#11「 hymneⅡ -歌-」
真っ白なベッドの上で、夕霧が穏やかに寝息を立てている。
彼女の細い首筋から伸びた、いくつもの管。シーツに包まれたその姿はひどく小さい。
それもそのはずだ。今の彼女は検査のため四肢を取り外されている。手足のない彼女の姿は、まるで赤子のように
ここは訓練学校に隣接する医療施設の一室だ。あのあと夕霧はすぐにここへ収容された。慢性
彼女の腎臓は以前から障害を抱えており、定期的な治療を受けていたらしい。彼女の担当医から説明されるまで、そんなこと考えもしなかった。明るい夕霧が、そんな病気を患っていたなんて。
機械化児童の出自は、徹底した守秘義務に守られる。それでも夕霧自身から聞いた話では、機械化される前の彼女はホームレス紛いの生活をしていた時期もあったらしい。あるいは、そうした辛い生活が彼女の体を蝕んでいたのかもしれない。
訓練における肉体への負担が、その症状を進行させてしまった。皮肉にも、夕霧の機械化児童としての優秀さが仇となったのだ。
白露が見守るなか、夕霧が薄っすらと目を開ける。
「…………白露さん?」
茫洋とした眼差しが焦点を結ぶ。そのまま身を起こそうとする彼女を、白露は優しく制した。幼い子供をあやすように。
「今はジッとしてて。急に動くと、針がずれてしまうよ」
乱れたシーツを直してやりながら、点滴と透析の具合を確かめる。それを見て夕霧は、やっと自分の状況を理解したようだった。
「白露さんが……お医者様を呼んでくれたんですか?」
無言で頷き返すと、夕霧は安心するように大きく息を吐いた。それが合図であったかのように、白露は頭を下げる。
「ごめんなさい、夕霧さん」
いきなり謝られて、夕霧は訳が分からずにキョトンとしていた。そんな彼女の瞳は、無防備な姿であればこそ、いっそうキラキラと輝きを増すように感じられる。
「さっきの言葉は、嘘じゃないんだ……」
それだけで夕霧は、何の話か分かったようだった。
中庭での会話で彼女は責めた。白露の心が分からない――と。
それは正しい指摘であり、白露自身も共感するところだった。
だからきっと、これは
「僕にも分からないんだ……自分自身の心が」
世界を、夕霧を、そして自分自身を欺き続けてきた、その罪の。
「なんで君たちは、そうして当たり前のように笑ったり、怒ったり、悲しんだりできるんだい? どうしたら、僕も君たちと同じにように普通の人間らしくなれる?」
驚いた顔で目を丸くする夕霧――見開かれたその瞳を覗く。
青く透明な瞳。キラキラした鏡のような夕霧の目。そう、鏡だ。
彼女はまさに鏡だった。真っ白で純真無垢な、鏡のような存在。
彼女はその透明な瞳で、世界を在りのままに映し取る。
だから彼女が苦手だった。怖れた。目をそらし逃げようとした。
白露の姿、その本性も、彼女に映し取られてしまう気がして。
鏡のような彼女を通して、自分の本当の姿を
自分が何もない空っぽの人形であることを――。
「僕は……空っぽなんだ。きっと……僕が生まれた時に、神様が入れ忘れたんだと思う。僕の中に、人の心を」
それから、白露は全てを話した。
物心がついた頃――白露はとある貧しい教会で暮らしていた。そこでは白露と同じように身寄りのない子供たちが引き取られて、一緒に育てられていた。
年老いた神父様と太ったシスターは、良い
他の子供たちも、例え親がいなくとも神を愛し隣人を愛する、真っ直ぐな人間に育てられていた。違ったのは、白露だけだ。
ある日、一人の子供が傷ついた一羽の小鳥を拾ってきた。教会で暮らす年少の女の子だ。彼女は小鳥を小さな両手で包みながらワンワン泣いていた。怪我をした小鳥よりも、その女の子の方がよっぽど痛そうだった。
そこで白露はまず女の子を泣き止むよう慰めて、それから小鳥を預かった。
