第3話
翌日には、琴乃と夏美の公開授業があった。いや、あるはずだった。琴乃はいつもより三十分ほど早く実習生室に来たが、夏美の姿が見えない。
――いつもあんなに熱心なのに。
だが、夏美は朝のショートホームルームが始まる頃になっても現れない。
――どうしたんだろう、お休みかな。
それにしては、おかしなことに他の実習生も夏美のことを話題にも出さない。公開授業は実習生の最大かつ重要な晴れ舞台だから、最初は急病か何かよほどの理由で欠席しているのだと思い、そのまま西部先生の授業を見学しにでかけたが、四時間目が終わっても、実習生室の夏美の席はからっぽで、それどころか在校している形跡もない。
実のところ、琴乃は昨日、夏美に苛立ちをぶつけたのを後悔していた。彼女と顏を合わせれば気まずくなるだろうが、あと少しで実習も終わってしまうことだし、ここは彼女に謝って関係を修復し、互いに気持ち良く母校を後にしたかったのだ。
「高倉さん、知らない?今日はお休みなの?」
星野や柊は、変な顔をした。「誰?それ」
「嫌だな、からかわないでよ。高倉さんだってば」
「高倉?だから誰だよそれ」
柊が眉を
琴乃は絶句する。
「誰って……」
いきなり知らない世界に放り込まれたかのような恐怖を覚え、彼女は二、三歩後ずさり、ぱっと身を翻して部屋を飛び出す。目指す先は職員室だった。挨拶もそこそこに、教頭先生の机の近くに置かれている実習生用の出席簿を繰った。実習生は六人しかいないから、すぐに目当てのものは見つかるはずだった。
「……あれ」
五十音順通りならば、琴乃の次に夏美の頁が来るはずなのに、彼女の用紙が挟まっていない。確か昨日まではあったと思ったけど…そのまま固まっていた彼女に、国語科の妹尾先生が「大丈夫?」と声をかけてきた。
大丈夫です、とおうむ返しに答えた琴乃は、今度は漂うように教職員用玄関へとたどり着いた。そこには教職員および実習生用の下駄箱が設置されている。琴乃は下駄箱に目を凝らした。柊、星野、……。
「ない」
呻くように琴乃は言った。高倉の名札のついた下駄箱はどこにもなかった。
――そんなことが、そんなことが?
「どうしたんだ?」
いきなり後ろから声をかけられ、琴乃は飛び上がった。玄関脇の事務室から出てきた西部先生だった。
「誰か探しているのか?」
「あの、高倉さんが……」
その瞬間、西部先生の表情が固まった。
「桜井、お前さん、彼女への記憶が消えていないのか?」
「えっ?……どういうことですか?」
玄関のガラス窓から差し込む陽の悪戯か否か、西部先生の眼が底光りして見えて、琴乃は怖くなった。
「一緒に来れば、わかる」
琴乃はためらったが、西部先生は靴に履き替え、さっさと外に出ていく。なので、琴乃も慌てて追いかけた。そのまま先生はずんずんと歩き、校門わきの花壇の隅に植わった、紫陽花の若木の前で立ち止まる。
「これ、桜井がここにいた頃にはなかったろう、後から植えたんだ」
「……」
むろん校門は毎日通り過ぎていたとはいえ、いままで琴乃はこの若木に気づきもしなかった。彼女には西部先生の真意が読めない。紫陽花の脇にはフェンスがあり、白いプレートがついている。
「アジサイ 彼女の虹色の夢を引き継ぎ、守ります 五十期生と担任団一同」
琴乃はそれを食い入るように見つめた。自分は五十四期生だから、五十期生とは在籍期間が重なっていない。
「『彼女』っていうのは、お前さんの知り合いだよ」
「?」
「名前を高倉夏美という」
「高倉……あの高倉さん?」
琴乃の聞き返しにすぐには答えず、西部先生は踵を返し、中庭に来るとバームクーヘンの切れ端の形をしたベンチに腰を下ろした。琴乃は少し距離を置き、その隣に座る。
「あいつ…高倉はね、ここの卒業生で四年前、やはり実習生としてこの学校に戻ってきたんだ」
俯き加減で、途切れ途切れに話す西部先生は、平素の彼らしくなかった。
「教員になりたい!と三週間がんばって実習してたよ。授業を聞きに回って、部活動にも顔を出して、生徒の相手もしてあげて。でも……」
