春・楽園空間(4)
といってもここは校門前だ。騒ぎを起してはまずいということで、まずアオがしたことはお兄ちゃんと自身の浮遊だった。
ふわりと体が浮かび、大地から隔絶される。そして――後者の屋上、クレムリンっぽいたまねぎ型の屋根の先端に――叩き落とした。
死。圧倒的な死。このまま何もしなければお兄ちゃんは死んでしまう。
って、そんなことさせない! お兄ちゃん、
よし! 屋根がトランポリン状になった! そのままバルコニーに降り立とう。
くっ、アオも屋根を跳ねてバルコニーに。なるほど、これくらいは読んでいたってわけ。でも負けないもん。私だって万一のことを考えて少しくらいは魔法の勉強を事前にやってるんだから!
でも――
「ではまず、動けなくなってもらおうか。喰らえ、
アオは別格だった。
杖の先が青白く光ったかと思うと、突如、バルコニーの床から氷の柱が具象化され、お兄ちゃんの下半身を包み込んだ。触れた氷は即座に溶けて、そして服に絡みつくとまた凍り付く。
冷たい? いや、痛いよね。ごめんね。くっ――アオめっ!
にやにやと笑みを絶やすことなくちゃきっと
「どうしたんだい? 第二階層魔法だよ? 君だって撃てるだろ? その
今のマルセルがお兄ちゃんが支配しているが故に魔法の使い勝手が猛烈に悪いことを見抜いている。確かに心もマルセルだったならこんな氷喰らうことはなかったもしれない。
全ては私のミス。ごめんなさいお兄ちゃん。でも、一度彼と対峙した以上、勝たなくちゃならないの。
私たちの未来のために。
お兄ちゃん、
第三階層魔法の使い方はね、マルセルの体が覚えている。お兄ちゃんは神経を集中させて呪文を唱えるだけでいい。あとはマルセルに宿った反射神経がその通りに動いてくれるから。ほら、紫と金の渦が杖の先端に形成されてきたでしょう。
使う魔法は――
「おっと、そうとも、これくらいじゃ君は痛くも痒くもなかろう。おっと、させないよ。
言うが早いか、アオがそう唱えると、六角形と八角形が螺旋を描いて混ざり合ったような奇怪な角形をした陣がお兄ちゃんの魔法単杖(ルナ・イミレルト)の先端に生み出され、紫と金の渦が割れたガラスめいてぱりんと砕けた。
魔力が破壊された。これじゃ魔法が発動できない。
とんとんと杖で肩を叩きながらアオが溜息まじりに呟く。
「ふふ、鈍ったね、マルセル。それとも、妹の手引きがないと魔法は使えないかい? 哀れだな、よそ者の魂が混ざったために君からキレがなくなっているなんて」
否定できない。まさにその通りだ。マルセルのように華麗な魔法さばきを私は出来ないし、そもそもお願いしてからだからどうしてもタイムラグが生じてしまう。
そして、その隙をアオは見逃してはくれない。
「もっとも、ボクは手加減なんかしてあげないよ。だって君を壊すんだから。吹き飛べ、
そう唱えて杖を突き出す。瞬間、杖の先から紫の渦と金の渦が螺旋を描いてお兄ちゃんの体に衝突してきた。
それはまるでパンチのような、打撃的な技。
でも威力は人間のそれとは大きく異なり、例えるなら、ハンマーで殴られたような感じかな。
お、お兄ちゃん。大丈夫……じゃないよね。お腹にあたって息できない? しかも足が固定されて倒れることも出来ないから、衝撃を吸収できずにモロに受け止める形になっちゃった。ぼたぼたと胃液が口からこぼれるのを、私はただ見ていることしかできないなんて。
「痛いかい? でもね、ボクはもっと痛いんだよ。君にフラれてね。心がはち切れそうだ。涙が止まらないよ。許せないよ。壊してあげたいよ。君の体も心も、ズタズタにね!」
逆恨みってレベルじゃない。アオは壊れていた。
狂おしいほどの情念を原動力に、果てしない悪意を杖の先端に宿して、二つの渦を形成する。それはまさに、悪魔の力だった。
「もう一発喰らいな。
放たれる暴力。身動きの出来ないお兄ちゃんをサンドバッグのように容赦なく殴りつける。
口からついに吐くものすらなくなり、血がこぼれだした。喉を切っちゃったみたい。ごめんね、ごめんねお兄ちゃん。
アオ……どうして好きだった人に、こんなことができるの? 私には理解できない。
いや、理解は出来る。納得できないだけ。
だってアオは――お兄ちゃんのことが好き、という自分が好きだからだ!