そして落ち着いた女の子が教会の中に戻る姿を見送ると、裏庭へと移動した。それから錆びたブリキのバケツを拾ってくると、水道で水を汲み、その中へ小鳥を沈めた。
小一時間ほどして、話を聞きつけたシスターが裏庭へとやってきた頃にはすでに、白露は小鳥の埋葬を終えていた。
枯れ枝で作った小さな十字架を前にたたずむ白露を見て、その中年のシスターは小さな悲鳴と共に神に祈りを捧げると、白露を神父様の所へと連れて行った。
最初のうち、白露は自分がなぜ叱られるのか分からなかった。小鳥の怪我はすでに手遅れの状態だった。だから楽にしてあげた。きちんとお墓も作り、お祈りもした。
そのことをいくら説明しても、シスターは顔を伏せ、神父様は困ったように顔の
それで気づいた。普通の子は、こういう時に悲しむものなんだ。
二人はそれをどうやって白露に教えるべきか悩み、ほとほとに困り果てているのだと、ようやく理解していた。
ぼくはフツウの子どもとはチガウ。ぼくはフツウじゃないんだ。
悲しみにくれる大人たちの目が、時折何かに怯えるような暗い影を宿していることにも気がついた。それが、白露への怖れだと知った時――白露もまた、怖れを抱いた。
それから白露は、必死に他の子供たちの様子を観察した。泣いたり笑ったりするさまを真似した。なんとか自分もみんなと同じようになりたいと、こっそり礼拝堂で神様に祈ったりもした。
おねがいです。どうかぼくにも、みんなとおなじ心をください。
そうして真似事を続けるうちに、いつしか白露は他のどの子供よりも上手に歌ったり、早く走ったり、するすると木登りしたりできるようになった。しかし、どんなにそれらが上達したとしても、どうしても
ぼくは空っぽの人形なんだ――。
それを他人に知られるのが怖い。自分が人の振りをした人形だとバレてしまったら、大変なことになると思った。
そのことに怯えながら、気づかない振りをして静かに暮らした。この秘密がバレてしまったら、ブリキの人形みたいにバラバラにされて捨てられてしまうに違いない。そんなありもしない不安に取り憑かれながら、つねに良い子として振る舞うよう気をつけた。
真冬の冷たい雨が降るある日――白露は極寒の河へ身を投げた。
その頃の教会は増えすぎた孤児を前に、貧しい生活はますます苦しくなる一方だった。このままでは神父様やシスターも含め、みなが飢えて神様の下に召されるのは時間の問題に思えた。その中で行く当てのない白露は、間違いなく一番の重荷だった。
〝自分という重荷がこの天秤から飛び降りれば、その分軽くなったみんなの乗る秤は、少しでも上に昇れると考えました〟
救助された後――白露は大人たちの質問に、そう答えた。
結果として、白露の事故がきっかけで義援金が集まり、一部の孤児には里親も見つかって、教会は救われたそうだ。
そのことを神父様は褒めてくれた。お前は良い行ないをした。神様もきっとその正しい心をお認め下さるに違いない――と。
だから――本当は人の真似をしながら生きるのに疲れてしまい、気がついたら河に飛び込んでいたんです――という真実は胸の奥にしまい込んで、黙っておくことにした。
それから凍傷によって手足の指を失った白露は、国が所有する施設で四肢を機械化する手術を受けることになった。
無事に手術も成功し、初めて他の子供のいる訓練室へと連れて行かれた日――白露はそこで繰り広げられる光景に目を奪われた。
足を機械化した子。腕を機械化した子。義眼や補強器具を取り付けられた子。白露と同じように体を機械化された子供たちが、揃って緩衝材が張り巡らされた室内を、必死にのたくっていた。
配線も剥き出しの、ぶっ格好な訓練用機械化義肢を、なんとか普通の手足のように動かそうと頑張る子供たち。施設の大人たちに指導され、みんなが必死にその動きを真似ようとしている。
