春・楽園空間(3)

 お兄ちゃん、走って! 走って走って! どこでもいいから、行く宛なんて考えなくていいから!

 景色がスライドする。空気が肌を切り裂く。でも空だけは、変わらずに青かった。

 まさか最後の最後でこんなことになるなんて。順風満帆に事が運べると思っていたのに。なんて残酷な真似を!

 恋を成就させなければ魂は昇天できない。でも相手は成就できる存在ではない。

 ねえ、お兄ちゃん。どうしたらいいかな?

 このままアナナスと結ばれても、私は成仏できない。

 かといってアオと結ばれるのは、お兄ちゃん嫌でしょ?

 ねえ、どうしたらいいと思う?

 教えてよ、私、わからないよ。どうしていいかなんて知らないよ。

 選択肢は三つ。

 一つ、アオと結ばれて私の魂を昇天させる。

 二つ、アオとの成就を諦めて私と永久に一緒にいる。

 三つ、アオに女の子をあてがってアオの恋心を変えてしまう。

 これくらいかな。一番真っ当な手段は三番目だけど、多分、無理。

 アオはお兄ちゃんしか見ていないから。わかるの。私がお兄ちゃんしか見ていないように、アオはお兄ちゃんだけを愛している。そしてそれは、これからもずっと。

 それとも成就は諦めて元の世界に戻る? 私はずっと傍にいるよ。あはは、それでもいいかもね。お兄ちゃんとずっと一緒。十年も、二十年も、三十年も。

 でも、でもねお兄ちゃん。お兄ちゃんが死んだら、私、どうするんだろ。百年後、お兄ちゃんは死んで成仏する。そうなったら私一人なんだよ。ずっとずっと。千年も二千年も、ううん、一億年も二億年も、人類が絶滅して、地球が太陽に呑み込まれて、宇宙が熱死して全ての物質が消滅しても、私は虚空を漂い続ける。何兆年も、何京年も。

 それは、やだなぁ。わがままでごめん。でも、やだよ。それはやだよ。怖いよ。できるならお兄ちゃんと一緒に成仏したいよ。それがダメなら、せめて私が先に成仏してお兄ちゃんを待っていたいよ。

 となると、やっぱりアオと結ばれるしかないのかな。アオは性格あアレだし性別もアレだけど、後者に関しては将来的に変わるから、大丈夫だよ、多分。

 今までコンビだったんだし、それがちょっと密接になるだけ。そう思って、私のために結ばれる?

 でも、それってさ、お兄ちゃんの気持ちをないがしろにしているんだよね。

 だってお兄ちゃんは――アオのこと、愛してないでしょ?

 両者に丸っきり愛情のない結婚よりももっと不幸なものが一つある。それは愛情が片方のみにある場合だ、なんて言葉があるんだけど、それを実戦する勇気、ある?

 ううん、それはやっぱり私が辛い。私はお兄ちゃんが好きだから。好きだから、大好きだから、お兄ちゃんを苦しめたくない。

 ねえ、お兄ちゃん。一体どうしたらいいの? わからない、私、わからないよ。

 もう、私から言えることはない。お兄ちゃん。選らんで。

 もう、どれを選んでもその通りに実行するから。

 A、一番。

 B、二番。

 C、三番。

 ……あれ? 選んでくれない。どうして? 私、もう何も言えないんだよ? これ以上私を苦しめないで。楽になりたいの。

 あはは、楽になりたい、か。変な……気持ちだね。

 あ、お兄ちゃん。どうして足を止めるの? ここは……どこだろ? わかんないや。土手が見えるね。石橋があるよ。行ってみる?

 ふう、結構がっしりしたつくりだね。馬車もよく通ってる。車ほんとないね。雰囲気壊さないからいいけど。

 はぁ。どうしよう。え? どうしたの?

 D? 四番目の選択肢? ないよ、そんなの。あるわけがない。だって……あ。

 お兄ちゃん……何を……?

 え? アオを諦めつつ、昇天させる?

 そんな、無理だよ……。だって、私の魂は『私の願いが叶うことで現世への執着から解き放たれる』んだから……。

 あ、そ、そうか。そういう、ことか……。

 お兄ちゃん……最初から、それを、わかってた?