「大丈夫。殺しはしない。殺したら君を愛せなくなるからね。ちょっと精神を砕いてあげるだけさ。二度とボクの愛に背けないようにね」
だからお兄ちゃんを愛せるなら別に健康でも幸福でもなくていい。ただのお人形さんでも構わない。
本質的にアオはお兄ちゃんを愛していない。
そしてそのことに、アオは気付いていない。
「さて、
何か唱えた。攻撃じゃない。最初の呪文を唱えると紫と金の渦が二つずつに増えた。そうか、あれは効果を二回放つ魔法か。そして後者。アオの体の周囲をうっすらと青いオーラみたいなものが包み込む。効果は……なんだろう。わからない。
と、アオが
「そして――藻屑と消えろ、第四階層魔法、
二つずつの紫と金の渦が天へと昇っていく。
お兄ちゃんは足を氷に閉じ込められて動けない。逃げ出せない。
これから何が炸裂するのか、何が起こるのか。私は不安を隠せない。
二つずつの渦が青空の奥へと吸込まれてゆくと、一転、きらりと空に星が宿った。
その星は一つ、二つ、三つ、四つ、五つと増えていき、最終的に八つのきらめきとなって青空に輝く。
そして輝きが一際強くなったかと思うと――バルコニーめがけて墜落を開始した。
隕石。流れ星。流星群。
色々な呼び方があるけれど、とどのつまり、これは星を落とす魔法だ。
逃げなきゃ。あんなの喰らったら死んじゃうよ。あ、でもお兄ちゃんは動けない。やばい。あれは死ぬ。本当に死ぬ。
く……魔法。そうだ魔法で! お兄ちゃん。早く杖を天にかざして呪文! 『
よし、お兄ちゃんの上に鏡が生み出された。これは相手の魔法を跳ね返す第三階層魔法だ。隕石をそのままアオにぶつけ……え?
鏡が、割れた?
き、きゃあああっ!
「ははは。どうだい? 生まれて初めて味わう第四階層魔法の威力は? ふふ、驚いたろ? 第四階層魔法は特級学校で初めて習う階層だ。上級学校では学ばないからね。ふふ、ボクを舐めて貰っちゃ困る。伊達にトップ合格はしてないんだよ」
く……そんな、そうか。階層の劣る魔法は優れた魔法を打ち消せないのか……。
で、でも多少は威力を殺せたみたいで、お兄ちゃんの体は火傷と打ち身だけですんでる。危なかった。お兄ちゃんに当たらなかった隕石の一部はバルコニーに穴を開け、地面にクレーターを作ってぷすぷすと煙をあげている。
あ、あんなの人にぶつける魔法じゃない。まるでミサイル。
お兄ちゃん。どこか痛いところは? え? 全部。ご、ごめんなさい……。骨折は、ないみたい。よかった。でもねんざが酷い……早く治療しないと……。
魔法、回復魔法を……あ。
「おっと」
アオの
あ、あれ? 今、呪文を唱えなかった。
「言ったろ? 手加減はしないって。まさか瀕死の君に情けをかけてここでもう一度抱きしめたら許してあげるとでも思った? 甘いよマルセル。ボクはさっき言ったはずだ。最後のチャンスだって。もうあげないよ。ははは!」
悪魔。アオは、悪魔だ!
「ボクは君の心が砕け散ってしまうまで、何度でも君を傷つけるよ! さあ、喰らえ!」
またも無詠唱で
「ふふ。
そうか、あの青いオーラはそういう能力だったのか。いや、その前に言われて気付いた。アオの頬からは涙がこぼれていたことを。
でもそれは罪悪感によるものじゃない。断じて罪悪感によるものじゃない。
あんなの、お兄ちゃんに振られて傷ついただけの、自分の都合じゃないか。
お兄ちゃんを傷つける理由なんかにはなりはしない!
