#3「dissonanceⅡ -不協和音-」

 彼女と出会ったのは、白露がまだ訓練学校にいた頃だ。

(新しい候補生が来るんだって。なんでそんなことを知ってるのかって? 子供工場の訓練課程を最短記録でクリアした逸材って、教官たちが噂しているのを聞いたんだ。本当だよ。しかもそいつ男子じゃないらしい。どうやら女の子らしいんだ)

 同期の中でもお喋り好きなその少年が、興奮気味にまくし立てる姿を思い出す。彼はとにかく色々なことをよく喋った。ユダヤ教の戒律だと髪を切らないことは善行ミツヴァなのに、無知な教官に無理やり丸坊主にされたんだと、いつも愚痴を零していた。

(ここを出たら、今度こそ髪を伸ばしてやるんだ)

 みんなここがただの訓練機関などでなく、海外派兵する兵隊を育てる養成所だと理解していた。ここを出たら戦争に行かされる。どこか遠い見知らぬ土地で、

 誰もがそれを頭では理解していた。でも、あえて口にする者もいなかった。自分たちのような機械化児童がこの国で生きてゆくには、大人たちの命令には「はい」と従う以外に選択肢はない。みな、どこかで怖れていたのだ。命令を聞かない子供は、いつか手足を取り上げられてしまうんじゃないかって。

 だから訓練学校の専門コースなんてものは、晴れて将来立派な人殺しになる奴らの集まりであって、そんな連中は他に行く当てのない男子ばかりと相場が決まっている。

 それだけに、そんなところへノコノコやって来る女子なんてものは、これはと、みんなで噂し合った。

 そして確かに彼女――青い瞳のモレンツは普通じゃなかった。

 彼女は特別だった。

 みんなにとっても――白露にとっても。


 ザリザリと雑音ノイズが聞こえる。

 多分、風が運ぶ砂音だ。最近小さな雑音が気になって仕方ない。おそらく疲労と慣れない環境で神経が過敏になっているせいだ。それから

 待機所の壁に刻まれた×印の数は、とうに三桁を越えていた。もう長いこと砂漠で暮らしている。それでもこの環境にはちっとも慣れた気がしない。

 砂漠での水は貴重だ。それは二十一世紀になろうと変わらない。紛争によって浄水施設が機能せず、この国では水不足に苦しむ人が増えている。例えライフラインを復旧させたとしても、電力が足りずに遠地まで真水を送ることができないらしい。

 その点、故郷であるオーストリアは恵まれていた。ウィーンは欧州でも古くから治水技術が発展した街で、いつでも好きなだけ真水が飲めた。そのせいだろうか……砂漠に来てからというもの、やたらと喉が渇く気がする。

 この待機所へ配属された当初などは、酷いものだった。物資は十四日に一度しか投下されないことをうっかり忘れて、飲み水を全部飲んでしまった。そのせいで補給までの数日間を、これでもかというほどの渇きに苦しみながら過ごす羽目になった。

 あれは失敗だった。あの時は喉の渇きに耐えきれず、水のことしか考えられない有り様だった。訓練学校で教わったサバイバル術を試してみたり――砂を掘った穴に小便をしてビニールで覆う。すると砂漠の熱で気化した水分がしずくになって集まるので、落ちた水滴を中央に設置した小瓶に貯めるのだ――我慢ができず最終的には小便をそのまま飲んで渇きに耐えたのだけれど。人工臓器でろされた尿は、飲み水と大して味が変わらなかった気がする。

 この身は半分機械とはいえ、やはり飢えも渇きもする。結局のところ自分の主体はあくまで生身なのだと――なんだか安心した。

 人は飢えも渇きもする。それはただの人間も機械化児童も同じだ。そしてこの砂漠には、あの時の白露と同じように、あるいはそれ以上に苦しんでいる人たちがいるはずだった。大勢の人々が満たされない欲求に苦しみ悩んでいる。

 渇望――。満たされないから。満たされたくて。きっと――

「白露・ルドルフ・ハース伍長」

 ふいに名前を呼ばれて、我に返る。

 軍服姿の男が一人、不審そうな目つきで眉をひそめていた。

?」

 男の顔には見覚えがある。海外派兵される前に本国で一度、顔を合わせていた。白露の上官に当たる人物で、確か軍での階級は大尉だったはず――なぜそのがこんな辺境の砂漠にいるのか、しばし考えを巡らす。

 ……今日は数ヵ月ごとに行われる機械化義肢の検診日だ。大勢の大人たちがよってたかって白露の体を調べていく。最後に医師が「何か問題は?」と訊ねる。白露は「何も無い」と答える――何度も繰り返された決まりきったルーチン/変化のない日常――だが/なぜか今回はいつも訪れる軍医や技術者たちに交じって、この大尉がいた。

