#12「 hymneⅢ -歌-」

 朝映えに染まる中庭で、白露は久しぶりに夕霧に出逢った。

「具合はもういいの、夕霧さん?」

「夕霧は元気です♪ いま白露さんにお会いできて、もっと元気になりましたー♪」

 屈託のない顔で笑う彼女は、電動車椅子に座っている。

 患者服の裾から伸びる真新しい合成素材に覆われた機械仕掛けの両腕を、元気いっぱいに広げるその姿を見て、白露はホッとしながら肩をすくめる。

「その調子なら、経過は問題なさそうだね」

「はい! ……白露さんの、お陰です」

 はにかむように頬を染めながら、夕霧は愛おしげにお腹を擦る。

 彼女が優しく手を触れるその下では、今も移植された白露のが、確かに息衝いているはずだった。

 かつては白露の体の一部であり、今は彼女の一部となった臓器モノ

 彼女への臓器提供は、白露の提案であり、希望でもあった。

 彼女のお陰で白露は空っぽの人形から人間にれた。

 これはそのお礼であると同時に、白露の願いなのだ。

 自分の一部を――夕霧を想う今の感情、この大切な心の一部を、彼女と分かち合いたいと思ったのだ。その想いを託すために。

「白露さんがくれたのお陰で……夕霧はまた自由にお外を歩けるようになるって、お医者様は言ってました」

「それは……よかったね」

 慈しむようにお腹を撫でる夕霧に、白露は笑顔を引きらせる。

 どうして彼女はこう、変な言い回しをするのか。

 誰かに聞かれて勘違いされたらどうする。全く……後でこの件は二人だけの秘密だとでも言い聞かせておかないと。本当に――出会った頃から夕霧には振り回されてばかりだ。

「白露さんも、とってもお似合いですよ♪」

 夕霧に言われ、白露はあらためて自分の格好を確かめる。

「……そうかな?」

 照れるように真新しいの襟元を正す。夕霧が入院している間に訓練課程を終えた白露たちは、一足先にこの訓練学校を後にする。今後は軍の施設で最終訓練を受けて、それからそれぞれの戦場に送られることになるのだろう。

「バッチリです♪」

 調整前の義手とは思えぬ器用さで、こちらにグーサインを送る夕霧。こうして彼女の無邪気な顔を見られるのも、おそらく今日で最後になる。そう考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。

 でも白露は、それをもう怖いとは思わない。

「そういえば……

 不思議そうに小首を傾げる夕霧に、笑いかける。

「君の言う通り、ちゃんと話したら相手も分かってくれたんだ。〝やれやれ、そういうことなら先に言え〟って、笑ってた」

 それを聞いた夕霧が、パッと花が咲いたように顔を綻ばせる。

「お友達と仲直りできて、よかったですね♪」

 二人で笑い合った。こうやって自然に笑えるようになったのも、彼女のお陰だ。苦しさや悲しさを知った分だけ、喜びや楽しさも知ることができる。

「そんな白露さんに、夕霧からもプレゼントがありまーす♪」

「えっ……何かな?」

 いたずらげに微笑む夕霧に手招きされる。彼女の前に立つと、「そこっ。そこで目を閉じて、屈んでください」と命令された。なんだかおかしなことになったな――と思う間もなく、夕霧の手が軍服の胸元に伸びてきて、白露の胸をまさぐった。その感触に思わずドキッとする。

「はい。もう目を開けていいですよ~♪」

 さっと夕霧の手が離れる。なんだか名残惜しいような変な気分を味わいながら、自分の胸元に目をやった。

「これは――」

 まだ徽章きしょうもないまっさらな軍服に付けられた、勲章のような品。

 精緻な装飾の中央にいななく一頭の駿馬しゅんば――

「夕霧さん。このバッジは、君がもらったはずじゃ――」

「はい。きのう夕霧の病室に、教官さんが賞状と一緒に持ってきてくれたんですよー」

 青い馬のバッジは、鳥籠のような施設の中で自由の象徴だった。

 いつか天馬のように、あの青い大空をどこまでも自由に羽ばたいていける――そんな願いを抱いて、みんながこれを求めていた。

 それを彼女は自ら手放し、白露にくれるのだという。

 願いを叶えるための、魔法のお守りを。

「夕霧は、もう欲しいものが見つかったから……今度は白露さんが欲しいものを見つける番です♪」

「……ありがとう、夕霧さん」

 この胸にある彼女への想いを、白露はしっかりと抱き締めた。

 白露の願い。それはもう見つかっている。

 この施設の外で、もう一度、夕霧に逢いたい。

 だから、このバッジはそれまで預かっておくことにした。彼女と再会した時に、白露の手で返すために。

 それから――二人で一緒に願いを叶えるすべを探しに行くのだ。帰り道を探してエメラルドの国まで旅をした少女のように、夕霧の願いを叶えるために。

 それが白露の願いだった。

 目の前にニッコリと笑う夕霧の顔があった。

 近い。僕らはこんなにも近くにいた。

 きっと僕らはどこかで繋がっている。

 この広い世界で、どんなに時間と空間を隔てようと、怖れずに手を伸ばせば、きっと手が届く。

 それを夕霧が教えてくれた。

 この胸の中に、彼女がくれた大切な想いがあるだけで、この先どんな苦難が待ち受けようと乗り越えられる。

 この彼女を愛する心さえあれば――。

 出発までの時間は限られている。いま白露が抱くこの感情を正しく伝えるにはあまりに足りない。こんなことなら、もっと色んな本を読んでおくんだった。自分の心をしっかりと言葉にするには、白露はまだまだ経験が足らなすぎる。

