2.八月一日留守無敵①

 そして、桜の花びら舞う春の朝。

 昨日の夜、何度も姿見の前で着たり脱いだりして見栄えを確認した真新しいブレザーの制服は、そろそろ馴染んできたようで、あまり違和感を覚えなくなっていた。

 卒業で落ちていた気分も、かなり通常の状態にまで戻っている。これは春休みの間にあった、ちょっとした事件のおかげだろう。“彼女”には感謝しなければ。


 少しだけどきどきしながら初めて足を踏み入れた校舎一階の教室には、うららかな日差しが窓枠の形に薄い影を作り出している。

 今現在、この一年三組では、高校生になって初めてのホームルームが行われているのだが、俺は窓際の席という地の利を活かし、見慣れないグラウンドを見つめることに勤しんでいた。


 出席番号順の自己紹介など退屈極まる。名前を呼ばれたら立ち上がり、出身中学と名前を言って、お辞儀をしたら着席。中学くらいであれば、小学校から馴染みの面子だって結構いるから、笑いを取ろうとするお調子者もいたのだが、高校生ともなると冷静だ。

 知り合い、極端に減るし。

 ヘタを打って浮いてしまえば、この後どうなるか分からない。みんな新生活早々に失敗などしたくはないのだ。


「では、次は……、っ! え、ええっと……。ご、ごめんなさい。きみの名前、なんて読めば……? はちがつ、ついたち……?」


 ここまで順調に生徒を指名してきた新任丸出しの女教師が、出席簿で顔を半分隠し、申し訳なさそうに俺を見る。おいおい。不覚にも、ちょっとかわいいとか思っちまったじゃねーかよ。ふわふわパステルな服が似合うこの先生は、春にぴったりだ。良かった。世紀末覇者と見間違うような先生だったら、学校来たくなくなるもんな。


「はい」


 俺は普通に返事をして席を立った。予想していたことなので、特に慌てることもない。俺の名前を漢字だけ見てすぐに読めた人など滅多にいないのだ。ただ、先生の異常にかわいらしいアニメ声で話しかけられた嬉しさを隠す方が大変だった。

 楽しい学園生活を満喫したいと思えば、担任の先生だって重要だ。この先生は当たりだろ。俺ってとってもラッキーマン。頭に茶柱とかはないけどな。て、これ通じる高校生って俺だけか?


「中部中学校から来ました、八月一日(ほずみ)於菟(おと)です。よろしくお願いします」


 さくっとそれだけ言い終えぺこりと頭を下げた後、俺はすぐに着席しようと膝を曲げた。が。


「ええー! ホズミくんって言うのね、これ! 八月一日でホズミ? 名前もオト、なんて変わってるわねー。あは。ご両親は音楽家?」


 ころころと笑う先生のせいで、座りそびれた。

 て、なんで音楽家なんだよ。オトって音感でそう思ったのかも知れないけど、漢字が全く関係ないだろーが。


「いえ。於菟っていう名前は、森鴎外の息子さんからもらっています。親父が森鴎外のファンなんですけど、本人の名前は畏れ多いし現代の子に付けるには堅苦しいからって、子どもの名前をもらったとか言ってました。俺は良く知らないんですけど、於菟さんはお父さんと同じで、お医者様だったらしいですよ」


 なにしろ俺は森鴎外作品なんて読んだことがない。超能力とか異世界とか美少女とか、絶対登場しそうにないからだ。小説はライトノベルに限る。だって、夢があるじゃなーい。


「そーなんだー! へぇー! 先生、国語が担当なのに知らなかったぁー」


 目をきらきらさせて大仰に驚く先生につられ、他のやつらにも「へぇー」とか「すげー」とか感心されちゃってるけれども。……あのー。もう座っていいですか? つか、国語担当なのかよ。中学の国語教師は知ってたぞ、これ。この高校、大丈夫なのか?


「じゃあじゃあ、八月一日は? この名字には、どんな由来があるの?」


 俺の不安に一切気付く様子もない先生は、わくわくが抑えきれないらしく、教壇で前のめりになっている。自然、教室に大人しく座っている、まだ様子見しているのであろう三十四人の生徒たちも、俺に好奇の視線を向けてきた。うああ。勘弁してくれよ。俺、目立つの好きじゃないんだよ。

 が、無視するわけにもいかない。相手は先生。俺生徒。教師をシカトするなんて、不良みたいなことは出来ない。俺は真面目なんだから。

 あれ? でも、一人だけ俯いているやつがいるな。俺に興味無いようだ。それはそれでちょっと寂しかったりする俺って我儘自儘? にしても、なんだか暗そうな女子だなぁ……。ま、どうでもいいか。とりあえずは答えておこう。