 黙考する白露の姿に興味を失ったのか、やがて大尉はため息をついて待機所の奥に引っ込んでしまった。

 検査のため上着を脱ぎ、上半身裸のままで考える――その間も胸に聴診器を当てられたり、検査器具で手足の接続部クッションをコツコツと叩かれたり、大人たちは忙しなく白露の体を隅々まで調べては何かの数値を端末に記録してゆく。

 まるで実験動物モルモット――だが、こんな扱いは子供工場時代から慣れたものだった。今さら気にもならない。この場にいる誰も、気にしていないに違いない。

 唯一のイレギュラーはあの大尉だ。

 なぜあの軍人が今さらこんな前線の待機所へやって来たのか? これまでずっと、放っておかれていたのに――。

 ふむん、と壁の姿見に映る自分の姿を見つめて、自問する。

 そういえば――今日の検査はいつもより念入りな気がする。

 大人たちの動きもどこか慎重で、たまに白露が顔を向けると、慌てて目をそらすようにと書類や端末での作業に戻る。

 どこか不自然だった。何がおかしいという感覚。

 違和感――もしくは

 変化のない砂漠での日々――閉ざされた匣がと軋む/パサパサになった木目がと裂けるイメージ――あるいは――変化の兆し。

 ――胸の奥で、何かが音を立てるのを感じた。

 喉が渇く――動揺を抑えつける。落ち着け、と心に命じる。

 ドクンッ――仕事を終えた大人たちが何かを話している。

 喉 渇く――それを検査着姿の自分がぼんやり眺めている。

 ドクンッ――鏡像/鏡に映る光景/どこか遠くに感じる。

 喉 渇 ――大人たちが機材を片付ける/書類をまとめ終える。

 ドクンッ――医師が待機所を出る/技術者が続く/大尉が続く。

   渇 ――待機所を出る前に、ふと大尉が

   渇望――満たされぬ渇き。叶わぬ望み。願い。喉が渇く。

 その瞬間――衝動が旋律となり、白露の全身を駆け巡った。

「…………たい」

 ポロリと――自分でも予期せぬ言葉が零れ落ちていた。

「ここから……

 まるで砂時計の砂が零れ落ちるように――感情の満ち潮/心の防波堤が崩れ去る/あっけなく――押し寄せる感情の波が溢れるように決壊していた。

「故郷に……帰りたい」

 それは叶わぬ願いだった。軍の特甲児童として与えられた任務――絶対のルール/命令を聞かない子供は手足を取り上げられる/強迫観念にも似た、犯してはならない禁忌タブー――特甲児童として生きてゆくための……

 だが/もう遅かった――だって、崩れ去った防壁は砂のように脆くて――胸に押し込めたはずの願いが溢れ出すのを押し止めるすべなど、もうなかった。

「あの子に……もう一度逢いたい」

 匣の中に閉じ込めた想い――それは決して開けてはならない、パンドラの匣だったのに――叶わぬ願いだと分かっているのに/止めることができなかった。

 大人たちが振り返る/そして――目をそらす。

 まるで物言わぬ岩のように動かぬ大人たち。

 それは砂のように脆くはかない白露と違って――あまりにも固く。

 こうなると分かっていたはずなのに――願いを口にしたところで、何が変わる訳でもない。感情の引き潮――寄せては返す波/後に残るのは惨めな思いの残滓。よりいっそう辛い涸渇こかつだけ。

 残酷な沈黙が落ちる――何事もなかったかのように大人たちがくるりと向き直り、静かに待機所を後にする。

 惨めな気持ちでそれを見送った。

 そこに――

 予期せぬ呟きに、驚いて顔を上げる。

 待機所の出口で、こちらに背を向けた大尉が、まるで独り言のようにささやいていた。

「国連からの要請で、ようやく米国が重い腰を上げた。あの国は来年、大統領選をひかえている。任期を終える前に現大統領は、必ず空爆を遂行する」

 感情を押し殺した声で、まるで壁に向かって話しかけるように、大尉は宙の一点を睨みながら言葉を続ける。

 彼は決して白露と顔を合わせようとはしなかった。だがそれは、間違いなく白露に向けられた言葉だった。

「これから半年以内に掃討作戦が行われる。そうすれば、

 それだけ一方的に告げると、足早に大尉は待機所を出ていった。

 だが――後に残された白露のもとには確かに、静かな鐘の音が聞こえていた。

 時を告げる鐘――変化を知らせる音――希望の音色。

 あと半年。

 それで戦争が終わる。砂漠の日々が終わる。

 そうなれば――白露がここにいる必要もなくなる。

 砂漠から――出られる!

 

 そうすれば、きっと――もう一度あの子に逢えるんだ。

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