神殿ショコラ その参
2月15日、早朝のことでした。
公務員の男性が一人、駅へと向かって歩いていました。
毎年この日の朝は憂鬱でした。男性は今年も、前日のバレンタインデーで誰からも、義理チョコすらひとつも貰えませんでした。
ただ男性は、チョコを貰えなかったことが残念だとか、悔しいだとか、そういう事で悩んでいるのではありません。バレンタインデーの翌日の職場での様子がたまらなく不快に感じるので、そのために心が重くなっていたのです。
男性職員の場合は、何個貰ったとか、気になる女性から貰えたとか貰えなかったとか、そういう話題で勝手に盛り上がっています。
女性職員も、好きな人に渡すことができたとか、昨日はデートだったとか、そんな雑談ばかりに時間を費やしていました。
特に苛立ちを感じるのは、男性が自分にチョコをくれた女性に対して、
「昨日はどうも!」
と明るく挨拶をしている瞬間でした。そのあとも会話が弾んだりしていると
「そんな話をしているヒマがあったら仕事しろよ!」
と怒鳴りつけたくなるほどです。まるでひとつもチョコを貰えなかった自分に対して見せつけているのか、と思ったりもします。
「こいつらは俺を馬鹿にして、わざとこういう言動をとっている」
去年はそこまで思いつめてしまいました。
おそらく今日もそういう場面に遭遇するのかと思うと、もう心が煮えくりかえるのを感じていました。
「これではダメだ、仕事に集中できない…」
男性は焦っていました。もし自分が周りに怒りをぶちまけるような行動に出てしまったら、それこそ大問題です。
この煮えたぎる気持ちを何とか鎮めることはできないものか、男性は一度立ち止まり、大きく息をしてみました。
毎朝通るこの道には駅の方向へ曲がる時、角の商店の奥に小さな鳥居が見えていました。その向こうに神社があるのだな、と男性は普段から認識していましたが、参拝に訪れたことはありませんでした。
今日は何となく、その鳥居の奥へと足を踏み入れたくなりました。
「心を穏やかに整えてから出勤しよう」と思ったのです。
まだシャッターの閉まっている商店の脇に、良く注意していないと気づかないほどの細い道がありました。そこを進んでいくと、いつも遠くから見ていた鳥居にたどりつきました。
朝早いので、境内は静まり返っています。男性は手水舎で手と口を清め、小さな拝殿へと進みました。
お賽銭を入れて鈴を鳴らすと、優しい風がふわぁ~っと男性の体を撫でて通り過ぎました。心なしか白檀のようなとても良い香りが感じられました。
男性は二礼二拍手の後両手を合わせたまま祈りました。
「もう職場で不快な思いをしたくありません。どうか今日は無事平穏に過ごさせて下さい」
参拝を済ませると男性は、何だかすぐに立ち去るのはもったいないような気がして、傍らに置いてあった休憩用のベンチに腰掛けました。
今朝は比較的暖かく、自然に囲まれた空間は静寂と神聖な気配に包まれていました。
男性は目を閉じ、深呼吸をして耳を澄ましてみました。
時折、鳥の声に交じってかすかに遠くの車道のざわめきが聞こえます。そして風が
さやさやと木々の枝葉を揺らす音は何とも心地よく、まだ冬が終わっていないのに
まわりの空気の中からは、ほんのりとした温もりを覚えました。
「静かでいい場所だ」
男性はすっかりここが気に入ってしまいました。ずっとここにいてもいいと思いました。しかし仕事へ行かなくてはなりません。
次の電車を逃すとギリギリの出勤になってしまうので、男性は重い腰を上げ、神社を後にしました。
それからというもの、男性は毎朝この神社へお参りしてから仕事へ行くようになりました。朝早く、たった一人で過ごす時間は、荒れていた男性の心を段々と解きほぐしていったようでした。
誰にも会わず、静かに気持ちよくいられる場所は、男性にとってかけがえのない心の拠り所となっていきました。
やがて春が訪れ、その後も四季の移り変わりとともに、神社の境内ではさまざまな景色を楽しむことができました。
一日の始まりにここを訪れることで、職場で彼が感じていたストレスは、徐々にですが緩和されて行きました。誰かが雑談している声も、以前のように気にすることはなくなりました。周りの人と親しく馴染むわけではありませんでしたが、仕事に集中することができたので、怒りや苛立ち等の感情はいつのまにか治まっていきました。
そうして月日は流れ、実に10年が過ぎ去っていました。
その朝も男性は神社の境内にいました。彼はいつものように拝殿で祈りを捧げていました。奇しくも10年目の2月15日のことでした。
「おそらく今日が最後の参拝になります。本当にありがとうございました」
10年の間この男性にもいろいろなことがあって、この週末には引越しをするため、ここに来ることがもうできなくなりました。淋しい気持もありましたが、男性は丁寧に神様へ感謝を伝えて境内を後にしました。
鳥居をくぐる時、周りの木々がザワザワと音を立て、枝が大きく揺れました。
振り返ると風はしばらく境内の中で回り続け、まるで男性を見送ってくれているようでした。
その時どこからか声が聞こえました。
「おめでとう。これからも心に潤いを与えてあげなさい」
男性はもう一度深く礼をして、その場を後にしました。
早朝のまだ座れる電車の中で、男性はポケットから何かを出して口へ入れました。
それは昨日婚約者から貰ったボンボンショコラでした。
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