人生の卒業式
閉館した海辺の観光ホテルが改装され、ホスピスとして生まれ変わりました。
すぐに入院希望者があり、あっという間に満室となりました。
ホテルのフロントで働いていた女性は医療事務の資格を取り、病院のスタッフになりました。以前とは打って変わって毎日目の回るような忙しさに追われています。
「観光ホテルだった時は誰も来なかったのに、ホスピスに変わった途端、こんなに人が集まるなんて」
女性は日に1回はつぶやいていました。
ホテルが全盛期だった頃は、この女性はまだ中学生くらいでしたので、写真などでしか知りませんでしたが、町を代表する観光ホテルとして有名でした。しかし景気の衰退によって徐々に客足は減り、閉館を余儀なくされました。
閉館前にこのホテルへ宿泊したある実業家が、ここの環境をとても気に入り、ホスピスとして運営するのにぴったりだと思い買収を決めました。そして開発を進め、ホテルはその後こうしてホスピスとへと生まれ変わったのでした。
ホテルのスタッフはほとんどの人が資格をとったり、研修を受けたりしてそのままここで働いています。以前と同じ顔ぶれなので、仕事もわりとスムーズに運んでいるようです。
「同じ場所で仕事を続けられるから、まあ良かったよね」
職を失って路頭に迷う事が無かったので、スタッフの人たちは戸惑いながらも一生懸命新しい仕事と向き合っていました。
ロビーや受付は清楚な内装に変わり、客室は大きなドアがついた病室になりました。
宴会場はテーブルを入れて食堂になり、患者さんができるだけここへ来て食事がとれるよう、配慮がなされました。スタッフが一緒に食事をすることもあります。
ステージがあるので、クリスマス会などではスタッフによるパフォーマンスが披露され、とても好評でした。
ラウンジもほとんどそのまま残され、素晴らしい景色を見ながらお茶を飲んだり談笑したりできました。グランドピアノがあったので毎日交代で音楽事務所からピアニストが派遣され、優しいタッチでBGMを奏でていました。
かつてホテルでは結婚式を挙げるカップルもいましたので、チャペルの設備も整っていました。内装の絢爛さが少し取り払われ、患者さんが旅立った折には、こちらでセレモニーができるようになりました。
病院の裏手には納骨堂も建設されましたので、お墓が無い方や遠くて移動が困難な方などはこちらに埋葬されていました。
そしてチャプレンとして女性牧師の洋子さんが常勤していました。毎週水曜日の午後には礼拝が行われ、病院のスタッフとともに患者さん達が参列しました。
以前ホテルの結婚式で演奏していたオルガニストや聖歌隊のメンバーは、非常勤の音楽スタッフとして働いています。その中にはアメリカへ留学し、音楽療法士の資格を得た人もいました。
音楽スタッフは礼拝での奏楽、讃美歌の先導、歌詞カードの作成など、毎日大忙しでした。しかし結婚式で決まった曲だけを演奏するのと違い、毎回テーマに添った選曲で演奏できることに喜びを感じていました。
チャペルでは礼拝の他に、音楽集会の時間もありました。患者さんが童謡や唱歌を歌ったり、楽器でアンサンブルが楽しめるようにプログラムが組まれ、セッションが行われていました。患者さんは笑顔になったり、懐かしい歌に涙を流したりと、集まった人が皆幸福になれる大切な時間でした。
建物の中を占める人々の様子は大きく変化しましたが、海や山、周りの森の風景は、昔と変わらず、美しく穏やかでした。
ある日、余命1ヶ月の宣告を受けた女性が入院しました。
独身で身寄りもなく、53歳でした。
名は佳織さんといいました。
入院後最初の水曜日、佳織さんは車椅子で礼拝に出席し、洋子先生のお説教を熱心に聞き入っていました。知らない讃美歌も聖歌隊の歌声を頼りに、できるだけ声を出そうと一生懸命でした。
佳織さんはすぐに洋子先生と仲良しになりました。
次の水曜日、佳織さんは体を起こすのも困難だったので、礼拝には出席できませんでした。夕方、洋子先生が病室まで来て、聖書のお話をしてくれました。佳織さんはこの時もじっと先生のお話を聞いていました。
「洋子先生、私ね、ずっと思っていたことがあるんです」
佳織さんが話し始めました。
「病気になったから、私はこうしてここに来ることができた。ここなら、自分の命が終わった後は、チャペルで見送ってもらえますよね。
もし病気になっていなければ、私はどんなふうに死んでいたのでしょう。
事故で死んだ後どこかにそのまま放置されたり、見知らぬ場所へ迷い込んでそのまま帰れなくなったり、あるいは自宅でひとりで死んでいたり。
死んだのになかなか誰かに見つけてもらえなかったらどうしよう、そんなことばかり考えて恐怖におびえていました。
この病気でもうすぐ死んでしまうことよりも、そっちの方が怖かったんですよ」
洋子先生はびっくりしました。
「そんなことを考えてらしたんですか」