 あは、あはは。今まで黙って付き合ってくれてたんだね。最初から、その気持ちを携えていて。

 そりゃ、そうだよね。だって私は妹。それってさ、アオと全く一緒で――叶うはずのないポジションに存在する者だから。

 そう、執着。ああ、そうか。執着ってそういうことか。

 私は諦めるタイミングを逃して、死んじゃったんだ。

 あは。そうだね、その通りだね。

 私とお兄ちゃんは生まれたときから結ばれない運命にあるんだ。

 こんなに近い所にいても、私はお兄ちゃんとこうして話をするので精一杯。

 ここから一歩踏み出すことは出来ない。出来るとしたら、相手を間借りして間接キスして満足することだけ。

 つまり、偽物なんだ。

 お兄ちゃんと私は、絶対的に結ばれない。

 もしそれをねじ曲げたら、不幸になる。間違いなく不幸になる。

 そうだよ、花梨の相手はお兄ちゃん。ペアの相手もお兄ちゃん。だからわからなかった。

 でも、花梨は私じゃない。ペアも私じゃない。魂を増やしただけ。

 私の中にある、本当のものは、最初から遠い所にあったんだ。

 だから今回は、そのきっかけ。

 アオに諦めさせる。それはつまり――私を諦めさせるってこと。

 死刑宣告だね。

 でも、それが普通。それが正常。

 でも――辛いよ。痛いよ。涙が、出てきちゃったよぉ……。

 お兄ちゃんはお兄ちゃん。私は結ばれない。最初から、絶対に、どうやっても、結ばれることはない。

 それを自覚する前に、私は死んじゃった。

 でもこれは、それを自覚できるきっかけだったんだね。

 ふふ、痛いなぁ。胸が破裂しそうだよお兄ちゃん。

 でも、わかった。今なら昇天できそうだよ。今だけ。多分、本当の今だけ。

 おそらく明日になったらやっぱりやだ! って言っちゃう。未練が残っちゃう。

 お兄ちゃん。ありがとう。私に気付かせてくれて。

 アオを振って。そして、諦めさせて。吹っ切らせて。

 叶わないものにすがって無理に世界をねじ曲げて、その歪が産む不幸に、私を近寄らせないで!

 うん、よし。これで大丈夫。

 ねえ、お兄ちゃん。この告白を受け止めて。そして、否定して。

 今回だけは、冗談しないでね。


 私はお兄ちゃんのことが好きです。付き合って下さい。


 A、ごめんなさい。○

 B、喜んで。

 うん、ありがとう。それでいいの。

 そーだよ。最初からこれをしたかったんだよ、私は。

 振って欲しかったんだよ。嫌いって一言言ってくれればよかったんだよ。

 よし、吹っ切れた! さあお兄ちゃん、アオの元へ戻ろう! アオを、振っちゃえ!


 果たして、アオはいるかな。それとも学校に行っちゃったかな。

 あ、いた!

「どうしたんだいマルセル。さっきは逃げ出したりして」

 アオは後ろに手を組み、にっと笑いながら校門前に佇んでいた。

 お兄ちゃんの存在に気付くと勝ち誇るかのように前髪を梳いて、流し目を送ってくる。

「もしかして、ボクの愛を受け止めてくれる覚悟が出来たのかな? 嬉しいよ。安心してくれたまえ。ボクはなんだって出来る。料理も、掃除も、洗濯も、裁縫も。魔法だけじゃない。それにボクはいずれ本物の女の子になるんだ。子供だって産んでみせる。立派な子に躾けて見せるよ」

 ああ、凄く攻撃的なアピール。

 自分は有能ですよとこれほどまでに主張してくる。

 いや、まだ止まらない。

「ボクは常にマルセルを立てる用意がある。マルセルの利益になることならなんだって協力するよ。財産も君が管理するといい。子供の名前だって君が決めて構わない。ボクの見返りはただ一つ。愛だけだ。マルセル、君がボクを愛してくれさえすれば、ボクは他に何一つたりとも求めやしない」

 それは逃げ道を完全に阻止するための甘い言葉。

 袋小路に追い詰められたお兄ちゃんの背中に壁を落とす行為。

「君が辛い境遇に陥ったのなら救ってあげる。寂しくなったら慰めてあげる。百歩譲って浮気おも見逃そう。英雄色を好むと言うしね。ただ、ボクへの愛は忘れちゃ困る」

 愛の密室が形成される。アオはお兄ちゃんを縛り付けようとする。

 甘い蜜で構成された、絶対に外せない鎖だ。

「どうだい? 他のどの女と結ばれるよりも好条件だろう? 確かアナナスは子爵令嬢だったか? 生憎とボクもマルセルも貴族ではない。でも君が望むならボクが君のために貴族の称号を買ってあげよう。まあ、男爵止まりだがそこは勘弁してくれたまえ。子爵以上は売ってないのでね」

 勿論これはアオが、じゃない。女の子は貴族になれないから。お兄ちゃんを貴族にしてあげるって意味だよ。

 もっとも、爵位なんて貴族院議員になれることと貴族のサロンに入れることくらいしか特権なんてないけどね。ノブレス・オブリージが義務化されているから貴族は色々と制約も多いし。

