17.阿久戸志連宣戦布告⑤

 ――きらきらと夕日を弾く川の水面。堤防道路を走る、野球部の掛け声。つくしを採る親子の、楽しそうな、そして優しい笑い声。

 そこに、俺が立っていた。川辺で、ぼーっと立っていた。買ったばかりのライトダウンは泥だらけで、ジーンズにはコンクリで擦った白い線が何本も入っている。顔は、ボコボコだ。殴られてボコボコだった。生まれて初めてした殴り合いのケンカは惨敗で、口の中はずっと血の味で満たされている。これが“敗北”の味なんだ。そう、思った。

 そして。俺の横には長い黒髪を川風になびかせた一人の少女が、寄り添うように立っていた。


『いいじゃんかよ、負けたって。かっこよかったぜ、オトっちゃん』


 そんな男前なセリフを残し、少女は手をひらひらと振りながら、振り返る事もせず俺の前から立ち去って行った。初対面なはずのその少女の背中に、俺は呟くように訊いていた。


『……なんで俺の名前を知ってんだよ、お前……?』


 その少女は、見るからにヤンキーだった。ファッションセンスが崩壊しているんじゃないかとすら思わせる、アニマル柄に包まれた少女だった。化粧っ気のない顔は作りが良く、ちゃんとすればかなり可愛くなるのにな、なんて思っていた。それは、今の七谷から化粧を取り払った顔だった。

 それは、中学の卒業式の翌日だった。俺の心がひび割れて荒んでいた時だった。寂しくて悲しくて、それでも助けてくれる人は誰もいない。そんな絶望的な思いに囚われて、抜け出せないでいる時だった。

 そんな俺を、あの日のアニマル柄バージョン七谷が救ってくれた。だから、俺は今ここにいる。高校進学を諦めそうになっていた俺が、今、こうしてここにいる。わりと軽めなことも考えられるまでに元気になった俺が、七谷のおかげでここにいる――



「……ヤンキー、嫌い、なんだもんね? オトっちゃんは、さ……」

「えっ?」


 七谷の声が、俺を過去から呼び戻した。気付けば、不安げな青い瞳を揺らめかせた七谷が、座り込んだままに俺を見上げている。


「そりゃそうでしょ。ヤンキーが好きなのはヤンキーだけさ」


 阿久戸がにやにやと薄笑いを浮かべている。


「阿久戸……」


 そうだな。その意見には賛成だ。やつらときたら、人の迷惑ってもんを全然全く考えないし、わがままだから。コンビニの入り口に座り込んでだべったり、狭い電車内で足を広げて座ってみたり。見た目からして周りを威圧しまくって、怖がられて喜んでいる頭のおかしい連中だ。普通、好きにはなり得ない。でも。


「まぁ、俺もヤンキーは嫌いだな」

「……だ、だよね。たははっ……」


 目を伏せた七谷が眉をハの字にして困ったように笑った。


「でも、いいヤンキーなら話は別だ」

「え?」


 くりっと。七谷が上目使いに俺を見上げた。


「特に。『いいじゃんかよ、負けたって』なんて男前なこというヤンキーで、おまけに芸能人なみに可愛いなら、俺は嫌いってまでには思わない、よう、な、気が」

「オトっちゃーん!」

「ぶわっ! おま、だ、抱きついてくんなよ、七谷っ!」


 七谷がネコまっしぐらな勢いで突進してきたので、俺は受け止めるしかなくなった。

 うわああああ! やわらか気持ちいい特に胸が当たってるとこヤバすぎ困る! いい香りが俺の鼻腔をダイレクトに刺激してくるし、後ろにはベッドとかあったりするし! ベッドには無敵さんが寝てるけど!


