3.八月一日留守無敵②

 ――などと、きれいに締めている場合ではなかった。

 無敵さんの言っていることは荒唐無稽支離滅裂なように思えて、その実しっかりと筋が通っている。無敵さんの自殺法は、結論こそ常軌を逸しているものの、理路整然とした思考によって導き出されているのだ。

 無敵さんは、バカではない。それだけは分かった。多分、いや、きっとそうに違いない。なにしろ、俺は人を見る目には自信があるから。「こいつは自分のことしか考えていないヤツだ」と思っておけば大体合ってる。ソースはリチャード・ドーキンス。遺伝子が利己的なんだからみんなそうなって当然だし。

 まぁ、俺がこんな風に思っていることなんて言わないけど。一度クラスの女子に話したら、「ホズミって悲しい人だね」って憐れむように言われたからな。


 そんな俺の悲しい過去は置いといて、無敵さんが本当にバカではなかった場合、結構最悪かもしんない。なぜなら、ただのバカなら放っておいても問題ないし。「良く考えたら、あたし、サバンナなんて行けないよぅ。てへぺろ☆」なんて照れながら、帰って来る可能性が高いからだ。


 しかし、無敵さんはバカではない。多分。


 彼女は、きっと今の一瞬で、サバンナへ渡る方法をもきちんと考えている。多分、パスポートもあればお金もある。アフリカ行きの飛行機に乗るのなんて、東京駅で乗り換えするよりも簡単だ。この高校にいる時点で、英語だってそこそこ出来るんじゃないだろうか。英語はどこでも通用する。英語が分かれば、世界中、ほぼどこの国にだって行けるのだ。と、ここまで考えるのに五秒ほど経っていた。無敵さんはすでに留守先生の眼前、教卓前を風のように横切ったところだ。


「意外とヤバくないか、これ?」


 と、無意識に。俺は誰にともなく呟いていた。

 カチッ。

 その時、頭の中で、音がした。


「来た。まただっ……」


 瞬間、教室の前側出口へと疾走する無敵さんの動きがスローになる。ゆっくり、ゆっくりと無敵さんの髪がたなびく。


 人は良く「周りの景色がスローモーションになった」と事故に遭った瞬間を証言する。危機に際して人の生存本能が研ぎ澄まされ、脳に多量の血液が巡り、処理能力が飛躍的に向上するからだ、などと言われてきたが、本当のところは全くの逆。

 出血を最小限に抑えることを最優先と判断した脳は、その他の機能を遮断する。結果、脳への血流が減少し、映像処理がコマ送りのようになる。

 これは《タキサイキア現象》と呼ばれる、脳の誤作動なのだ。

 しかし、俺の“これ”は、それとは違う。「じゃあなんなんだ?」と聞かれても、それは俺にも分からない。そもそも、今も別に生命の危機になどさらされていない。

 ただ、“ヤバい”と思った時。

 頭の中で音がして、俺の周りがスローになるだけなのだ。


 スローモーションの中、反応が見られるヤツはいなかった。ここで無敵さんを止めに走れるのは、俺しかいない。そういうことになるだろう。

 いやだなぁ。そんなことをしたら目立つじゃないか。

 俺はゆっくりと考える。他の人間には一瞬の時間でも、俺にとっては五分くらいはある感覚だ。ここで動くべきか動かざるべきか? 今後の学園生活で失敗しない為にも、熟考する必要がある。

 クラスメイトが自殺する為に教室を飛び出そうとしている。普通の人間であれば、考えるまでもなく止めに行くことだろう。


 だがしかし。俺は生憎と普通じゃあない。いや、”普通じゃあなくなった”。


 俺はそれを自覚している。だからこそ普通になりたいと願うのだし、目立ちたくないとも考える。多くの人間が《平均》と考える枠に収まり、その真ん中で安心したい。誰にも凄く好かれたりせず、誰にも強烈に恨まれたりもしない。緩くて温くてありきたりな、誰もが当たり前に享受出来得る平穏無事な学園生活を送りたい。俺の願いはそれだけだ。


