#1「prelude -序曲-」
「あそこに立ちつくしていたまる一年、考える時間はたくさんあって、ぼくが失ったもののなかでもいちばん大きかったのは、心だ、と思うようになったんです。だって、ぼくはあのひとを愛していたとき、世界でいちばんしあわせな男だったんですから」
――ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』より
ガリガリガリ――。
金属を引っかく音と共に、壁にまた一つ×印が刻まれる。
夕映えの中、一日の終わりを壁に
そこには一面を覆い尽くす、砂の景色が広がっていた。
オレンジ色の夕日に染められて、刻一刻と陰影を濃くする砂丘が、地の果てまで続いている。ここはイラクの砂漠地帯――四方三百キロを砂に囲まれた大地に
それが彼の任務だった。
着任する前に聞いた話では、白露がここにいることで、様々な組織の言い訳が成り立っているらしい。それがどんなものなのか想像もつかないし、興味もないが――とにかく白露に与えられた任務はシンプルに〝ただこの待機所にいること〟――それだけだ。
少なくともここに配属されて以来、白露を派兵した軍人たちは何も言ってこない。外の世界との接点といえば、定期的に友軍機から投下される物資を受け取ることや、たまに機械化
決まって検査の最後に、医師たちは「何か問題は?」と
それに白露は「何も無い」と答える。それだけだ。
事実この砂漠には何も無いのだから、それ以外答えようがない。
とにかく、退屈だった。
ここではただ居る他にすることがない。変わり映えのない生活がこんなにも苦痛なのだと、初めて知った。これなら来る前にいた訓練学校での厳しい訓練の方が、まだマシだ。
軍隊というものは規律を重んじる。訓練学校でもその前にいた
それが今は、こんな故郷からも遠く離れた砂漠に
ふと、視界の端に何かが
夕焼け空に目を凝らすと、地平線の向こうを移動する黒い点が見えた。
あれは鳥だろうか?
いや、ひょっとすると、どこかの国の飛行機かもしれない。
砂漠ではスケール観が狂う。蜃気楼なんてものとは関係なしに、どこまでも続く砂の地平に距離感が惑わされてしまうのだ。
そもすると広大なはずのこの砂漠でさえも、四方を書き割りで囲われた狭苦しい空間に思えてくる。
そんな時は、決まって窒息しそうなほどの息苦しさが襲ってくる。
この無限に溢れる砂粒に、自分という存在まで飲み干されてしまうかのような錯覚に陥るのだ。
キリキリとどこからか、何かの軋む音が聞こえてくる気がした。
それはきっと、この砂漠に飲まれていったモノたちの慟哭だ。
そんなことを考えているうちに、気づけば夕日は沈み、先程の影もどこかへ消えてしまった。後には何もない闇だけが残る……。
錆びた景色/
砂漠の夜は――暗い。
砂漠の夜は――寂しい。
砂漠の夜は――孤独だ。
たまらず大声で叫びたくなる/喉が枯れるまで――前にそれをして本当に喉が枯れた/どうせ話し相手もいないから、問題はなかったけれど。だが、待て/無闇に感情を放出するのはよくない――熱を失った水滴が凍りつくように/あるいはエントロピーを失った宇宙が、やがて暗い虚無の彼方へと冷えていくように――自分までこの夜の寒さに凍えてしまう――それはダメだ。危険だ。
白露は心を落ち着かせるように深呼吸をすると、待機所に戻りあるものを探した。
バイオリン――左手にそれを、右手に弓を持って再び外に出る。
そうすれば、声が
彼女の声が――寒さに震える白露の心を、優しく温めてくれるあの歌が。
懐かしい歌声――心に宿った歌。記憶に刻まれた旋律に従って、白露はゆっくりと弓を弦に乗せ、静かにバイオリンを弾き始める。
この凍てつくような砂漠の 空の彼方に
はるか遠い遠い故郷の とある
君も同じ空を見上げていると 思うから
僕は この寂しさにも耐えられるのです
この夜の寒さにも 凍えずにすむのです
ああ、
――あなたは そこにいますか?
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