第37椀 牛丼?カツ丼?玉子丼?どんぶりの王者と伊緒さんの苦悩

 わたしはこれまで、夫である人に対して意図的につくってこなかった料理があることを告白します。

 けれど彼はその料理が大好きで、実はわたしにとっても特別な思い入れのあるメニューでもありました。

 それでもなお、わたしは頑なに家庭でそれをつくることを拒みつづけてきたのです。

 なぜか、と問われればわたしは口ごもってしまうかもしれません。

 いくつかのそれらしい言い訳はできるでしょうが、その実態はかなりの面でわたし自身の情緒的な問題に根差しているからです。

 料理が大好きで、家族のためにおいしいものをつくることを無上の喜びとしていた、わたしが心から敬愛する祖母が聞いたら本気で怒るかもしれません。

 なぜ、「好きな人の好きなもの」をつくろうとしないのか、と。

 そう言われてしまっては返す言葉も見つかりません。

 でも、それでもわたしは、やっぱり「どんぶり物」だけはお家で彼のためにつくる気にはなれないのです。

 

 どんぶり。


 もう一度、心を込めてその言葉を繰り返してみてください。


 どんぶり。


 とても美しいひびきです。

 その語源については諸説ありますが、一説には江戸時代に一杯盛り切りで食べ物を商った「けんどん屋」に由来するといわれています。

 「けんどん」は「慳貪」というむずかしい字を書き、"けちんぼでがめつい"という意味だそうです。

 そんなけんどん屋さんたちが使った食器を「慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)」といい、それが縮まって「どんぶり鉢」になったと考えられています。

 もちろんあくまでも一説ですので、由来についてはほかにもいろいろなお話があるようです。

 ご存知のとおり、どんぶり物とは白ごはんの上にさまざまな具材をのせた料理です。

 その起源についてはやはり詳らかではありませんが、おかずをごはんの上に乗せるという発想は、人類がお米を食べ出した歴史と並行していてもおかしくありません。

 日本史でいえば弥生時代の最初期からすでに「弥生丼」があったとしたら楽しいなあ、と思っています。

 とはいえ、意外なことに日本の食文化史において、どんぶり物が料理の一ジャンルとして確立されるのは、そんなに古いことではないのです。

 19世紀初頭・文化年間に登場した「鰻丼」が明確な初見事例であるともいわれ、それも当初は白ごはんとは別皿になっていた鰻の蒲焼きを、お客さんがあらかじめオン・ザ・ライスなさったことが始まりとも伝わっています。

  

 お話がそれてしまいました。

 

 どんぶり物の歴史はこの辺りで置いておくとして、この料理がもつ実に摩訶不思議な魅力と特性についてわたしは考えざるを得ないのです。

 まず、みんなが大好きなお米の上に、あらかじめおかずが乗っているという楽しげな状態は、視覚的にも多幸感を演出する効果をもっています。

 なにか任意のどんぶり物にお味噌汁、そして香の物の小皿があれば立派な定食になります。

 これはどこに出しても恥ずかしくない食事で、たとえば急なお客様だったりはるかに目上の方であったり、かなり気をつかわなければならない相手に勧めても失礼にはあたらないでしょう。