 普通じゃなかった中学校生活を、俺は二度と繰り返したくはないのだ――


 ――だから、放っておけばいい。誰も動けないような状況なんだ。俺が動かなくても、誰も責めたりはしない。無敵さんも、他のやつらも、今日初めて会ったクラスメートの一人にすぎないんだ。

 瞬間、脳裏に中学時代の同級生の顔が浮かび上がった。


『ホズミくんて凄いね。どうしてそんなことまで分かっちゃうの?』


 やめろ。


『ありがとう、ホズミ。お前がいなかったら。お前があの時、ああ言ってくれなかったら』


 やめてくれ。


『調子に乗るなよ、オト。そっとしといた方がいいことだってあるんだぜ』


 分かっている。


『オト。お前は正しい。いつもいつでも正しいさ。でもな。正しいことをしたからって、みんなが幸せになれるとは限らないんだぜ』


 もう、分かっているんだ。俺は、それを知っている。


『正論のナイフで、滅多刺し、ってやつだな。はは。お前は僕をどうしたいんだい、ホズミ』


 分からない。どうしたいなんて思ってなかった。俺は。俺は、ただっ……。


『うん。私もそう思う。でも、無理だよ。だって、みんなまだ子どもだもん。嘘が甘やかで、真実が厳しいだなんてこと、まだ理解出来るはずないよ』


 莇(あざみ)。久しぶりだな、莇。お前の顔が浮かぶなんて。


『でも、私には分かるよ。ホズミくんが、誰よりも優しいんだってこと。真実は厳しいけれど、だからこそ、それを知らせる人は本当に優しいんだってことも』


 莇飛鳥(あざみあすか)。まだ、最後に会ってから、一カ月も経っていないはずなのに。


『だからね』


 ああ、莇。その先を言うのは、やめてくれ。


『間違っているのは、みんなだよ。私を含めた、みんななの。でも、そんなの当たり前だし、悪いことじゃないんだよ。だってそうでしょう? 自分を守って、何が悪いの? 居心地のいい場所にいて、誰が困るっていうの? 私は、オトを許さない。正しいオトを、許さない。真実の優しさが残酷だっていうのなら、私はそんなもの欲しくない!』


 悪かった。そうだ。悪いのは俺だ。お前を泣かせるようなことが、正しいわけがないじゃないか。

 やはりそうだ。正しいこと。それは人の心を掘り起こす。心の深く深くに沈めていた、醜いところも汚いところも無理やりに掘り起こして引きずり出し、白日の下に晒して見せつける。


『だから』


 と、記憶の中で莇が微笑む。


『負けないで。私みたいな間違った人たちに負けないで。間違いを寛容するこの世界に。正しい人が糾弾されるこの世界に。せめて。せめて、オトだけは……、私にとっての、白馬の王子さまでいて欲しい。私の、大好き、な、オト、だけは……、』


 莇飛鳥の潤んだ瞳が煌めいた。


「――、くそっ!」


 直後、俺は席を立って駆け出していた。《タキサイキア現象モドキ》は、もう解除されている。ちなみにこの現象、俺の中では《ブレイン・バースト》と呼んでいる。大好きなラノベからのモロパクリなんだけど。いいじゃん。ほぼそのまんまの現象なんだから。

 本当は俺も「バースト・リンク!」とか叫んでから使いたい。その方がかっこいいし、この厨二感はたまらない。でも「ヤバい」と思ったら勝手になるから、叫ぶ暇もないのが残念だ。


 無敵さんは、まだ教室出口のスライドドアに手を伸ばしているところだ。ドアを開け、廊下に出るには速度が落ちる。廊下に出てしまわれては、スピードに乗せてしまい、捕まえるのが面倒になる。


「決断のタイミングとしては最高だ。が……」


 無敵さんは地味な容姿を裏切る素早さでドアを開くと、ほぼ完璧と思える身のこなしで廊下に躍り出た。

 はええ! なんだあの動きは! なんか特殊な訓練とか受けてんじゃねぇのか、あいつ!?