あ、お兄ちゃん。魔法を撃つの? で、でも……。
「はっははははは! 無様だねマルセル! かつて神童と呼ばれた君がなんというザマだ! おっと君に魔法は使わせない」
あ、また
「君は魔術師だからね。魔法を使わせるわけにはいかないんだ」
アオは嘲弄するように肩をすくめる。瞳からは相変わらず自分の都合による涙がしたたり落ちていた。
「生憎とボクは魔術師じゃないからね。魔法は単体でしか使えない。魔法を組み込んだ術式なんかボクには出来ない。美容魔法に専念するため魔術は習わなかったもの。士官学校に入ったのも第五階層魔法を習得するためだけだしね」
魔術師じゃない? そんなはずは……。あ、いや、そうだ。アオは魔術クラブに所属していたけど、それはお兄ちゃん……ううん、マルセルと一緒にいるためで、ほとんど稽古らしい稽古はしていなかったはずだ。
そうか、美容のために魔術を習わなかったのか。でも、その割にはこんなにも攻撃魔法を駆使している。
アオはふふんと勝ち誇った顔つきのまま続けた。腰に手を添えて、実に腹立たしい。
「でも、ボクはマルセルを知っている。誰よりも知っている。だから魔術なんかなくても君に勝てる」
それはどこまでも正鵠を射ていた。
人を知る。それのもたらすアドバンテージは上っ面の技術力とは別の次元に立っている。そこからもたらされる攻撃性は、下位の者には太刀打ちできない。
でも、それでも! 負けるわけにはいかないの。お兄ちゃん、魔法を……あ、また
「まるでゲームのように交互に攻撃しあって消耗戦、なんてのを期待しても無駄だよ。君はサンドバッグになるんだ。ずっとね!」
ずるい。卑怯だ。お兄ちゃんは動けないのに、こんなにも一方的に。
そんなに、そんなにお兄ちゃんを傷つけたいの? アオ。アオはお兄ちゃんのこと、好きじゃなかったの? 本当に、心の底の、ただのひとかけらもお兄ちゃんへの愛はなくて、自分だけが好きだったの?
「ははは! 痛いだろう? ボクの痛みの万分の一でも理解したかい?」
何がボクの痛みの、だよ。嘘つき。君はろくに傷ついていない。振られた腹いせに暴力を振るってストレスを解消しているだけじゃないか。
だから、だからこそ。
「体を壊すだけなら簡単さ。天降宝煉(エル・シユクリーム)をブチ込み続ければいい。でも、それじゃ意味がない。じわじわと鈍痛を味わい続けて、頭がパーになるまで味わって貰う」
アオの言葉には、どこまでも悪魔が宿っていた。
涙を流しているその瞳は爛々と怪しく輝き、瞳孔が開いているようにも見える。
「マルセルの発狂か。どんな姿なんだろうなあ。楽しみだなあ」
そして口からこぼれるのは永遠まで続く嗜虐。
全身を包む青いオーラが、凍てつくような錯覚をもたらすほどだった。
「どうしたんだい? 降参かい? そんなの許すわけないだろ? 右も左もわからなくなるまで君はいたぶられ続けるんだ。そら! そらそら!」
一発、二発、三発。ただひたすらに空撃疾砲(ソレルイート)を炸裂させ、満身創痍のお兄ちゃんに傷を増やしてゆく。それを見ているだけで、私は耐えられないほどの悲しみに襲われる。
「痛いかい? 痛いだろうなあ。そして痛みが慣れそうになったら――」
と、魔法を変えてきた。お兄ちゃんの体にもオーラが宿る。赤いオーラが。
って、え? な、なにお兄ちゃん。痛みとは違うみたいだけど、凄く苦しそう。ど、どうしたの!?
「どうだ? 痒いかい?
痒み! 痛みだけじゃなくそんなことまでアオはやるの!?
人じゃない。あんたは人じゃない!
「痛いだけじゃ人は発狂しない。痒み、痺れ、眠気、あらゆる感覚をもって精神をズタズタにして、ようやく人は壊れるんだ」
バケモノ。今のアオは完全に狂気に支配されている。心が凶器になっている。
と、ばちっと耳障りな音。アオの杖の先端からだ。見ると――紫電が。
ま、まさか――
「ほら、
きゃあああああっ、おにいちゃあああぁぁん!
