第4話

「……ということで、期末テストの試験範囲のなかに入るから、みんな勉強しておいてね、よろしく」


 琴乃は腕時計をちらりと見た。これから十分ほどでレスポンスペーパーに授業への意見を書いてもらい、最後の五分で実習の総括をしなければ………。

 ペーパーを回収した琴乃は、ぐるりと教室を見回した。今日は不思議と一人一人の顔がはっきりと見える。緊張はしているが、上がってしまうこともなく、どこか冷静な自分がいて、授業をうまくドライブできたように思う。教室の後ろには、見学の先生がたと実習生たち。


「つたない授業だったけど、みんな聞いてくれてありがとう。最後に……」

 そう言いさして、琴乃は大きく息をついた。

 ――自分は、どうして教員になりたいんだろう?どうして人に教えたいんだろう?


「…みんな、歴史もそうだけど、社会科ってなぜ学ぶんだと思う?」

 教室の静けさが、耳に痛い。

「答えはいろいろあると思うけど、私はね、人間は社会的な生き物であることを学ぶためだと考えている。現生人類は学名でホモ=サピエンス=サピエンス、でも人間はただ学名のつけられた生き物であるだけでなく、社会的な生き物でもある。では人類はどんな社会的生き物として生きてきたのか、そして、私やあなた達は互いにどう関わってどう生きるべきなのか、これからも、歴史を通じてそれを学んで欲しい。なんて、偉そうなこと言って、私もまだ社会的な生き物としては、半人前だけどね」


 思わず笑みに自嘲が混じりそうになったが、夏美の言葉を思い出して押しとどめた。

「三週間、あなた達後輩と一緒に勉強できて、大変なこともあったけど楽しかったし、失いそうな夢を思い出すことができた。本当にありがとう」

 声は少し震えてしまったが、言い切った琴乃の声が天井に吸い込まれる。一瞬置いて、ぱらぱらと拍手が上がり、やがてそれは大きな渦となって教室をいっぱいに満たした。

 琴乃が西部先生のほうを見ると、にっこり笑って右手の指で小さな丸を作った。その隣に座っていた柊もニヤリとしたが、それは「よくやったな、お疲れさん」という意味だった。……いや、琴乃はそういう意味だと思いたかった。


 

 実習最終日、そろそろ陽も落ちかけるころ、琴乃は旅行用の小さなキャリーケースを引いて校門にたどり着いた。中には三週間でたまった、教科書や参考文献など重めの私物が満載されている。そして、校門の脇には夏美の紫陽花があった。花はごく小ぶりだが青い毬のように咲き、そのか細い枝が動いて、琴乃の前途を祝福してくれているようだった。


「ありがとう。また、会えるといいね」

 彼女は若木につぶやいた。

「桜井さーん!早く打ち上げに行こう!バスが来ちゃうよ」

 バス停の方角から、実習生の面々が手を振っている。琴乃も手を振り返すと、キャリーを引いて歩き出した。


 そして三年後。

 念願が叶って教員採用試験に合格した琴乃は、母校近くの魁星かいせい高校に、新任教諭として配属された。事前に何度か打ち合わせに出向いたとはいえ、初任校の出勤第一日目はやはり緊張する。


 彼女は七時過ぎに学校に着き、校門から延びる桜並木に胸を高鳴らせながら歩いた。教職員用玄関で出勤記録を処理し、自分の下駄箱を探す。教務の先生の手によるものだろうか、上から二段目の箱には「歓迎 桜井先生」と貼り紙と紙の花がつけてあり、嬉しくなった。それを丁寧に剥がしてカバンのなかにしまい、さて靴を入れようとして、手を止める。すぐ下の箱の扉には「高倉」と書かれていた。


 ――まさか。


 ただの偶然、と頭を振り、二階の職員室に上がった。出入り口の扉に手をかけようとして、後ろから誰かに呼び止められる。


「よう、新入り。やっと採用されて、見習いは卒業したのか?」

 琴乃は、あっと声を上げた。ペールグレーのスーツに、レモン色のシャツ。人を食ったような笑顔……。

「柊くん……この学校だったの?というか、教採、私より先に合格したんだ?」

「さっさとね。この学校は二年目だよ」

 そうかあ……吐息をついた琴乃に、また別の声が呼びかける。

「あら、桜井さん。久しぶりね!採用おめでとう。ここに配属されたの?」


 聞き覚えのある、この綺麗な声は――琴乃が振り返ると、白衣姿の「彼女」がビーカーを並べたトレイを持ち、微笑みながら佇んでいた。


【 了 】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後のアプレンティス 結城かおる @blueonion

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