第2話
授業が終わってほっとした琴乃は、自分の教科書やノート、クラス出席簿を持ち運び用のカゴに入れていた。そこへ、男子生徒がやってきて質問を発した。
「うーん、多分それは、違うと思うけど…」
頼りない答え方に、生徒はやや失望した様子である。琴乃が逃げるように廊下に出ると、西部先生に捕まってしまった。頤を階段のほうへしゃくってみせたのは「放課後、社会科準備室に来い」という意味である。
社会科準備室の大テーブルに、指導教員と実習生は腰を下ろした。下校する生徒達で、昇降口が賑やかになりつつある。
「生徒の質問は、怖いか?」
俯いた琴乃に、西部先生は笑いかけた。が、眼つきは真剣そのものである。
「あいつら、すぐにこちらが答えられない、しかも的確な質問をしてくることもあるから油断ならん。でもね、一番よくないのはいい加減に、あやふやに教えてしまうことだよ。生徒達には、その間違った知識や情報がインプットされてしまい、後で直そうとしても手間がかかる。もしその場でわからなかったら、調べてくるって約束しなさい」
「……はい、気を付けます」
「うちの生徒のほとんどは、それを馬鹿にしたりはしない。まあ一生懸命調べてきても、相手が質問すら忘れてることもあって、腹が立つけどね。でもたとえ馬鹿にされても、いい加減なことを教えてしまうよりもマシだと思わなければ。こちらが生徒より『一日の長』があるとすれば、調べるツールなり手段を知っているということなんだからさ」
「……はい」
「教員志望の桜井にとっては、これから先何十年、そして何千回もある授業の一回に過ぎないかもしれないが、あの子達の多くは、この一年間の世界史Bの授業が、生涯最後のものになるかもしれないんだ。だから、一回いっかいの授業を大事にするんだね」
平素、万事ざっくりしているように見える西部先生が、珍しく「マジ」だった。だがガミガミ叱られなかった分、琴乃の心にはいたく堪えた。
「わかりました」
「せっかく彼等は胸を貸してくれるんだから、がっぷり組み合ってごらん。じゃあ、戻ってよし」
「きりーつ、れーい、ちゃくせきー」
柊は着席した生徒をぐるっと見回し、にやりと笑った。
「はい、こんにちは。…そういえば今朝さ、お前達が体育でランニングしているのを見てたんだけど、みんなカッコいいのな。大体さあ、スーツや制服を着ればカッコ良さ二割増し、走っていれば四割増しになるんだよ、これ豆な」
ふふふ、と教室で笑い声が漏れ、生徒達はシャープペンシルを握って臨戦態勢になる。
「で、俺の数学でみんなのカッコ良さをさらに五割増しにしちゃおうか。こら佐藤、いつまでも笑ってるな。さあ、今日は前回と同じく円の方程式の話だよ。まず前回やったことを簡単に復習していこう。……」
チョークを持つ柊の手がくるくると指揮者のように動き、黒板に図形を書いていく。
――上手いなあ。
高校時代、琴乃にとって数学は苦手な教科だったが、それでも柊の教え方の巧みさはわかった。すっきりとしているがよく練られた授業計画、ちょうど良いテンポ、緩急のつけた話し方、わかりやすい板書……。
さして教職に情熱や興味のなさそうな彼が、自分に持っていないものをすでに持っていることに、見学していた琴乃は羨望と苛立ちを同時に覚え、教室の後ろの椅子に座りながら何度か足を組み替えた。「この人はどうよ?」と内心思っていた柊くんが、噂通りこんな良い授業をするなんて……と、琴乃はショックを受けてしまったのである。その実、彼女は気づいてもいた。彼の授業は、教材を読んでいたあの真剣な眼差しに裏打ちされたものであることを。
柊に見学の礼を言い、何となく力の抜けた態で琴乃は社会科準備室に戻った。これから自分の授業計画をもとに、西部先生と打ち合わせをするのである。
「柊の授業、見てきたか?」
彼女に柊の授業見学を勧めたのは、他ならぬ西部先生だった。
「どう思った?」
彼女は一瞬、答えに詰まった。
「上手かったです、とても」
我ながら小さな声だと思った。先生は「ふむ」と頷き、彼女の心中を見透かすような目つきをした。
「人生は不公平だよな。じゃあ、彼の授業のアラは見えたか?」
「アラ……ですか?」
先生は苦笑した。「実習生としては上出来だが、欠点だってあるんだ。たとえばあいつは桜井が未熟な点を幾つもクリアしているが、慣れ過ぎているのがなあ」
「駄目なんですか?」
「おう。お前さんが持っていて、あいつに足らないものだってあるよ、何だと思う?」
問われても、琴乃には見当もつかない。西部先生は手にした教務手帳の角で、自分の頬をコリコリと掻いた。
「あのな……授業計画も、話し方も板書もイマイチなお前さんの唯一のとりえは、ひたむきであることだよ。未熟であることを自覚しつつも、一生懸命でいることだ。だから、生徒は下手な授業でも、『まあ、仕方ないか』と思って付き合ってくれてるんだよ」
「そういうものですか?」
「そうそう、心だけでなく、技術も必要だけどね。だから焦らず、お前さんなりのやり方を見つけんと。桜井の本当に伝えたいこと、シンプルだがずっと今後の授業の芯となっていくものは何だろう?」
自分の「授業の芯」……琴乃にはその言葉がわかるような、わからないような、という感じだった。
「見学させてもらってありがとう。それで…」
二階のピロティで、琴乃は夏美から声をかけられた。
「丁寧に授業をしているのはいいと思う。でも、何だか自信がなさげだよね」
琴乃は疲れがピークに達していることもあって、むっとした表情になるのを隠しきれなかった。夏美の言葉が、熱心さを通り越してひどく押しつけがましく聞こえた。だが、相手はそれに気づいているのか否か、言葉を続ける。
「もうちょっと堂々としていなよ、あと自虐ネタもほどほどにしたほうがいい、と思う。どうかな?」
「せっかく私の授業を見てくれたし、感想までもらったからあれなんだけど…どうせ、柊くんのような上手い授業も、あなたのような堂々とした態度もできないよ。でも、こんな私でも教師になりたいの、おかしいでしょう?」
切り口上の返事が、琴乃の唇から飛び出す。そんなつもりはなかったのに、自分でも驚くくらいの冷たく乾いた口調になっていた。
「ううん、そうじゃなくて、私の言いたいのは…」
夏美は眉を寄せ悲し気な表情になったが、琴乃はぺこりと頭を下げて走るように去った。そしてその日、夏美は席を外したまま実習生室には戻ってこなかったのである。
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