#10「 hymneⅠ -歌-」
その朝――演奏を終えるなり、夕霧に怒られた。
「どうしてあんなことしたんですか?」
「……何のこと?」
左の頬に貼られた真新しいガーゼ。鏡で確認した限りでは、唇にも傷痕が残っている。どちらも先日の訓練でこしらえた怪我だ。
「ああ……これか。仲間の仕掛けたトラップに引っかかるなんて、我ながら格好悪いよね」
別に大したことはないさ、といったように肩をすくめてみせる。
訓練は日を追うごとに激しさを増し、今はチームに分かれ実戦さながらの演習が繰り返されている。みんな一つでも多く
「でも、ちょっと仲間には悪いことしたかな? 模擬戦であそこまで執拗なトラップを用意するなんて、アイツも大概だよね」
苦笑しながら、あらためて夕霧に微笑みかける。
「
そこで話を聞く夕霧の目が、徐々に尖っていくのに気がついた。
そのあまりの眼力に続く言葉を失った白露は、魚のように口をパクパクさせながら、内心〝しまった〟と思った。
透明な瞳で白露を見つめる夕霧が、静かに口を開く。
「ワザとだったんですか……?」
いつもの彼女からは想像もつかないその有無を言わせぬ迫力に、驚きよりもまず先に思ったことは――ああ、この子でもこんな顔するんだな――という妙な納得だった。
可愛らしいマルチーズと思い込んで小屋に近づいたら、獰猛なブルドッグに出くわしたような気分。
夕霧が本気で怒っていることを、白露はようやく理解した。
「夕霧のためですか……?」
否定することは簡単だった。
だが、それを言葉にするのはためらわれた。
彼女の剣幕に
「夕霧を一番にするために、白露さんは負けたんですか?」
夕霧の真っ直ぐな眼差し――先に目をそらしたのは、白露の方だった。
「……分からない」それが正直な気持ちだった。
「白露さんは……ズルイです」
顔を伏せた夕霧がスカートの裾をギュッと掴む。抱えきれない想いを絞り出すように、寂しげな瞳を白露に向ける。
「いつもそう。白露さんはいつも夕霧から、目をそらすの……」
青い空が
なぜ自分がこんなにも罪悪感を抱いているのか、分からない。それでもなお白露は、夕霧と真っ直ぐ向き合うことができなかった。彼女と瞳を合わせることができなかった。
そんな白露の姿に、震える声で夕霧が呟く。
「白露さんは、いつも誤魔化してばかりです。それじゃあホントの気持ちが、心が分からないの……」
いつも
夕霧の言い分はもっともだ。
確かに白露は日々を誤魔化しながら過ごしてきた。偽りながら生きてきた。そのことを夕霧は見抜いたのだ。いや――
あるいは、最初からこうなると分かっていたのかもしれない。でも、それを白露が認めたくなかった。逃げていたのだ。
夕霧からも、そして自分自身からも。
「僕も……分からないんだよ」
自嘲するようにそれだけ伝えると、白露はバイオリンケースを抱え背を向けた――その手を夕霧が掴む。
「白露さん! 夕霧じゃ、ダメですか? 夕霧には……ホントの気持ちでお話してくれないんですか……」
白露の手にすがりつく夕霧が、詫びるかのように声を落とす。
「夕霧は……悪い子でしたか?」
そうじゃないんだよ、夕霧さん。悪いのは、僕の方なんだ――喉まで出かかったその言葉を飲み込む。彼女の手を無理やり振り払って、逃げるように中庭を後にする。
彼女に握られた手を無意識に擦る。精巧に造られた機械化義肢が、生身のように痛む気がした。幻肢痛――失われた感覚の残滓。消え去ったはずのものが泣いている。自分自身を責めるように。まるで夕霧の温もりが、白露を追いかけてくるようだった。
それを振り切ろうとして、駆け出した時――
どさり――と、後ろから何かの倒れる音が聞こえた。
その意味を理解するよりも早く、振り返る。
中庭の真ん中で、夕霧が倒れていた。
思わず声を上げそうになり、唇を噛む。傷痕からにじむ血の味。気にするな、と脳が命じる。なんてことない、ただ転んだだけだ。