「えっとですね。なんか旧暦の八月一日に稲穂を摘み取っていたから、とか聞きましたけど。四月一日でワタヌキって読むのと同じみたいです」


 早口でそう答え、俺はささっと着席した。


「ほんとぉー! ワタヌキさんは四月なんだー。おもしろーい」


 これも知らねーのかよ。もっと勉強してくれよ、先生。

 両方の手をぱちんと合わせ、にぱぁ、と無邪気に笑う先生。みんなもつられてほのぼのとした笑顔になった。油断すると、俺も頬が緩んでしまいそうだった。なんか怖いな、この先生。気付かないうちに骨抜きにされそうだ。

 にしても、なんだこの教室の空気感。こんなの小学生以来なんだが。ここ、本当に高校なの? 地元で弁護士だの医師だのしている人の出身校は大概ここっていうくらいの進学校のはずなんだが、意外と殺伐さがなさそうだ。ああ、良かった。


「ちなみにー、先生はー、」


 先生はおもむろに背中を向けると、黒板に白いチョークで何事か書き殴り始めた。黒板に向かった先生は、教卓に隠れて三分の一くらいしか見えない。ちっちぇな、おい。後ろから抱っこしたくなっちゃうぞっ☆


「こういう名前でーす。読める人ー?」


 黒板には、毛書体で力強く《留守留美子》と書かれている。……なんで毛書体になってんの? チョークなのに、どうやったらそうなんの?


「あれれぇー? だーれも読めないのぉー?」


 先生は勝ち誇ったように教室を睥睨した。不敵な笑みがなんかむかつく。いや、読めないんじゃなくて、手を挙げたくないだけだと思うがな。分かってくれてるよね、先生?

 そんな俺の願いも虚しく、ほどなくして先生は腰に手を当てると、「仕方がないなぁ」と息を吐いた。これ絶対分かってないよね。ちょっとイラっときちゃったぞっ☆


「これはねー、『とめもりるみこ』って読みますー。なんかねー、源頼朝って偉い人のー、留守番をしていたのがルーツだっていう、由緒正しい姓なんですよー」


 留守先生はそう言うと、自慢げにえっへん、と胸を反らした。あ。意外と大きい。

 それにしても、なんてふわふわとした説明なんだ。ホントだとしても嘘っぽい。それ、留守番ってゆーか、あれだろ? お城とかの、留守居役のことなんじゃねーの? 留守番と留守居役じゃあ、重みが全然違うだろ。雰囲気的に。

 そう思ったのは俺だけではなかったらしく、教室中には苦笑いが満ちていた。留守先生は、早速俺たち生徒に舐められることになりそうだな。ご愁傷様。俺はそういうの嫌いだけど、物理的になら是非舐めたい。


 気付けば先生の自己紹介がまだだったというグダグダなイベントも、ここで少しだけ盛り上がりを見せたが、その後は特に何もなく淡々と進んでいった。


 まぁ、留守先生も名前だけしか教えてくれていないし、これはこれでいいんだけれども。年齢がちょっとだけ知りたい気もするんだけどなぁ、俺的には。でも、言わないってことは結構気にしているのかも知れないし、へたなことを聞くのはよそう。もし万が一、思っていたよりも年だったりしたら、なんか微妙な空気になりそうだもんな。泣かれても困るし。メンタル弱そうだし、留守先生。


 とか考えているうちに、順番は一人の女生徒に回っていた。

 俺はまだ知らない。この少女が直後に言い放つ、とんでもないことを。

 それは「宇宙人とか超能力者とか未来人とかいたら、すぐに名乗り出なさい。わたしは、普通の人間になど興味はないの」という、衝撃的な自己紹介シーンが出てくる物語を想起させるようなことだった。ちなみに俺はこの作品でライトノベルにはまっている。


「じゃあ、次ね。無敵睦美(むてきむつみ)さん。お願いします」

「無敵?」


 あちこちから、「ブーッ」と噴き出す声がした。そりゃそうだろう。この名前、インパクトありすぎだ。マジで本名? 一体、どんなやつなんだ? 《睦美》ってからには女子なんだろうけど、こんな名字を背負って今まで生きてきた人間には興味がある。


 俺は「はい」と弱々しい声を出し、がたっと椅子を鳴らした女子へと目を向けた。窓際やや後ろ寄りの席から見ると、廊下側から二列目、前から二番目の彼女の席へは、全員の視線が集中していた。みな目をきらきらとさせている辺り、やはり興味があるんだろう。


 これが俺の大好きな学園異能バトル系ライトノベルだったら、彼女は確実に最強的な能力を持っていることだろう。が、生憎これは現実だ。右腕が勝手に燃えだしたりもしないし、いつも眼帯で隠されている左目が、なんかおかしなモノを見たりすることもない。そんなヤツは存在しないし、だからこそ平和にのほほんと生きていける。


 不可思議な物語に憧れはあるが、現実にそんな世界に入り込むのは遠慮したい。ああいうのは、安全な観客席からポップコーンを片手に見るから楽しいのだ。だって、俺なんかは登場してすぐリタイアするモブキャラ確定なんだもん。主人公の強さを引き立てる為だけに生み出されて使い捨てされるなんて絶対イヤだ。