あ、電気――電気なんて! ダメ、もう見ていられない!
やめて、もうやめてよアオ!
「ゆっくり、じっくり、心を壊してあげる。次はどの感覚がいい? 快感と排泄我慢があるけれど。両方やってみようか! あはははは! これは壊れるよ、絶対に!」
壊す気なの、本当に、大好きだった人のことを、破壊しちゃうの?
狂ってる。アオ、あんたは狂ってる!
「壊れろ、心よ壊れろ。マルセルの魂なんか粉砕してしまえ!」
電気。電気。電気。ちかちかと周囲に紫電が走る度に、私はどうしようもない怖気と後悔と絶望に襲われる。
お兄ちゃんが苦しんでいるのに何もできない。お兄ちゃんが嬲られているのをただ見ているだけ。できることは声をかけること。そんなの、耐えられないよ!
もう、やめてよぉ! わかった、わかったよ! お兄ちゃんはあげる、あげるからもうお兄ちゃんを傷つけるのは――え? お、お兄ちゃん……?
お兄ちゃんの杖の先端に、紫と金の渦が……。
「お――抵抗? へえ。でも魔法はボクが使わせないよ。魔法の使えない魔法使いが、どう抵抗するんだい? んん?」
あ、
あ、あれ……お兄ちゃん、何を……? 杖で……まさか、氷を砕こうと? そんなの、無理に決まって……あ。そうか。
アオが攻撃。
低反射鏡は使えないんだよ? え、あ…;っ!
砕いた。いや、砕かせた。そうか、
ブリッジして、
凄い。お兄ちゃん凄い!
「く……
お兄ちゃんが駆けた。え、どうするの? わからない。もう私には何が何だかわからない。ただお兄ちゃんに、ゆだねることしかできない。
「……え?」
アオにも何が何だかわからないといった様子。一体……どうしようというの?
と、お兄ちゃんがアオに向けて囁いた。
「な、なに、それ?」
何て言ったの? 私には聞こえなかった。
お兄ちゃんが初めて私の意思とは無関係に動き出した!
と、隙。ついに、あの悪魔たるアオに、隙が!
「し、しまった! ちい!」
慌ててアオが
でも、お兄ちゃんはさせなかった。また、何か囁いたみたい。何て言ったの? 私には聞こえないんだけど……。でも、確かなことは、アオが、ひどく動揺しだしたということ。
「あ、まさか……マルセル、君は……っ!」
お兄ちゃんがまた何か言う。
でもさすがに三度目ともなればアオには通じない。練り上げた魔力が炸裂しようとする。
「おっと、そうはさせない。ボクが君に負けるわけがないんだよ。絶対に」
その前に、お兄ちゃんの声。ぴたりとアオが止まる。どうやら相当傷つく言葉を投げかけているみたいだけど、なんて言ったのかわからない。
私が導いてきた三つの世界で、お兄ちゃんはついに自分の意思で活動を開始した。
「え? いや、違う」
そしてその違和感を、アオが完全に把握する。
そして涙をぬぐい(まだ泣いてましたよこの人)、ぎっと睥睨をお兄ちゃんに向ける。その視線は愛するマルセルに対してのものではなく――得体の知れない、赤の他人に向けるそれ。
そして口から、恐怖を携えて呟いた。
「誰だ……君は?」
それは、お兄ちゃんだよ。今、アオの前にいるのはマルセルじゃない。マルセルなんかじゃない。明らかに別人。完膚無きまでに他人。
お兄ちゃん、なんだよ。
でも、まさか――マルセルの魂や活動原理すらも無視して、お兄ちゃんが自分の意思で動くなんて、私、思いもよらな無かった。
「マルセルじゃ……ない。こいつは……そうか、入り込んだ魂の方か!」
そ、そう。そうなんだけど。でも――気付かれちゃったよ。お兄ちゃん、どうするの? 魔法は使えないんだよ?
「なら……
ほら、容赦なくアオの第四階層魔法が炸裂する!