 ところが、想像してみてください。

 前述の定食を分解して、ごはんと味噌汁、香の物、そしてオン・ザ・ライスされるべきだったおかずを別皿に盛って出したとします。

 いかがでしょうか。

 なんだか急に寂しく感じたりはしないでしょうか。

 そうなんです。ここにどんぶり物のマジックがあるのです。

 一食分の総和は同じだとしても、丼にすることとしないことではその品質感に大きな差が出るのです。

 海鮮丼でたとえるとさらに分かりやすいかもしれません。

 10種類のお刺身を一切れずつ、白いごはんのお供にするのと、えいやっ、とごはんに乗せて丼にするのとどちらがメニュー感にあふれているでしょうか。

 好みの差もあるのでしょうが、これによって丼とは少量のおかずでも満足感をもって白飯を食べさせる料理、という定義付けを行うことができます。

 それゆえに、やや濃い目の味付けが指向されるようになり、ごはんと具材とをつなぐためのファクターが必要となるのです。

 そう、それは「タレ」と「ダシ」です。

 タレは鰻丼や天丼などに不可欠な存在として知られており、特に鰻丼に至っては「タレさえかければ鰻の味がする」という過激思想が蔓延するまでの事態になってしまいました。

 天丼も同様で、天つゆとは異なる甘辛いタレが絶妙な分量でごはんと天ぷらをつないでいます。

 これがもしもタレなしだと、何だかもそもそしてしまってとても料理と呼べるものにはならないでしょう。

 ダシの分野では、牛丼やカツ丼、そして玉子丼が筆頭格といえるでしょうか。

 牛丼などは特に、ダシを多めによそってもらう「つゆだく」という注文方法があることは有名です。

 いわばスープごはんのようになった状態で、これを勢いよくかきこんで食べるのがこたえられない、という声を耳にします。

 そう、この「かっこむ」という点がどんぶり物の醍醐味であり、同時にわたしが夫のためにつくることを抵抗する最大の要因でもあるのです。

 わたしがまだ学生だった頃は、牛丼屋さんに女性が一人で入るというのはとてもめずらしいことだったように思います。

 最近では女性の嗜好に配慮したメニューや、細かく分量を選べるシステムなどが充実してきたのでその限りではありません。

 しかし、当時のわたしにとって牛丼といえば男性の食べ物、ことに働き盛りの壮年社会人が素早くモリモリ平らげるもの、というイメージが強かったのです。

 ですから本当はすごく牛丼というものを食べてみたくても、なかなか気後れしてのれんをくぐれずにいたのが本当のところです。

 初めて牛丼を口にしたのは、夫と交際していた時期のことでした。

 二人とも仕事がすごく遅くなって、合流して食事どころを探したものの、すぐに食べられそうなところは牛丼のチェーン店しかない、という状況下です。

 まだ付き合いだして間もない頃でもあり、彼はわたしを牛丼屋さんに連れていくのをためらっているようでした。

 でもわたしとしては、しめしめわくわくな感じでしたので、牛丼ぜんぜん大丈夫だよー、となるべくさりげない風を装ってお店に入ったのでした。

 初めての牛丼屋さんは、本当におもしろいところでした。

 うわさに聞いた「つゆだく」「ねぎ抜き」「玉(ぎょく)」などの符丁が飛び交い、目の前にはたっぷりの紅しょうがが入った容器が置いてあります。

 実は牛丼初体験だということはすぐにばれてしまいましたので、彼にお願いして一番基本的なメニューを小盛りで注文してもらいました。

 なんとまあ、そのおいしかったこと。

 もっと脂っぽいのかな、と思っていましたがくたくたに煮込まれたお肉はやわらかく、とろとろのたまねぎと絡まって絶妙な口当たりです。

 おつゆがたっぷり染み込んだごはんも素敵で、かっこむわけにもいかないのでスプーンですくって夢中で食べました。

 関西の方は紅しょうがをたくさん使う、と聞いたことがあるので、関西育ちの彼とほかのお客さんとをこっそり比較したのも楽しい思い出です。

 一度の観察では明確な違いはわかりませんでしたが、たしかに紅しょうがは多めのほうがおいしいのでは、と思います。

 味でも、そして価格の面においても、牛丼は「どんぶり物の王者」と呼ぶにふさわしい食べ物だというのが、その時のわたしの結論です。

 でも。

 でもなんです。

 とってもおいしいどんぶり物ですが、ざざっ、と食べてぱちん、とコインを置いて、さっ、と席を立つという感じで、あっという間に食事が終わってしまうのです。

 わたしは、時間がゆるすかぎりは彼とゆっくり食事をとりたいのです。

 同じものを食べ、それぞれの感覚で味わったものへの思いを共有するのは、わたしにとってはとっても濃密な時間です。

 お家でどんぶり物をつくってしまっては、そんな愛おしい時間が早く過ぎてしまいます。

 したがってわたしは、できるだけ家庭にどんぶりの話題を持ち込まず、いまのところ丼鉢も食器棚にはありません。

 ところが、最近になって「牛皿」なるメニューの存在を知ってしまいました。

 うーむ、これだったら……と、思わないでもない今日このごろなのです。

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