放課後のアプレンティス

結城かおる

第1話

「えーと、それで……」


 檀上で琴乃ことのは絶句した。初夏の昼下がり、やや蒸し暑い2C教室では、七十個の眼がこちらを向いている。実はあと八つの眼も同じ方角を指していなければならないが、忌々しいことにそれらは閉じられ、鼻と口からは、揃ってすーすーと寝息が漏れている。

「フランドル地方は毛織物業が盛んで……」

 一瞬頭が真っ白になったが、手元のノートを見てやっと続きを言う事ができた。額に汗がにじんでいるのに気が付き、つい手で拭う。

「せんせーい」

「な、何?」

 甘ったれたような質問の声に、琴乃の胸の鼓動はターボ状態となる。

「チョークがせんせいの額についてまーす」

 笑い声が沸き、けだるい教室の空気が少しだけ揺れた。焦った琴乃はごしごしと額を掌でこすってからようやく、スーツのポケットにハンカチを入れていたことを思い出した。その胸には、「教育実習生 地理歴史科(世界史) 桜井琴乃」という名札がつけられている。


「全体的にやっぱり早口だよな。特に語尾をはっきり発音しないと、聞き取りにくいよ。もう少しゆっくり」

「はい」

「あとさ、授業のためにいろいろ調べてきたことはわかるけど、全部てんこ盛りにしないこと。余談はあくまで本筋の補助なんだから、取捨選択して」

 C棟三階の社会科準備室で、いまの授業を後ろで聞いていた西部にしべ先生から指導を受ける。西部先生は茶色がかった髪とまなじりが上がった眼、こけた頬を持つ中年で、琴乃の指導教員かつ2Cの担任でもある。

 琴乃がこの県立明海めいかい高校を卒業して三年余り、すでに先生方も何割か異動で入れ替わっていたが、西部先生は彼女の在校時より勤めており、琴乃も二年生の時に教わったことがある。


 三週間の教育実習も二週目に突入し、西部先生の授業の見学を経て、今日は自分自身の二回目の授業だったが、慣れもせず手ごたえもなく、ただもう計画通り授業を消化するのに手一杯、クラス全体を目配りすることもできていない。この調子のまま実習が終了してしまうのか、最後の公開授業は先生方や他の実習生も聞きに来るのに…と、琴乃は憂鬱から逃れられなかった。


 実習生にあてがわれた部屋は職員室近くの小会議室で、接続された四つの机の回りに、六つの椅子が配置されている。琴乃が自分の席で実習日誌を書こうとしていると、向かいの高倉夏美たかくらなつみが声をかけてきた。ぱりっとした白衣を着こみ、目の前の机にでんぷんの入ったビーカーを載せている。家庭科の実習生で琴乃の同期だというが、クラスが離れていたためなのか、在学時には知らなかった子である。だが、今回の実習で彼女から声をかけてきて、二人は親しくなった。快活で熱心、青白い肌と、綺麗で特徴のある声の持ち主だった。

「ねえ、桜井さん。公開授業の前に、いちど授業を観に行ってもいい?西部先生にお願いして、許可もらうから」

「……うん、いいよ」

 困ったなあ、と内心思いながらも琴乃は承諾の返事をした。

「あーれ、なにびくびくしてんの?」

 スポーツドリンクをがぶ飲みしながら教科書を読んでいた柊正幸ひいらぎまさゆきが、おおげさに眉を上げて見せた。だが、琴乃は返事をする代わりに、日誌に没頭しているふりをする。


 柊は一浪経験者で琴乃の先輩に当たるが、教員免許をぜひ取りたいという訳でもなさそうで、おまけに彼だけがリクルートスーツではなく、華やかな青色の上下に極細のストライプのシャツを着こなしている。いかにもチャラチャラした外貌と軽さの目立つ言動も相まって、琴乃をはじめ教員志望組からはやや煙たがられてもいた。


