には食べられないので、どうかするとヅケもちょっと残ったりすることがある。

 そんなときは、お昼ご飯にもう一段階の楽しみがやってくるのだ。

 ヅケにしたブリはすでに下味がついた状態なので、焼けばそのまま「照り焼き」になってくれる。

 そのままではタレの味が薄いこともあるので、味見をしながら醤油とみりんを足して、とろみがつくまで煮詰めればいい。

「ブリの照り焼きのときは、最初に出た脂を拭うのがコツなの」

 そう教えてくれたのはもちろん伊緒さんだ。

 焼き始めに出る脂が少し生臭いことがあるので、これをキッチンペーパーなどで吸い取ってやると、魚臭さが軽減される。

 ブリの照り焼きが、ご飯にとてつもなく合うことはいうまでもないが、お刺身から始まって二日にわたり、たいした手間もかけずに三段階で味わえるのはとっても楽しい。

 伊緒さんもすっかりブリを気に入ってくれたようで、どうやら我が家のお正月は東北風と関西風が入り混じった、面白いものになりそうな予感がしている。

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