 などと考えているほどの時間があったにも関わらず、起立した無敵さんはまだもじもじとスカートを握り締めて俯いている。顔は真っ赤だし、なんだか気の毒になるほどだ。

 それにしても、見れば見るほどに地味な子だ。完全に名前負けしている。いや、誰だって無敵なんて名前には負けるだろうけど。

 高一にしては小柄な体に、まったくフツーな肩辺りで切り揃えられた黒髪。小さな丸い頭は、頼りなくふらふらと揺れている。かわいいといえばかわいいが、まぁ、どこにでもいそうな普通の顔。成長を見越して用意されたのであろう少し大きめのブレザーには“着られている”という表現が妥当だろう。


「あ、あの、あの。あ、あたし。あたし……は、」


 しどろもどろ、つっかえつっかえに無敵さんは喋り出す。ちらちらと時折上げられる目線は、その都度何かに弾かれたようにまた伏せられた。


「がんばれー、無敵さーん」

「そうそう。なにしろきみは無敵でしょー」

「自己紹介なんて、秒殺しちゃえー」


 なかなか話し出せないながらも頑張っているのが伝わったのか、みんなが無敵さんを応援し始めた。「なんだ。何も特別なこともないな、この様子なら」と、みんなが見限るのには十分な時間をもじもじしている。この応援は、無敵さんにプレッシャーを与え過ぎたことへの裏返しなんだろう。みんな反省しているのだ。「期待しすぎちゃってごめんね」と。


「あ、あのっ!」

 

 応援に力を得たのか、無敵さんがキッと正面を見据えた。そして。


「た、高倉中学校の、無敵睦美(むてきむつみ)ですっ。あ、あたしなんかが自己紹介しちゃってごめんなさいっ。あたしの名前なんかを知らせちゃってごめんなさいっ。この高校に来ちゃってごめんなさいっ。このクラスに入っちゃってごめんなさいっ。ここにいて、場所をとって、空気を吸っててごめんなさいっ。あ、あたしなんかが、生まれてきて、ご、ごめんなさいーっ!」


 もの凄い勢いで謝り出した。目からは大粒の涙がぼろんぼろんと転げ落ち続けている。

 自己紹介で、まさかの完全自己否定である。自分が生まれてきたことさえ否定しているのに、自己紹介など矛盾の極みだ。俺の脳内には、とりあえずそんな論理が生まれていた。

 みんな、口をぽかんと開けて無敵さんを見つめていた。冗談? 本気? ウケ狙い? その判断もつかないらしく、思考が停止してしまっている。

 だって、俺もそうだから。

 しーん、と驚くくらいな静寂に包まれた教室で、無敵さんは言い切ったままに立ち尽くしている。みんなが、留守先生でさえもどう対応していいのか分からず、かっちーん、と固まってしまっていた。


「はっ。び、びっくりさせちゃってごめんなさいっ。ふああ、もう、誰かあたしを殺してくださいーっ! あ、でも、あたしの為に殺人の罪に問われたらっ……。も、もう、自分で自分を殺すしか。でも、飛び降りたら汚れるし、掃除する人に迷惑がっ。手首を切っても睡眠薬を大量に飲み込んでも、死んだら死体の処理があるしっ……。お葬式とかの費用もかかれば、火葬場だって使っちゃう。CO2が、あたしのせいで増えちゃうのっ。あうう、ど、どうしたらっ……? どうしたらっ!?」


 みんなの硬直はまだ解けない。これがRPGで戦闘中なら、確実にパーティーが全滅していることだろう。無敵さんの自己紹介は、魔王を倒すという使命を持ち、世界の運命を左右する勇者様御一行をも全滅させる危険さだった。

 ひとしきり頭を抱えて悶えていた無敵さんは、何事かを思いついたらしく、はた、とその動きを止めた。そして、またとんでもないことを言い出した。しかも、今度は行動を伴った。


「そ、そうだっ。アフリカへ! サバンナ広がる大自然の中なら、きっとライオンさんとかがあたしをきれいに片づけてくれるはずっ。エコでクリーンで動物愛護の精神にも溢れたこの方法なら、自殺だって賞賛されるに違いないっ!」


 素晴らしい自殺の手段を編み出した無敵さんは、満面の笑みを浮かべて椅子を蹴り、駆け出した。目指すは教室の出口である。プリーツスカートをひるがえし、たったかたー、と駆けてゆく無敵さん。先生の硬直も解けていない以上、あの子はこのまま行かせることになりそうだ。


 サバンナへ。


 これが、ある意味無敵な無敵さんとの、ファーストコンタクトだった。一方通行ではあったけど、俺は今でもそう思っている。

 ここから、俺と彼女との、普通だけど普通じゃない、ちょっとおかしくて大変な高校生活が始まるのだった――





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