「思い出したんだ。思い出してくれたんだね、オトっちゃん! どうしよう、嬉しい! 菜々美、こんなに嬉しいってびっくりしてるっ!」

「な、七谷……」


 正直、俺も嬉しかった。こいつ、つまりは俺の恩人なんだ。あの時は名前も教えてくれなかったから、もう会うことはないって思っていたのに。

 でも、思い出してみたらまた疑問が湧き出した。

 あの川べりで会った時、七谷ってすでに俺の名前を知っていたってことじゃない? じゃあ、もっと前にも会っていたってこと? それっていつ? そっちは全然思い出せない。あと、ヤンキーって馬鹿なのがデフォルトだろ? こいつ、どうやってこの高校に入ったの? もっと気になるのは、初日。こいつ、どんな感じだったんだ?

 しかし、そんな喜びに浸っている時間は、そう長くは続かなかった。

 ぱん、ぱん、ぱん。


「阿久戸」


 阿久戸の乾いた拍手が、俺たちの気持ちを一気に下げたからだった。


「いやぁ、良かったねー、二人とも。感動の再会ってことなのかな? その辺、僕には知り得ないところだけれど。でも、そんなことはどうでもいいし、関係ないんだ」

「お前っ……」


 七谷は、こいつの脅しに屈しなかった。さぞや臍(ほぞ)を噛んでいるかと思いきや、まるで効いていないらしい。


「だってさ。むしろその方が都合がいいんだ、僕にはね。これからホズミくんをとってもとぉっても苦しめる、楽しいゲームの為にもね。ふふふふふ」


 うわぁ。嫌な予感しかしない。それも特大。

 悪役が板についてきたなぁ、阿久戸。「ふふふふふ」なんて含み笑いがそんなに似合う人間も珍しいぞ。これ、マジで現実? こいつ、魔法でラノベから抜け出してきたキャラクターだったりしないかな? そしたら間違って殺しても、この世界の住人じゃないから罪に問われなかったりするかもだし。


「ゲーム、だって。菜々美、ゲームって苦手なんだけど。オトっちゃんは得意なほう?」


 七谷が俺のネクタイをきゅっと引いた。おい。苦しいんだけど、それ。


「リアル格ゲーなら、得意なんだけどなぁ……」


 そして、ぞっとしないことを呟いた。得意言うなよ、お前。思わずビビっちまったじゃねーか。お前がそれをプレイしてるとこ、ちょっと見てみたいとも思ったけど。出来れば短いスカートのままでということもお願いしたいところだけど。


「ま、ゲームなら、一応、全般的に得意な方だ。阿久戸が何を言い出すつもりか知らないが、俺に任せてくれればいいさ」


 七谷があまりにも不安そうだったので、お調子者の俺としてはやはりこう言うしかない。

 べ、別にかっこつけようとか、いいとこ見せようとか思ったわけじゃないんだぞ。なにしろ俺って常軌を逸した一途さが自慢の一つなんだから。いや、嘘も得意な方だけど、これは嘘じゃないって。マジマジ。


「ふぅん。ゲームが得意なんだ、ホズミくん。でもね、これから強制的に参加してもらうゲームって、マスターは僕なんだ。ルールは僕が決められるし変えられる。僕は、きみたちにとって神にも等しい存在になるんだよ? 勝ち目なんか、絶対に無いゲームさ」

「そうか。じゃあ、辞退させてもらおうか」

「オトっちゃん!? まだ詳しい説明すら始まってないよ!」


 すぐさま尻尾を巻こうとした俺に、七谷が激しく突っ込んだ。


「だってさ! 勝ち目がないって言ったんだぞ、あいつ! そんなんゲームって言わないだろ! 格ゲーでいうところのリンチ状態になるんじゃないの?」

「だからって逃げるの早すぎだよ、オトっちゃん! あいつ、超ムカつくじゃん! もう少し意地を見せようよ! そんなの、菜々美の知ってるオトっちゃんじゃないし、もう幻滅って感じだよ!」