 けれど幸いなことに、白露は言葉以外でも想いを伝えるすべを知っていた。こちらの方は、彼女を満足させる自信がある。

 ちょっとばかし誇らしい気分に浸りながら、バイオリンケースを取り出すと、白露は前から考えていた一つの提案を口にする。

「夕霧さん。よかったら今日の演奏は、?」

「……夕霧がですか?」

 白露の誘いによっぽど意表をつかれたのか、夕霧は鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目をぱちくりとさせている。

 いつもと逆。合わせ鏡。白露の言葉に戸惑う彼女の姿を見て、という気分を味わうのも悪くなかった。それから少々悪ふざけをしてやりたくなって、からかうようにく。

「嫌なら……諦めるけど?」

「う……歌います! 夕霧は歌いますよー♪」

 あわを食ったように腕をパタパタさせて必死にやる気をアピールするその姿は、やっぱり尻尾を振るマルチーズそっくりだった。

 苦笑しながら、顎と肩でバイオリンを固定する。

 チューナーと糸巻きで念入りな調弦を終えて、弓を構える。

 微睡む眼差しを彼女に向けると、夕霧は頬を赤らめながら、膝の上でギュッと祈るように両手を組んだ。

 それが合図となり、二人は音を紡ぎ始める。

 それは白露と夕霧が奏でる音色。二人の音が、バイオリンと歌が織り成す調和の音色だ。今このとき、互いに惹かれ逢う奇跡を忘れないために。未来と明日への祈りを込めて。

 二人のこれからの関係性を、正しく織り成すために。

 夕霧と目が合った。鏡合わせ。微笑むように二人の音色はけ合い一つとなる。共鳴する音色。それは足りない言葉すら埋めて互いの弦に触れ合うすべとなる。心の弦――二人の振るえる心を重ねる、二人で生み出す調律の音楽だ。

 きっと最初から僕らは惹かれ合っていた。白露の音色が、夕霧の声音が、互いの心に届いて

 この瞬間――二人の心は虹色に輝いていた。輝きに満たされた。

 だからこれは――始まりの歌。

 いつの日かまた、もう一度この街で巡り逢うために――。

 僕らはきっと繋がっている。例え離ればなれになろうと、君を想うこの心は永遠だ。それを信じている限り、きっと。

 虹を越えて――

 二人の願いを込めた虹の歌が、いつか再び僕らを巡り合わせてくれると、そう願った。

 虹の彼方にオーバー・ザ・レインボー


    ***


(感情とは、物質だったんだ)

 モノに感情が宿るのではなく――感情そのものが物質化された存在が、すなわちこの世界であり宇宙そのものの姿。だから感情が欠落するってことは、世界から欠落することでもある。

 世界からの欠落――つまり、それが死だ。

 感情を失った物質は形をも失い、やがて無へと還る。

(嫌だ。消えたくない。無くなりたくない。嫌だ嫌だ。僕は僕でいたい。僕は、僕でありたい。僕はここにいたい。あの子にあいたい。あの子にもう一度あうまで、消える訳にはいかない。世界から零れ落ちる前に――僕はあの子にあいたい。アイタインダ)

 そのためには感情を失ってはならない。エントロピーを失った世界は無に消える。(嫌だ)ブラックホールの蒸発。(嫌だ)形を、存在をも失って、いずれ何もかも冷えて無に飲み込まれてゆく。

(嫌だ嫌だいやだいやだイヤダイヤダ)逃れるすべは一つしかない。感情を失ってはならない。失った感情を取り戻さなければ。

 感情は物質。物質は感情。物質には感情が宿っている。。質量とエネルギーが等価であるように。感情と物質も等価の関係。失った感情。それを取り戻すには――

 感情の宿った物質を。水やたんぱく質や炭水化物をることで僕たち人の体が作られてゆくように。感情の宿った物質を食べることで、新たな感情を作り出すことができるんだ。心の等価交換。感情の移植。心の空白を、

(そうさ。失った分だけ、食べればいい)

 感情の宿った物質を。あの子へと捧げた僕の感情を。僕の心を宿した、彼女の中で生きている僕の一部を。そうすれば……この気持ちを失わずにすむ。あの子を悲しませずにすむ。

(あの子を愛し続けるために――


     ***


 ボ

   ク

     ハ

       鳥

         ヲ

           殺

             シ

               タ

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