西部先生は、そこでふうっと大きな息をつく。
「実習の最終日、交通事故に遭ってね、助からなかったんだ」
琴乃は驚きが大きすぎて、無言のままだった。
「そりゃ学校中大ショックさ、俺も高倉のクラスの副担だったし、当時の担任団を含め教師陣、そして何より生徒達がしばらく打ちのめされたままでね。叶うならば、彼女に教員免許を取ってほしかったよ、で、いつか俺達の同僚として働いて欲しかった」
「……彼女と私は、同級生じゃなかったんですね。それにしても、なぜ彼女は私達の前に現れたんでしょう?」
「『私達』ではなく、桜井の前にだよ。お前さん、いろいろ悩みながらも一生懸命にやっていただろう?だから、高倉もそれに引っ張られたんだな、きっと」
「……」
「でも、今回彼女が最終日まで学校にいてくれたら、きっと免許を取れたのに。最後の最後で行方不明になっちゃったよね。何だかもったいない話だ」
琴乃はええ、と頷きそうになって、「うん?」と首を傾げた。
「それ、おかしくありませんか?」
「どうして」
「だって、彼女は……でしょう?」
死者が免許を取れるなんて、あり得ない。だが、西部先生は微笑してとんでもないことを言いだす。
「だって、別にこうしたことは珍しいことじゃないよ」
「珍しいことではない?」
こんなときに冗談はやめて欲しい、と琴乃は思った。
「ああ。だって……俺も、もとをただせばキツネだからな」
あっさりと答えた西部先生を前に、琴乃の眼はまんまるとなり、口はポカンと開いた。
「き、キツネですか…?」
「ああ、そうだよ」
先生は肩をすくめた。
「何だ、気が付かなかったのか」
「う、うそ……だって」
言われてみれば、確かに先生の髪の色や顔つきなどはキツネらしく見えなくもないが、尻尾も生えていないし、顔も声も人間そのものである。そして、琴乃は先生の正体というよりも、彼が正体を自ら明かして平然としているという事実に驚きを隠せなかった。
「何だ、知らなかったのか。先生は人間ばかりとは限らないんだよ、狐狸の類もちょっとばかり混じっているのさ」
「……ここの学校だけ?」
琴乃は口を利くのがやっとである。
「全部の学校ではないけれど、たまにそういう学校があるんだよ。そして、俺はそういう学校を渡り歩いている。個人情報保護の観点から名前はいえないけれど、実はあと二人、この学校にもアヤカシ先生がいたりする」
「え……だ、だって教員免許は?まさか、葉っぱとか?」
実習生の疑惑の
「免許状は葉っぱではなく、きちんと持っているよ。ついでに言うと、免許更新の講習もちゃんとすませてある」
「だって、免許申請のときの本籍地は……」
「人間のふりをして暮らせる書類も揃ってるのさ」
ははは、と人間の形をしたアヤカシは笑う。
「教えることだって、人間の先生とどこが違う?俺の授業、人間ぽくなかったか?ん?」
琴乃は首を横にふって、「違いません」の意思表示をするのが精いっぱいだった。
「でも……なんでわざわざ先生に?」
先生は首を傾ける。
「教師をやりたかった、それだけだよ。理由付け?そんなの俺にはいらないわけでさ。お前さん達は就活があるから、四六時中理由付けをしてるだろ。働く理由、その仕事でなければならない理由、生きていく理由…俺達は、そういうところからは自由だよ。どうだ?」
うーん、と考え込んでしまった琴乃を前に、西部先生はカラカラと笑う。
「それより六時間目の公開授業だが、最後が肝心だ。授業の総括として、母校と人生の先輩として、授業の芯を――彼等に何を伝えたいか考えておくこと。いろいろ驚いただろうが、気持ちを切り替えろ。しっかりやりな。腹を括って」
琴乃は頷いたが、ひとつ心残りがあった。夏美に謝りそこなってしまったこと、そして――。
「彼女の公開授業、見てみたかったです、とても」
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