いつか普通の人間と同じになれるように、必死に人真似をする子供たち――その光景を見た白露は、強い衝撃を受けた。
それはおそらく、白露が初めて得た安らぎだった。自分と同じように人間の真似をして生きる子供たち。みんな僕と同じだ。
ここが僕の居場所だったんだ。もう孤独に耐えなくてもいい。
ここなら僕はフツウじゃないことに怯える必要はないんだ。
その時は、そう信じていた――。
「――けど、それは僕の勘違いだったんだ。結局、僕はみんなと同じにはなれなかった。一緒に訓練を受けるうちに気づいたんだ。僕とみんなは違うんだって。他のみんなは誰に教えられなくても、普通に泣いたり笑ったりできるんだってことに」
白露の話を、夕霧は泣きも笑いもせず、黙って聞いてくれた。
だから白露は、神に己の罪を告白するかのように――自分よりも幼い少女に向かって、溢れる言葉を次から次へと吐き出した。
「僕は空っぽなんだ。僕には生きる目的も、夢も、願いもない。何もない空っぽの人形……それが僕さ。僕にはバッジを手にする資格なんてないんだ。だって、それは僕には最初から必要のないものなんだから――」
言葉を詰まらせる白露――後を引き取るように夕霧が言った。
「だから……夕霧にくれたんですか?」
「……分からない。ただ、そうするべきだって思えたんだ。ペアを組んでいる彼には、悪いことをしたと思ってる。でも……気がついたら自然に体が動いてたんだ」
夕霧の真っ直ぐな瞳。吸い込まれそうな空の青さを湛えたそれを、白露も真っ直ぐに見つめ返した。もう逃げないために。
鏡のようなその青い瞳が映すものは――
「きっと……許してくれると思いますよ?」
無邪気に笑う夕霧の瞳に映るものは――呆気に取られたどこか間の抜けた白露自身の姿だった。
「それは……でも、僕は――」
「いま夕霧にお話してくれたみたいに……きちんとお話すれば、その子にもきっと伝わるはずです」
再び顔を伏せる白露の頭に、ひんやりと冷たい何かが触れた。医療用ベッドに備え付けられたロボット義手――取り外された手足の代わりになるもの――それが、白露を優しく撫でる。
「白露さんの、心が、です」
ビックリして顔を上げる。そこには巧みにロボット義手を操り、ニッコリと微笑む夕霧の顔があった。
「夕霧は白露さんのお話が聞けて、うれしかったです」
まるで魔法の杖みたいにクルクルと義手を回しながら、夕霧は続ける。
「夕霧はもっともっと、白露さんとお話してみたいです。だって白露さんとのお話は、とっても楽しいの。それに白露さんとお話したあとは胸の奥まで、日向ぼっこするみたいに温かくなるの。それってきっと、白露さんの心が夕霧のことを、お日様みたいに温めてくれるってことなんです」
夕霧が何を言ってるのか理解できなかった。僕の心は空っぽで、そう伝えたばかりなのに。いつもそうだった。彼女との会話では、いつも白露は振り回されてばかり。なのに――
「君は……僕にも心があるって、そう言ってくれるのかい?」
ふいに頬を温かいものが伝う。
涙――それを夕霧の義手が、優しくすくいとる。
「はい。だって、白露さんの涙は温かいじゃないですか。こんなにも温かい白露さんが、心を持ってないはずありません!」
キッパリと言い張る夕霧は、まるで駄々っ子のようだった。彼女は子供っぽく天真爛漫を絵に描いたようで――そして、温かい。
ああ――夕霧の声は、彼女の言葉は、こんなにも温かい。
冷たい義手を通して、その温もりが、想いが伝わるようだった。
夕霧は白露にとって訳の分からない存在だった。だから怖れた。でも――それは彼女も同じだったのかもしれない。
それでも夕霧は、逃げることなく真っ直ぐに向き合った。
