#10「 hymneⅠ -歌-」

 その朝――演奏を終えるなり、夕霧に

「どうしてしたんですか?」

「……何のこと?」

 とぼけるようにはぐらかすと、夕霧は黙って白露の顔を指差した。

 左の頬に貼られた真新しいガーゼ。鏡で確認した限りでは、唇にも傷痕が残っている。どちらも先日の訓練でこしらえた怪我だ。

「ああ……これか。、我ながら格好悪いよね」

 別に大したことはないさ、といったように肩をすくめてみせる。

 訓練は日を追うごとに激しさを増し、今はチームに分かれ実戦さながらの演習が繰り返されている。みんな一つでも多く得点スコアを稼ごうと必死で、この程度の傷など取るに足らない日常茶飯事になっていた。

「でも、ちょっと仲間には悪いことしたかな? 模擬戦であそこまで執拗なトラップを用意するなんて、アイツも大概だよね」

 苦笑しながら、あらためて夕霧に微笑みかける。

おめでとうグラトゥリーレ。十三人抜きの大記録達成だ。これで今期のトップは。僕も負けてられないな。実戦では今回みたいなヘマをしないように、気をつけないと――」

 そこで話を聞く夕霧の目が、徐々に尖っていくのに気がついた。

 そのあまりのに続く言葉を失った白露は、魚のように口をパクパクさせながら、内心〝しまった〟と思った。

 透明な瞳で白露を見つめる夕霧が、静かに口を開く。

だったんですか……?」

 いつもの彼女からは想像もつかないその有無を言わせぬ迫力に、驚きよりもまず先に思ったことは――ああ、この子でもこんな顔するんだな――という妙な納得だった。

 可愛らしいマルチーズと思い込んで小屋に近づいたら、獰猛なブルドッグに出くわしたような気分。

 夕霧が本気で怒っていることを、白露はようやく理解した。

「夕霧のためですか……?」

 否定することは簡単だった。

 だが、それを言葉にするのはためらわれた。

彼女の剣幕に気圧けおされたからじゃない。その透明な瞳の奥に、たとえようもない悲しさを見てしまったからだった。

「夕霧を一番にするために、白露さんは負けたんですか?」

 夕霧の真っ直ぐな眼差し――先に目をそらしたのは、白露の方だった。

「……分からない」それが正直な気持ちだった。

「白露さんは……ズルイです」

 顔を伏せた夕霧がスカートの裾をギュッと掴む。抱えきれない想いを絞り出すように、寂しげな瞳を白露に向ける。

「いつもそう。白露さんはいつも夕霧から、……」

 青い空が仄暗ほのぐらい闇夜に染まるように、深い悲しみを宿した瞳で彼女は白露を見ていた。それに白露は、胸が締め付けられるような痛みを覚える。

 なぜ自分がこんなにも罪悪感を抱いているのか、分からない。それでもなお白露は、夕霧と真っ直ぐ向き合うことができなかった。彼女と瞳を合わせることができなかった。

 そんな白露の姿に、震える声で夕霧が呟く。

「白露さんは、いつも誤魔化してばかりです。それじゃあホントの気持ちが、……」

 いつも楽しげジョコーソな声の響きが、だんだん静かスモルツァンドになっていく。

 夕霧の言い分はもっともだ。

 確かに白露は日々を誤魔化しながら過ごしてきた。偽りながら生きてきた。そのことを夕霧は見抜いたのだ。いや――

 あるいは、最初からこうなると分かっていたのかもしれない。でも、それを白露が認めたくなかった。逃げていたのだ。

 夕霧からも、そして自分自身からも。

「僕も……

 自嘲するようにそれだけ伝えると、白露はバイオリンケースを抱え背を向けた――その手を夕霧が掴む。

「白露さん! 夕霧じゃ、ダメですか? 夕霧には……ホントの気持ちでお話してくれないんですか……」  

 白露の手にすがりつく夕霧が、詫びるかのように声を落とす。

「夕霧は……悪い子でしたか?」

 そうじゃないんだよ、夕霧さん。悪いのは、僕の方なんだ――喉まで出かかったその言葉を飲み込む。彼女の手を無理やり振り払って、逃げるように中庭を後にする。

 彼女に握られた手を無意識に擦る。精巧に造られた機械化義肢が、生身のように痛む気がした。幻肢痛――失われた感覚の残滓。消え去ったはずのものが泣いている。自分自身を責めるように。まるで夕霧の温もりが、白露を追いかけてくるようだった。