「まあ、俺達ひよっこだからな、見習いっていうか。そりゃびくびくするわな」

 琴乃の無視にも動じない柊はそれでフォローを入れたつもりなのか、今度は英語科の星野ほしのにちょっかいを出し始めた。相手は生真面目なメガネ男子である。


「そういや、見習いって、英語で何て言うの?」

「……アプレンティス」

「何?」

「アプレンティス。見習い、とか徒弟って意味。教育実習生なら、ステューデント・ティーチャー」

 星野はそう答えて、ずり落ちたメガネを上げた。

「なるほど。アプレンティスね」

 柊は、その言葉を舌の上で転がしているかのようだった。

「にしても星野、お前なんだか元気ないなあ」

 星野くんはさっき職員室で、指導教員の鎌田先生に授業の駄目出しをガンガンされていた、彼もそれを知っている筈なのに……と、琴乃は苛立った。


 一方、漏れ聞く噂によると、柊の授業は生徒にも「わかりやすい」と評判がいいらしい。案の定、星野は柊が煩わしくなったのか、「図書室で調べものがあるから」と退散してしまった。


 ――できる人の無神経、ってきらい。どうせ、その軽い調子で生徒に媚びてるんじゃないの?


 いけないと思いつつ、つい心がささくれる琴乃であった。

 ――実習が終われば、教員採用試験。まだ先は長いのに。


 あんなに人に教えたい、社会の奥深さや歴史の楽しさを伝えたい、と実習前は思っていたはずなのに、その志がゆらいでいる。塾講のアルバイトで少人数あるいは個人を指導した経験はあったが、学校でのそれは勝手が違っていた。我ながら甘く見ていた、と思う。

 それに、先生方の姿を日々間近に見ることになって、自分が生徒だったときは思いもしなかった多様な仕事を知るとともに、その責任の重さをひしひしと感じる。


 ――本当に、私なんかに務まるの?


 授業の二、三分前には実習生室を出なければならないが、教室に行く途中は、まるで刑場に引かれている気分となってくる。通りすがりの生徒達は挨拶をしてくれるが、それを返すのも何となく上の空だ。特に恐ろしいのが教室に入ってから教壇に足をかけるまでの数秒間で、まるで死刑台に足をかけているかのようだ。ただし、ひとたび号令が終わると、琴乃の心から瞬間的に恐怖や嫌気が蒸発し、あとは授業に没入できる。そんな恐怖と没入の繰り返しで、彼女はいつも授業が終わると疲労困憊となっていた。


 そんな琴乃が実習日誌を前に黄昏たそがれていると、大きな足音が廊下に響き、体育科実習生の早川がジャージ姿で飛び込んできた。

「ハヤカワセンセーイ、廊下は走ったらイケマセン」

 もと同級生である柊の茶々に、早川は「うっせえ」と返し、「用具の点検で時間かかっちまった、これから部活に行ってくるわ」と教材一式を机に放り出すなり、バタバタと出て行った。

「いっけない、私も吹部の練習に付き合うんだった」

 大学院への進学を志望する国語科の小山内も教科書を閉じて、あたふたと立ち上がる。そして、彼女に釣られるように席を立ったのは、夏美だった。

「私は合唱コンの練習を見に行ってくるね。吉沢先生が放課後に出張で、代わりに顔出しを頼まれてるから」

 彼女はすでに授業に関しては準備万端終わらせているのか余裕を見せ、毎日が楽しそうである。琴乃は、そんな彼女が眩しく見えた。


 実習生室からは次々と人が消え、琴乃は柊とふたりで取り残された。彼女は居心地悪く感じ、自分の茶道部が本日休みなのを恨んだ。だが柊はこちらにかまわず、教材を読みふけっている。上背のある身体に、きりりとした眉、思いのほか長いまつ毛、浅黒い肌……いつになく真剣な彼の表情を盗み見て、琴乃は我知らず落ち着かなくなり、思わずシャープペンシルの芯を日誌に強く押しつけ、ぽきりと折ってしまった。

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