「一人で生きてきましたからね。死んだ後の自分の体の末路、それが一番心配でしたよ。だから今はほっとしています。ここでこのまま人生が終わるのなら、もう何も気に病まなくていいですからね」
佳織さんはさらに続けました。
「楽しい事も少なかったけれど、悲しい事もあまり無い人生でした。ただ、自分の後始末だけは、自分できちんとやれるようにしておこうと考えていました。何て言うんですかね、しっかり死ぬために生きてきたっていうか…」
そこまで話すと佳織さんは少し苦しそうに咳込み始めました。
洋子先生は毛布を直して言いました。
「たくさんお話してお疲れになったんですね。少し休みましょうか」
次の水曜日、佳織さんは看護師さんに介助してもらい、礼拝に出席することができました。讃美歌は声が出なくて歌えませんでしたが、彼女の口元は歌詞を追ってよく動いていました。
佳織さんはクリスチャンではありませんでしたが、洋子先生のお祈りの途中、何度も「アーメン、アーメン…」と小さな声で唱えていました。
礼拝の後も、洋子先生が佳織さんの病室を訪れました。
「お気持ちは健やかでいらっしゃいますか」
洋子先生はやさしく語りかけました。佳織さんは窓の外を見ながら答えました。
「そうですね、この海のように今はとても静かです。ほんとに、きれいな景色ですよね…」
佳織さんは洋子先生の目を見て言いました。
「ひとつだけ、わがままを言ってもいいでしょうか。自分の告別式のことなんですけど」
「何でしょう?」
「私、実は自分の人生の卒業証書を作ってあるんです。セレモニーの中でそれの授与のシーンがあればいいなって思ってるんです」
「卒業証書ですか…」
洋子先生は少し興味深そうに身を乗り出しました。
「もうあとは私が死んだら日付を入れていただくだけなんです」
佳織さんは筒に入った証書を取り出しました。何とも達筆な文字が並んでいました。
卒業証書には佳織さんの氏名、誕生日、そして
「右の者このホスピスにおいて人生を終了した事を証明する」
という文章が書かれていました。
そのあとの日付がたしかにまだ空欄になっています。そしてこのホスピスの医療法人名、理事長さんのお名前がしっかりと書かれてありました。
「これはすごいですね。もしかしてご自分でお書きになったんですか?」
佳織さんはにっこりと笑いました。
「はい、私ずっと書道をやってまして、賞状書士のお仕事もしていたんです。自分らしい人生の終わり方にふさわしいのかなって思いまして、ここへ来ることが決まった時に書き上げたんです」
洋子先生は賞状と佳織さんの顔を交互に見ながら聞いていました。
「自分の命が終わった場所がここだったんだ、ということをこの世に残しておきたいというか…終着点を記録したい、うまく言えませんけどそういう気持ちがずっと心にあって。理由のわからない執着ですね。何だか子どもみたいですよね」
佳織さんはクスッと笑いました。
「分かりました、理事長に伝えておきましょう。きっと大丈夫ですよ」
洋子先生は賞状を佳織さんに返しながらやさしく言いました。
「ありがとうございます」
佳織さんは少し間をおいて言いました。
「私がここへ入ることができたのも、入院していたどなたかが亡くなったからなんですよね。今度は私のあとに、入所を待っている誰かがやっと入れるんですよね」
そして佳織さんは窓の外を見て続けました。
「私が死んでも、誰も弔いには来ないでしょう。それでいいんです。一人で前へ進むだけですから。ここでの毎日は本当に幸せでした。ありがとうございました」
洋子先生は、どうやってこの人はここまで孤独と向き合ってこれたのだろう、とても淋しそうだけれど、でも強い心を持った人だ、そう思いました。
佳織さんが水曜日の礼拝に参加できたのはこの日が最後になりました。
翌週の礼拝は、そのまま佳織さんの告別式になりました。
洋子先生や病院のスタッフは皆大変驚きました。
彼女の訃報を聞いたお友達や生前の仕事仲間、そしてお弟子さん達が大勢参列したのです。
洋子先生はお説教のあと、必死で涙をこらえていました。
「佳織さん、誰も来ないだなんてとんでもない、こんなにたくさんの人が見送ってくれますよ」
セレモニーのクライマックスで、佳織さんの書いた卒業証書は額に入れられた状態で理事長さんに読みあげられました。そして祭壇の佳織さんの写真の隣に立て掛けられましたので、参列した人がみんな佳織さんの書いた文字を見ることができました。
亡くなった日付は、佳織さんのかわいがっていたお弟子さんが書き込んでくれていました。
佳織さんの遺骨は、卒業証書と一緒に納骨堂へと納められました。
ホスピスは毎日たくさんの笑顔と、たくさんの涙にあふれていました。
そして海は相変らず、静かで穏やかでした。
魂を慰めるために 〔完〕
魂を慰めるために 清水川涼華 @fairy-tale
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