 しかし、俺ももう追い出している以上、これで諦めるわけにはいかない。

 クラスのみんなもようやくまともに動き出した。「お願い、ホズミくん!」なんて、留守先生からのアニメ声も背に受けた。うおお、めっちゃ燃える。てか萌える。

 廊下に出ると、無敵さんの小さな背中はさらに小さくなっていた。もう結構引き離されている。新品うわばきのゴムが廊下に食いつき、キュキュキュキュキュと鳴っている。


「待っててね、ライオンさんっ。今、おいしいお肉がいくからねっ」


 猛ダッシュをしかけると、無敵さんの大きなひとり言が廊下に響いた。それを聞いて俺の足が滑る。

 あぶねぇ! ずっこけるとこだった! あの子、いろんな意味でアブねぇ!

 今日の為に春休みの間、磨きあげられていたのであろう廊下を、気を取り直して走り出す。その間にも、無敵さんとの距離は広がっていた。

 ちょっと待て。俺、100mの自己ベスト、11秒フラットなんだが。なんで引き離されてんの? あいつ、もしかして女子の日本記録が出せるんじゃねぇか? うわばきで走ってんのはあっちも同じはずなんだし。何者なんだ、あいつ!? とか思って一瞬あせったが、少ししたら差は縮まりだしていた。

 ほ。そういえば俺、後半にスピードが乗るタイプなんだよな。このままなら追いつけそうだ。しかし、追いついてどうする? 肩を掴む? それで止まるか? じゃあ、後ろから抱きつくか? 一応俺も男だし、それはちょっとまずいだろ。

 第一。

 力ずくで引き止めるなんて、俺の趣味じゃないぜ!

 後ろから、クラスのみんなの声援が追いかけてきた。今日初めて会ったヤツばかりだってのに、もう団結してやがる。

 窓から差し込む光と窓枠の影が交互になった廊下を走る。駆ける。駆け抜ける。廊下には、俺と無敵さんのリズミカルな足音だけが木霊している。


「ふ。任せろ」


 呟くように、俺はみんなの声援へと返事をした。知らず口角が吊り上がる。

 一言だ。一言で、俺は無敵さんの足を止める。


「無敵さん。俺は、すでにお前を見切っている!」


 俺は前を行く無敵さんの背を睨んだ。

 ターゲットはロックオンした。あとは発射するだけだ。破壊力抜群の、言弾(ことだま)ってやつをな! うわ。我ながら厨二っぽい。

 

 俺は大きく息を吸い込み、


「ライオンは、お前なんか食わねぇぞーっ!」


 廊下の窓ガラスがビリビリと震えるほどの声量で、そう怒鳴った。


 キュキュキュ――――ッ!!


 足の回転を急停止させた無敵さんの上履きが悲鳴を上げた。リノリウムの廊下には長い緑色のスリップマークが引かれた。一年生の上履きのゴムは、緑色だ。ちなみにジャージもこの色だ。三学年三色中、一番かっこ悪い色だった。

 良し。思った通りだ。とりあえず止めることには成功したが、むわ、とゴムの焦げた臭いが鼻を突いた。バイクかこいつは。止まり方も人間業じゃないな、無敵さんは。


「なぜ?」


 急ブレーキで乱れた無敵さんの髪が、ふわりと元通りに落ち着いたところで訊ねられた。無敵さんは振り向かない。そこはもう下駄箱が並ぶ校舎玄関の手前だった。

 危なかった。外にまで行かれていたら、間違いなく余計な目撃者が増えていたことだろう。さっきまでの俺同様、窓の外を眺めているやつって多いからな。これ以上目立つのはごめんだぜ。

 さて、ここからが本番だ。とにかくこの頭オカシイ子をなんとか宥めすかして説得し、穏便に教室へと連行するとしようか。


「野生の動物は人間なんか食べないからさ。お前だって、毎日シャンプーだのボディソープだの使っているだろ? ライオンやらは、そういうのを嫌うのさ。嘘だと思ったら調べてみればいい。ライオンに食べられた人間なんていないから」


