第2椀 「君の味噌汁を毎日飲みたい」と言われても、実はすごくたいへんなのでは

 伊緒さんにどういう感じでプロポーズしたのか、実はほとんど覚えていない。

 その前後の記憶があいまいな理由はまあ、おいおいお話しするとして、何やらしきりに「味噌汁」のことを言っていたのだという。

「君の味噌汁を毎日飲みたい」

 というプロポーズの文句は、もはや無形文化財ともいえるほど伝統的かつレトロなもので、この封建的なセリフがぼくは大嫌いだった。

 考えてもみれば、これは家庭に入った女性が食事を支度して、しかも味噌汁という作業工程の多い汁物を毎日作るのを求めることに何の疑いも抱かない、理不尽極まりない旧世代の因習だとも言えるからだ。

 だが、ぼくは見事に味噌汁の話を展開して、最愛の女性にプロポーズしてしまった(らしい)。

 なんというだめな男なのだ、ぼくは。


 小さい頃から塾通いで、両親が共働きだったぼくは、家族で食卓を囲んだ記憶がほとんどない。

 だから、味噌汁を引き合いに出したプロポーズには、嫌悪と同時にものすごく、

「いいなあああ」

 と、いう気持ちを抱いていたことを白状する。

 実をいうと結婚するまでは、あまり味噌汁を食事のメニューに加えたことはなかった。

 一人暮らしのときも、自分のために積極的に作る気など起きなかったし、インスタントのものならスープとかラーメンなんかを汁物として選ぶことが多かったのだ。

 だから、初めて伊緒さんの味噌汁を飲んだとき、冗談じゃなくて本当にぼくは涙を流した。


「ねえ、晃くん。お味噌汁の具はなにが好き?」

 朝の起きがけに、他愛もないことを無邪気に尋ねてくる伊緒さんに、「ああもう、可愛いなあ」と思いながら平静を装って、

「豆腐と油揚げです」

 と、きっぱりと答えた。

 なぜかというと、伊緒さんは覚えていないかもしれないけど、彼女が始めて作ってくれたのが豆腐と油揚げの味噌汁だったから。つまり「すり込み」の一種だ。

「そっかあ! 大豆たんぱくズなのね」

 と、若干よく分からないことを言いながら、今夜の夕食には大豆たんぱくズの味噌汁を作ると約束してくれた。

 それだけでぼくはもう嬉しくなってしまい、朝からすでに晩ごはんのことで頭がいっぱいという厄介な状態となった。


 いつものようにいそいそと帰宅し、アパートの階段下にまで至るとふんわりとしたダシの香りが漂ってきた。

 一歩ずつ部屋に近付くにつれてその香りは強くなり、伊緒さんが「おかえりなさい、晃くん」といつものようにドアを開けてくれた瞬間、ぼくはたまらなく「懐かしい」思いに包まれた。