彼女は鏡だ。白露が彼女の瞳ごしに自分の姿を覗いていたのと同じく、夕霧もまたその想いを確かめていた。白露の瞳を通して。
まるで鏡合わせ。僕たちは互いに相手を
僕たちは鏡のように出逢っていた。それは二人の関係を正しく織り成すための調律。バイオリンはそれ単体では音を発せない。弦を弾く弓があってこそ、初めてその音色を奏でられる。
ならば、白露にとって夕霧こそが弓だった。
僕という楽器を弾く弓。彼女が僕から音色を引き出した。
僕の、この心という名の音色を。
気づけば白露は、夕霧の胸で泣いていた。赤子のようにすすり泣く白露を、彼女は機械の手で優しく抱いてくれる。
白露は泣いた。それは歓喜の産声だった。夕霧に抱かれ、白露はこの世に生まれ直した。空っぽの人形でなく、心を持った一人の人間として、ようやく世界に受け入れてもらえたんだ。
夕霧の鼓動。白露の産声。ちっぽけな病室に響く二人の
しばしの間、ゆっくりとした時間が流れ――涙を拭った白露は、やがて静かに口を開いた。
「……
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
砂漠の中にたたずむ少女の姿に、白露は涙を零した。
温かい――それはいつの日にか、彼女がくれた温もり。
彼女が白露を変えてくれた――彼女が白露を人間にしたのだ。
「そうだ……君のお陰だ。君がいないと、僕はダメなってしまう。君に出逢うことで、僕は初めて人の心を持てた。君を愛するこの感情こそが、僕の心だったんだから」
砂の大地に跪くままに、パラパラと零れる砂を握り締め、己の想いを吐き出した。かつて彼女に向かってそうしたように。
「僕には君が必要だ。僕という楽器を弾く弓は、君だけなんだ。君を想うこの気持ちが、音色になって僕の心を、僕を正しく調律してくれる。……僕は君に逢いたい。君にこの想いを伝えたい。もう一度、君の歌を聴きたいんだ!」
号泣する白露――少女が寄り添う。
優しい温もり――以前もこうして彼女の鼓動を近くに感じた。心をくすぐるような少女の声――かつて白露を救ってくれた導き。そして、白露は己の中に握り締めた、それの存在に気がついた。
恐る恐る――壊れ物を扱うよう慎重に手を開く/目をそらさず真っ直ぐに、その手にあるものを確かめた。
少女から白露に贈られたもの――思い出の品=青い馬のバッジ。
人は信じれば魔法が使えるんです――彼女の声が蘇る/彼女の言葉――願いの魔法を約束する
「ああ!」裸の胸で力いっぱい抱き締める――失くしたと思ったもの/それが再びこの身に宿るのを感じた。
「そうか……感情は音色であり、物質でもあったんだ。君を想うこの感情こそ、君がくれた、僕の心だ。だから――」身を丸める白露を、少女が優しく抱き締める――歌うような彼女の声。
福音に導かれるように顔を上げ――そして、見た。
空を飛ぶ――大きな大きな鳥の影を。
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
歌声――見えない糸に引かれるように立ち上がる。
想い――信じることが力になる。魔法の言葉。
魔法――誰もがその力を持っていると、少女は教えてくれた。
願い――叶えるすべを、歌が教えてくれた。
鳥籠――白露の願いを妨げるもの。少女と白露を
砂漠――狭苦しい鳥籠の扉を開く、そのすべを。
運命――それを変える転機となった出来事。幼き日の記憶。
天秤――さあ、今こそ重荷を捨てて、自らの秤を昇らせよう。
あの日、小さな鳥を殺したように――今再び、目の前を飛ぶ大きな騒々しいあの鳥を殺そう。
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