「どうだマルセル! 君ではボクには勝て……な!?」
お兄ちゃんが、アオを――抱きしめた。
「馬鹿な、マルセル。君は……君は!」
そしてやはり、耳元で囁いた。聞こえない、私にはわからない、声で。
「や、やめて、それは、ダメ……あ、ああ……ああっ!」
言葉の力で、アオを止めている。おそらく拒絶の言葉か、甘いささやきか、どちらにしてもアオを動揺させるものであることは確かみたい。
そしてそれによって生まれた間に――星は落下する。
「違う、ボクは本当に君を愛して……あ、君を――く、う、うぅっ!」
もう、逃げられない。当たったら死ぬ
「うわあああああっ!」
それから何時間が過ぎたろうか。騒ぎを聞きつけてやってきた教官たちによって医務室へと運ばれた。回復魔法がかかる前はお兄ちゃんもアオも瀕死の重体で、満足に言葉も話せなかった。
空はもう真っ暗。夜の帳が降りて街を照らす小さな灯りがこじんまりとした宝石となって世界を包み込んでいる。
そして医務室でうっすらと目を覚ましたアオが、泣きそうな声でぼそっと。
「マルセルぅ……そうか、それが、君の答えか」
静かな、とても静かな医務室にアオの声はよく聞こえた。
お兄ちゃん。さっきはありがとう。私じゃどうにもならなかったことを、お兄ちゃんの意思によって撃砕した。でもこれからは、また私が導くね。
アオは確かに独善的だし、悪魔だし、お兄ちゃんを心の底から愛している訳じゃない。正確にはお兄ちゃんが好きだっていう自分が好きなんだよ。
だって本当に自分よりもお兄ちゃんが好きなら、お兄ちゃんを傷つけたりは絶対にしないもん。
それを、教えてあげて。
「ありがとう……そこまで、ボクを思ってくれたんだね。そして、その結論も、理解できる」
アオが、嗚咽を鳴らした。ひっくひっくと、横隔膜を痙攣させている。夜の医務室は魔法による灯りが蛍光灯みたいに灯っていたけれど、そこに暖かさは感じられず、ただ寂しい空気をまとって静謐の中を冷やしている。
そんな悲しい室内で、アオは懺悔した。
「確かにそうだ。ボクにも非があった。ボクは君を愛しているようで、君を見ていなかった。失策だったよ」
やっと、気付いてくれたんだね、アオ。
嬉しいよ。私の魂が少しずつ満たされていくのを感じるよ。
そう、諦めるという意味での、満足。
お兄ちゃんの幸せを望むからこそ、私は諦めることが出来る。
散華の美を、アオにもわかってくれたんだね。
「そうだね。そうかもしれないね。ボクは、甘えていたんだね……」
そう。甘えていたんだよ、お兄ちゃん……ううん、自分に。
だからお願い、アオ、独り立ちして。今度はちゃんと自分より価値ある人に、自分の全てを注ぎ込んでよ。
「わかった。諦めるよ。君を愛しているから、君のことが好きだから。好きだから、好きだから、大好きだから!」
ああ、辛そう。泣きながらの大声。掠れてる。アオの声が私の耳に入る度、胸がぎゅっと締め付けられそうになる。
でも――でも。
「ボクは君の幸せのために、君を諦めよう」
言って、くれた。
アオはついに、諦めてくれたんだ。
「しかし、マルセル。ボクは、幸せになるのかな?」
お兄ちゃん。言ってあげて。なれるって。自分より価値ある人に出会えれば、すぐにでも幸せはやってくるって。
「そうか……そうだね。そうかもしれないね」
だから、今度は自分だけを見ないで、周りを見ながら歩いて見なよ。
「まだボクは、歩き始めたばかりだ」
そうだよ、私と一緒にね。
私はもうすぐ消えてゆく。でも気づけて良かったよ。私も勉強できた。人を愛するってのは自分が満たされる事じゃなく、相手が満たされることなんだって。
愛は理性。どこまでも無限に広がる大きな大きな理性。
そこに、欲望なんかが介在する余地はない。
だって、相手が幸せでありさえすれば、それでいいんだから。相手の幸せを見ることで、こっちも幸せになれるってことなんだから。
それ以上の喜びなんて、何もないよ。
だからアオも、それに気付いて欲しいな。
あ、いや、ううん。
「いいよ。マルセル。君の意思を尊重しよう。君の拒否を、ボクは受け入れよう」