 味噌汁に対しての幼児記憶に乏しいくせに、どうしようもなく「懐かしい」と感じるのはとても不思議だ。

 日本人のDNAには、味噌とダシの香りに対するノスタルジーが刻みこまれているように思えて仕方がない。


「いただきます」

 二人同時に合掌してそう唱えるのは毎食の習慣だ。最初はちょっと恥ずかしかったけれども、今では外食するときでも必ずそうしている。

 最初に手にとったのは、やはりお味噌汁の椀だ。

 口をつけた瞬間ふわあっ、とダシの香りが広がり、ついで油揚げからしみ出たコクが味蕾のすみずみにまで行き渡る。一口をすすり終えると、

「ぬああああ」

 と、思わず唸ってしまうのは、もう生理現象と言っていい。

 隣では一拍おいて、

「ぷわあああ」

 と、伊緒さんも唸っている。

 こういうときだ。「家庭」を感じるのは。

「すごくおいしいです」

 ぼくはしみじみとそう呟いた。

「そう、よかった」

 伊緒さんが湯気の向こうで、にっこりと笑ってくれる。

 しかし、当たり前のように作ってくれている味噌汁だけど、結構手間がかかるのは僕にも分かる。なぜなら、伊緒さんは必ずダシを引いているからだ。

 インスタントの顆粒ダシと天然のダシでは、さすがのぼくにもその違いが明白だ。

 これまで伊緒さんが顆粒ダシを使っているのは見たことがない。

「伊緒さん、おダシって毎回引いてるんですか」

「そうよ? 今日はこんぶと煮干しのおダシ。気に入ってくれた?」

 気に入るもなにも、気に入るに決まっている。だって貴女が作ってくれるのですから。

 とは、言葉には出せずに、代わりにいつも思っていることを聞いてみた。

「毎回きっとすごく大変ですよね・・・? とってもおいしくて嬉しいんですけど、インスタントのおダシでも全然だいじょうぶですからね」

 ちょっとでも負担が軽くなるなら、と思っての発言だったのだが、伊緒さんはキラリと目を光らせると、

「ふっふっふっふ」

 と悪役笑いをしながら席を立ち、いずこともなく去る、と見せかけてすぐそこの冷蔵庫に向かっていった。

 そうしてまた「ふっふっふっふ」と笑いながら戻ってきた手には、なにやら透明の瓶のようなものを持っていた。

「これをご覧なさい。晃くん」

 瓶かと思ったのは夏に麦茶なんかを冷やしておくような、ガラス容器だった。中には水が満たされ、そしてこんぶと煮干しが浸け込んである。それぞれ水気を吸い込んで、ぷっくりと可愛らしく膨れている。

「これは水出しのおダシなの」

 初めて聞く言葉に、ぼくはきょとんとしてしまった。ダシといえば沸騰する寸前だか直後だかといったややこしい火加減のお湯で、絶妙のタイミングを見計らってとらなければならないものだと思い込んでいたのだ。

 それがコーヒーの如く、水出しとはどういうわけか。

「わたしのおじいさんのお兄さん、つまりわたしの大おじさんはかつて海軍の艦艇で主計兵をしていました」

 突然始まる「伊緒さん昔話し」はいつものことだ。が、耳慣れない単語に、ぼくはおうむ返しに聞き返した。

「シュケイヘイ・・・?」

「そう、つまり経理とか食料の管理とかをする部門で、大おじさんは海のコックさんだったのよ」

 伊緒さんが言うにはこうだ。

 主計兵のなかでも、毎食の調理を担当する人たちを「烹炊(ほうすい)」と呼んでおり、艦内の狭く限られたスペースと食材で乗組員の食事を用意していたのだという。

 平時でも戦時でも、食事をとらなければ生きていけない。厨房こそがかれらの戦場だったのだ。

「あたたかいお味噌汁って、兵隊さんたちにとって一番のごちそうだったんだって。お船での共同生活だから、ご飯が最大の楽しみって分かる気がするわ。でも何百人分ものご飯を用意しなくちゃいけないから、おダシをひくのもおおごとよね。そこでこれ、というわけなの」

 水出しのダシとは、艦隊で烹炊の任務についていたその大おじさんに教わった方法なのだという。

 大鍋に水を張り、たくさんの煮干しを一晩浸けておく。それだけで、翌朝にはしっかりとダシがとれているのだそうだ。あとは煮干しを引き上げてそのまま火にかけ、味噌汁を作ればいい。

「とってもカンタンでしょう! わたしもほとんど、大おじさんに教えてもらった水出しでおダシをとっているのよ」

 だからね、全然大変なんかじゃないのよ?

 そう言って伊緒さんは、にっこりと笑った。

 そうかあ。大変じゃないのかあ。

 ぼくはすっかり安心してしまって、ガラス容器に浸かっているこんぶと煮干しに語りかけた。

「でも嬉しいなあ。晃くんがこのお味噌汁の具が好きって言ってくれて」

 伊緒さんがちょっとはにかんだようにそう呟き、ぼくは思わず、え? と聞き返した。

「だって、初めて食べてくれたお味噌汁が、お豆腐と油揚げだったから」

――伊緒さん、覚えていてくれたんですね。

 ぼくは感激のあまり、落涙しそうになってしまった。だが、ここで涙を見せるわけにはいかない。なぜなら一口すすった直後に、すでに少し泣いているから。

「伊緒さん」

 ぼくは彼女に向き直り、どんなに自分が幸せかをはっきり言葉で伝えるべきだと思った。

 だけど、

「・・・もう一杯、いただけますか」

 口をついて出たのは、結局お代わりのお願いだった。

 でも、

「はいはい」

 と、嬉しそうにコンロに向かい、お鍋を温め直してくれる伊緒さんの後ろ姿を見て、ぼくはやっぱり目頭が熱くなってしまうのだった。

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