 俺はゆっくりとした足取りにペースチェンジし、無敵さんへと近づいた。コツ、コツ、と、なんだかかっこいい足音を立てる俺。

 決まったな。あとはにっこりと微笑みかければ落ち着くだろ。これでミッション・コンプリートだ。

 が、そんな俺の目論見は甘かった。


「そんなの嘘です」


 無敵さんが断言した。


「へ?」


 まさか、見破られたのか? 俺の特殊スキルの一つ、《嘘八百》が! まぁ、ただの嘘つきなんだけど。もしそうなら、俺、全然無敵さんを見切れてないじゃん(笑)。

 確かに、人間がライオンに食べられるという事故は起こっている。それも、結構頻繁に。ありていに言えばしょっちゅうだ。サーカス、動物園、そしてもちろん大自然。ライオンと人との生活圏が重なるところ、事故は必ずついてくる。


 いや、まだだ。まだ見破られたとは言い切れない。なにがなんでも説得しなければならないのだ。嘘も《リアリティ》をまぶすことで真実っぽく見えてくる。無敵さんを騙すには、もっとリアリティが必要なのかも知れない。

 俺は嘘を吐くことに抵抗がない。本当のことばかり言っていても、事態が好転した試しなどないからだ。正しい結果を導く為の“いい嘘”ならば、それは間違いなく“正義”なのだ。

 無論、それはどこまで行っても“自分にとって”ではあるが。


『ねぇ、ホズミくん。“正しい”って、なんなのかな?』

「莇、飛鳥っ……」


 無敵さんの背中に、莇飛鳥の悲しい笑顔が見えた気がした。途端に気合いが入って来る。

 もう、お前の泣き顔は見たくない。

 俺は動揺を悟られないよう、殊更に冷静さを取り繕って立ち止まった。無敵さんとの距離、およそ三メートル。一足飛びに捕まえられる距離だ。


「嘘じゃない。保存料やら着色料やらどぼどぼ使われた食品を口にしている人間は、野生動物からすれば有害食、いや、毒だと言っても過言じゃない。生存本能の研ぎ澄まされた動物たちが、そんなことにも気付けないと思うのか? ライオンは、人を食べない」


 静かに、噛んで含めるように。俺は無敵さんへと言い切った。


「嘘です。例えば熊は、一度人を襲うと、次からは好んで人を食べるようになるんです。動物に比べて貧弱な筋力しかない人の肉は、きっと柔らかくっておいしくて、比較的安全に口に出来る食料なんでしょう。それはライオンだって同じはず。きっと、あたしのお肉にも満足してくれるのぉ」


 くるり、と無敵さんが振り返った。


「う、お」


 頬を上気させ、手を組んでうっとりとしている姿は、わりと、いや、結構、てゆーか、かなり? うん。なんか、可愛らしかった。俺の中で、無敵さんの“地味”という第一印象が少しだけ崩れている。

 でもこれ、ライオンに食べられているところを想像しているんだよな? がぶりと頭を齧られたり、がふがふとはらわたを引きずり出されたり。それってそんなに嬉しいの? 俺なら絶対嫌だけど。普通、みんなそうだよね?

 そう考えると、一気に無敵さんがそこらの変態なんかじゃ足元にも及ばないほどの変態にも見えてくる。

 やっぱ怖いわ、この子。あと、なんで熊のこととか知ってんの? そう考えるともっと怖い。あと、怖い。

 俺の中での無敵さん評価は、「地味→ちょっと可愛い→怖い→あと、怖い」と、目まぐるしく変化していた。


 そんなことより、俺の嘘は思いっきりばれている。俺は無敵さんを舐めていた。そう認めるしかないだろう。

 しかし、まだだ。まだまだだ。まずは初撃をかわされたに過ぎない。俺にはまだ武器がある。次で仕留める! 今度こそ見切ったぜ、無敵さん!

 俺は無敵さんのなんでか潤んでいる瞳を見つめた。


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