 それを振り切ろうとして、駆け出した時――

 どさり――と、後ろから何かの倒れる音が聞こえた。

 その意味を理解するよりも早く、振り返る。

 中庭の真ん中で、

 思わず声を上げそうになり、唇を噛む。傷痕からにじむ血の味。気にするな、と脳が命じる。なんてことない、ただ転んだだけだ。

きっと、連日の訓練で負荷のかかった機械化義肢が不調をきたしたのだ。それは自己管理を怠った彼女のミスだ。

 白露に責任はない。ここは大自然の荒野でも大都会の真ん中でもない。狭苦しい鳥籠のような機械化児童訓練施設の中だ。どうせすぐに朝の見回りで職員がやってくる。

 頭ではそう理解していた。これ以上、彼女に関るな。今すぐにこの場から去れ、と。

 だが――意思に反して、。バイオリンを放り出し、急いで彼女のもとに駆け寄った。その小さな体を抱き起こす。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 荒い息を吐く夕霧。先ほどまでの元気が嘘のように蒼ざめた顔。苦しげに固く閉ざされた瞼。とっさに額に手を当てる――義肢の擬似感覚を通して、高熱が白露の手にも伝わってくる。

!」

 血相を変えた白露の呼びかけ。

 その言葉に、昏迷する彼女はこたえを返してくれなかった――。


「はぁ……はぁ……はぁ……」

 暮れなずむ砂漠――走る/一心不乱/悲鳴を上げる四肢・心肺。全て錆びついて動かなくなるイメージ――まるで凍りつくように。

 肉体と機械の境界性が揺らぐ――昼:夜/生:死/現:幻/個:全――全てが曖昧に融け合い、何もかも崩れ去ってゆく。

 砂に建つ巨大な携帯電話の群れ――さながら機械仕掛けの石碑/数多の墓標/どこにも繋がらなかった、/砂漠に消えた感情が遺した残響の遺譜いふ――

 音・音・音――無数の携帯電話が一斉に歌い出す――――まるでコール音の大合唱フルコーラス

 頭がガンガン割れるように痛い/喉がカラカラに渇く/目の前がグラグラ揺れる/キンキン耳鳴り――手・脚・全身に、赤錆びだらけの鉄刺が絡みつく。

 ――白露は走った――歯を食いしばって――あまりに強く噛み締めたことで奥歯が欠ける――喘ぐように血と折れた歯を吐き出しながら、なおも進み続ける――自分を呼ぶ声/いつかどこかで聞いた声/忘れられた歌――そう、

 あーあああー♪ あああーあーあああー♪

 ウタ ガ キ コエ タ 。

 いつか聞いた歌/僕を呼んでいる――

 どこかにいるはずの――僕のために歌ってくれた――

 頭 ガンガン 痛い――喉 カラカラ 渇く――目 グラグラ 揺れる――キンキン 耳鳴り――鳴ってる 音 声 彼女 大切 願い 愛する 好きな 歌 歌 歌 歌 歌 歌 歌!

 あーあああー♪ あああーあーあああー♪

 股間が痛いほど充血しているのを感じた――――凍えるような寒さの中で、あの子の歌は僕を温めてくれた/満たしてくれた――――――

「僕は……生きたい。生きて……もう一度、君に逢いたい!」

 そして、――無数に乱立する巨大な携帯電話/その一つで高らかな歌声――ひび割れた画面――流れる数字――――それをなぞるように、そっと左手で触れる――命の温もり/彼女の温もりを――ああ、なんて、温かいんだ――

 あーあああー♪ あああーあーあああー♪

 すぐ側で彼女の歌声が聞こえる――懐かしい声・吐息・匂い・温もりを感じながら、白露は振り返る。

「――――!」

 夕映えに輝く真っ白な服。透明な青い瞳。揺れる白金の髪。

 あーあああー♪ あああーあーあああー♪

 白露の目の前で、夢見た少女が、微笑みながら歌っていた。

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