きっと、連日の訓練で負荷のかかった機械化義肢が不調をきたしたのだ。それは自己管理を怠った彼女のミスだ。
だから白露に責任はない。ここは大自然の荒野でも大都会の真ん中でもない。狭苦しい鳥籠のような機械化児童訓練施設の中だ。どうせすぐに朝の見回りで職員がやってくる。
頭ではそう理解していた。これ以上、彼女に関るな。今すぐにこの場から去れ、と。
だが――意思に反して、まるで見えない糸に引かれるかのように、体が勝手に動いていた。バイオリンを放り出し、急いで彼女のもとに駆け寄った。その小さな体を抱き起こす。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い息を吐く夕霧。先ほどまでの元気が嘘のように蒼ざめた顔。苦しげに固く閉ざされた瞼。とっさに額に手を当てる――義肢の擬似感覚を通して、高熱が白露の手にも伝わってくる。
「夕霧さんっ!」
血相を変えた白露の呼びかけ。
その言葉に、昏迷する彼女は
「はぁ……はぁ……はぁ……」
暮れなずむ砂漠――走る/一心不乱/悲鳴を上げる四肢・心肺。全て錆びついて動かなくなるイメージ――まるで凍りつくように。
肉体と機械の境界性が揺らぐ――昼:夜/生:死/現:幻/個:全――全てが曖昧に融け合い、何もかも崩れ去ってゆく。
砂に建つ巨大な携帯電話の群れ――さながら機械仕掛けの石碑/数多の墓標/どこにも繋がらなかった、届かなかった言葉たち/砂漠に消えた感情が遺した残響の
音・音・音――無数の携帯電話が一斉に歌い出す――プルルル/プルルル/プルルル――まるでコール音の
頭がガンガン割れるように痛い/喉がカラカラに渇く/目の前がグラグラ揺れる/キンキン耳鳴り――手・脚・全身に、赤錆びだらけの鉄刺が絡みつく。
それでも――白露は走った――歯を食いしばって――あまりに強く噛み締めたことで奥歯が欠ける――喘ぐように血と折れた歯を吐き出しながら、なおも進み続ける――自分を呼ぶ声/いつかどこかで聞いた声/忘れられた歌――そう、歌だ。
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
ウタ ガ キ コエ タ 。
いつか聞いた歌/僕を呼んでいる――彼女が僕を呼んでいる!
どこかにいるはずの――僕のために歌ってくれた――僕が好きだったあの子が!
頭 ガンガン 痛い――喉 カラカラ 渇く――目 グラグラ 揺れる――キンキン 耳鳴り――鳴ってる 音 声 彼女 大切 願い 愛する 好きな 歌 歌 歌 歌 歌 歌 歌!
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
股間が痛いほど充血しているのを感じた――温かい――凍えるような寒さの中で、あの子の歌は僕を温めてくれた/満たしてくれた――空っぽの心を――空っぽの僕を――ああ!
「僕は……生きたい。生きて……もう一度、君に逢いたい!」
そして、届いた――無数に乱立する巨大な携帯電話/その一つで高らかな歌声――ひび割れた画面――流れる数字――1123――それをなぞるように、そっと左手で触れる――命の温もり/彼女の温もりを――ああ、なんて、温かいんだ――
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
すぐ側で彼女の歌声が聞こえる――懐かしい声・吐息・匂い・温もりを感じながら、白露は振り返る。
「――――ああ!」
夕映えに輝く真っ白な服。透明な青い瞳。揺れる白金の髪。
あーあああー♪ あああーあーあああー♪
白露の目の前で、夢見た少女が、微笑みながら歌っていた。
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