「でも、負ければもっとムカつくぞ。それなら最初から参加しない方がいいだろう?」

「くす。バカだなぁ、ホズミくん。強制だって言ったでしょ? きみたちはね。もう逃げられないし、参加するしかないんだよ。僕が、復讐を果たすためにね!」


 阿久戸が、芝居がかった所作で両手を広げた。恍惚とした表情は「この時を待ち望んでいた」とでも言いたげだ。


「ゲームといっても、『ゲーム理論』をそのまま現実に当てはめたゲームさ。ボードゲームやアプリのようなものじゃない」


 そして、阿久戸はおもむろに説明を開始した。


「僕は、『ゲーム』を申し込む。きみたちにとってはとても不利で、僕にとってはこの上なく有利な『ゲーム』をね。それは『囚人のジレンマ』!」


 それは初日の帰り際、下駄箱で阿久戸から言われたことだった。今でも俺には意味不明なこの言葉。それが『ゲーム』? ますます意味が分からない!


「そんなに心配そうな顔をしなくっても大丈夫。ルールは簡単さ。ホズミくん。無敵さん。七谷さん。きみたち三人の知られたくない『過去』を、今、僕が握っている。そんなきみたちは囚人って立場にある。そして、この『過去』が、ゲームの肝であるジレンマをも構成する」

「結局は“脅し”や“ゆすり”の類じゃないか、それ? 今、七谷にしたのと同じだろ?」


 俺はあえてそういったきつい表現を用い、阿久戸の良心に訴えかけた。


「そうだよ。それがなにか?」


 が、阿久戸にそんなものはもう残っていないらしかった。通常の感覚であれば“卑劣”“卑怯”としてブレーキをかけてしまいそうな手段でも、阿久戸は平気で使えるということだ。

 こいつが何をしたいのか、俺にもおぼろげに見えてきた。同時に冷たい汗が背中を伝った。暑くもないのに出る汗は、やたらと気持ちが悪かった。


「僕はきみたちの『過去』を、みんなにバラす。するとどうなるんだろうね? 『ヤンキー』はともかくとして、『人殺し』に、『大スター』だよ! きっと、まともな学園生活なんて送れやしない! 最悪、自主退学なんて道まで考えちゃうくらいに苦しむんじゃないのかなぁ? もしかしたら、自殺だってあり得るかもよ? く、くくっ……、ゲラゲラゲラゲラ!」

「な! お前、そのことまで!」

「大スター? 誰が?」


 七谷がきょとんとして小首を傾げた。さらさらみょいんと美しい茶髪が揺れた。そして、眠っていたはずの無敵さんの目が、すぅ、と開いた。


「……ダメ。ダメです、ホズミ、くん……。そのゲームは、必ず、みんなが……、不幸に、なる……」


 絶え絶えに呟かれた無敵さんの声が、俺の胸に不吉な暗い影を長く伸ばした。



 ――こうして。


 開始三日目にして、俺の学園生活は望んでいた“普通”から大きく逸れ出したのだった。


『私は、オトを許さない。正しいオトを、許さない。真実の優しさが残酷だっていうのなら、私はそんなもの欲しくない!』



 莇飛鳥の悲痛な声が、俺の脳内で跳ね回った。

 これが俺への罰だというのなら。阿久戸が、その使者であるというのなら。


 俺は。

 負けない。

 絶対に、負けるわけにはいかない!


「苦しむといいよ、ホズミくん。恨みの業火に焼かれ、悶え苦しむといい。僕はその様を見下ろして心の底から笑うんだ。莇飛鳥と一緒にね!」



 阿久戸志連との戦いは、その言葉と共に幕開けした。


 そして、無敵さんとは。

 やはり、戦わねばならなかった。

 やりたくなくても、やらなければならなかった。


 傷つきぼろぼろになった無敵さんの心は、そうすることでしか救えなかったのだから――




            ~二丁目に続く~

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豆腐メンタル! 無敵さん(一丁目) 仁野久洋 @kunikuny9216

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