アオはもう、気付いていくれているよね。ありがとう、アオ。
「ボクと君は本音でぶつかり合い、そして決裂した。それを、受諾する!」
アオが寝そべったままそう高らかに、嗚咽混じりに宣言する。すると、アオの体からピンクの魂がふわりと飛びたち、窓を突き破って空の果てへと消えてゆく。
「ああ、妹の魂が昇天してゆく……」
うん、私の、最後の魂。全てに納得がいって、全てに満足した、私の残滓が空へと旅立つ。
窓は閉まっているはずなのに、なぜかひんやりとした風が頬を撫でた気がした。
それはとても心地よくて、とても暖かくて。
それで、ちょっぴり痛かった。
「はは、綺麗なものだ」
アオもそれを感じ取ってくれたみたいで、何となく寂しさを感じる。
「ではボクはこれで……」
お兄ちゃん、アオを慰めてあげようよ。まあ、今は起き上がれないけど、言葉でさ。
「やめてくれ。せめて今日くらいは、泣かせてくれよ」
あ――アオ。わかったよ、君の意思を尊重する。
お兄ちゃん、眠ろう。そしたら私たちは、帰るから。アオがかつて隙だったマルセルが、そこにいるから。
「さよならだ、マルセル」
アオ。違うよ。これからはマルセルと新たな出会いをするんだよ。
今度こそ、親友としての距離を保ってね。
ふふ、夜の街が、優しいや。
さ、帰ろう――と思ったけど、ちょっと次の日、見てみようか。
元気になったアオはちゃんと節度を守ってくれるかどうか気になるし。
えーと、空は相変わらず快晴だね。今は登校時。さて、これから登校なんだけど……。
「おはようマルセル! 今日もいい天気だね!」
あ、アオがきた。回復魔法後といってもまだ完治したわけではないようで、体中に包帯を巻いて結構痛々しい。まあ、実はお兄ちゃんもなんだけどね。痛いよね? でももうちょっと付き合ってよ。すぐ終わるから。
さて、アオ。昨晩のこと、本当だよね。お兄ちゃん、ちょっと聞いてみて。
「え? ああ安心したまえ。ボクはもう君に告白はしないよ。君にフラれたんだから、諦めるさ。君だってボクを尊重して振ってくれたんだろう? なら、それは受け入れなきゃ」
アオは胸を張り、鼻息を荒くしながら両手を腰に添える。
いや、別にそんなドヤ顔で格好付けなくてもいいんですよ?
「どうしたんだマルセル? 別に親友関係まで断絶することはないだろう? 君がアナナスと恋を育もうが、ボクはもう止めない。安心したまえ」
まあ、そりゃ、そうなんですけど。どうもテンションが高くて調子狂うなぁ……。
てかさ、もう一つ聞きたいことがあるの。すっごくストレートなこと。
なんで君まだ女装してるのさ!
「ああ、なんだ、この格好のことか。いやね、最初は君と結ばれるための女装だったんだが……どうもこの格好、ボクに合っているみたいなんだ。もうやみつきだよ!」
あんですと!?
脚に巻いた包帯がナチュラルに見えているよ! まさかこんなことになるなんて! これじゃアオは果たして幸せを掴めるのでしょうか!? ああ、でもアオが気に入っているならこれ以上言うことは――でも、でも!
なんだろう、この釈然としない気持ち。
「あの……マルセル、さん」
と、アナナスがもじもじとした様子でやってきた。何かすっごい久々な感覚。昨日会ったばかりなのにね。
さて、アオの反応は……。
「おっとアナナスか。お邪魔虫は退散させて貰うよ。君たちはゆっくり恋を育みたまえ。ああ、ボクの女装はやめないけどね!」
わかってくれたみたい。女装は余計な気もするけど。
「はっはっはっはっは! さあて素敵な男性を捜す旅でもしようかな!」
あ、やっぱり相手は男性なんですか。そうだよね。人類の一割は同性愛者だもんね。
でも、まあ。それはそれでいいや。たとえ男性でも、ちゃんと自分より大事にしてあげることが出来るなら、私はアオを祝福するよ。
さ、お兄ちゃん。マルセルにこの体、返してあげよう。
アナナスとマルセル。二人の仲の邪魔をしちゃダメ。
長い旅は終わりだよ。さ、帰ろう。
空が青いね。まるで最後を祝福しているみたい。
えへへ。
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