 おっと、これはどうでもいいや。

 アオはひとしきりアピールを終えると、一歩前に踏み出して手をさしのべてきた。

「さあ、返事が聞きたいね。打算という観点なら承諾以外あり得ない。もしかして自由を欲するか? いいとも。君を鎖でつなぎ止めたりはしない。君は自由に生きていい。将来何になってもいいし、何を求めてもいい。ボクへ愛を注いでくれさえすれば、ボクは他になんにも望まない。高価な宝石も、ブランド物のバッグも、高級レストランでの食事も必要ない。ただ寄り添って、ボクを愛してくれればいい」

 お兄ちゃん。惑わされないで。愛ってのは打算じゃないの。理屈じゃないの。

 愛を構成する要素は無限の理性だけど、そこに計算は含まれていない。

 それをアオは見逃している。彼の言葉に込められている者は欲望以外の何物でもないし、そしてそれは、愛とは言わない!

「君にとって限りなく都合のいい存在だよ。こんな女、他にいるか? ボクは君を束縛さえしないんだよ? その上で君の利益だけをボクは追求する。君は失敗しても構わないんだ。ボクが支えてみせる。無論、ボクは目立たない。どうだ? 最高の伴侶だろう?」

 まるで契約みたい。人が好きあうってのはそんなんじゃない。

 もし打算が愛の全てなら、ペアはリークと結ばれたりしないもん!

「いつまで悩む? いつまで苦しむ? もうやめたまえマルセル。何より君と、君の妹が幸せになるためには、ボクと結ばれるしかないんだよ」

 だからそれがダメなんだよ。理屈で押し通そうとしても、無駄なの。

 お兄ちゃん、ちょっと言ってあげなよ。

「別に打算だけじゃない。ボクは君を愛している。そしてボクは絶対に君を裏切らない。命を賭けてもいいよ。ボクは君以外の相手に振り向くことはない。断言する」

 おっと反論してきた。流石にアオは強いね。心の芯がちっともブレない。

 でも、それが最後までもつかな?

「それとも――愛されるより愛したいか?」

 ああそうだね。愛したいよ。私も、お兄ちゃんも。一方的に押しつけられるだけの愛なんていらないよ。

「だが君に愛したいと願う、特定の人物はいるのか? アナナスか? いいや違うね。アナナスは君のことが好きだが、君はアナナスを好きではない。妹の手引きによって恋心を受け止め、少しずつ愛を育まねば君がアナナスを愛することはない」

 ほんとに理屈なんだね彼は。

 それが、弱点だともわからずに。

「そして、下級学校時代から、君が誰かに恋心を抱いた試しがない。初恋すらまだだろう? ボクはなんでも知っているんだ」

 でもそれはマルセルの、でしょ。お兄ちゃんは違うよ。

 お兄ちゃんはすでに二つの世界で愛を知ってる。そしてそれが、決定的にアオとの隔絶を意味している。

 それは、独善の愛なんて、愛じゃないってことだよ!

「さあ、ボクを抱きしめて。ボクの唇を支配して。ボクは、それを望んでいるんだ。そして――君の妹もね」

 さあ今だよお兄ちゃん。もう一度あの選択肢を!

 A、ごめんなさい。○

 B、喜んで。

 よおし!

「な!?」

 アオの目の色が変わった。それは明らかな――驚駭。そして、落胆。

 始めてみせるね、そんな顔。ふふふ。

「マルセル……それが答えかい? 残念だよ」

 やれやれと肩をすくめるアオ。しかしまだ負けない。

「だが妹はいいのか? ボクと結ばれない限り、妹は昇天しないんだよ?」

 ううん、ところが昇天するんだなこれが。

 だって私は吹っ切れたもん。お兄ちゃんは私を振ってくれたもん。

 兄と妹は結ばれない。その厳然たる事実のもと、私を嫌ってくれたもん!

 私の独りよがりな独善を、撃砕してね!

「そうか。そういう昇天もあるわけか。随分悲壮だね。そんなにボクは嫌かい? 君にとってこれ以上ない利益をもたらすボクが、そんなに嫌かい?」

 ああ、嫌だよ。すっごく嫌。

 お兄ちゃん、言ってやってよ。嫌だって。そして唾でも吐いちゃえ。

「そうか。それは残念だ。本当に残念だ」

 深いため息をつくアオ。そしてするりと腰にぶら下げていた魔法単杖ルナ・イミレルトを抜き出す。

「だけどねマルセル。ボクとは付き合えませんと言われてはいそうですかと頷くような人間だと思うかい? 君はここ十年以上、ボクの何を見てきたんだい?」

 え? な、何をするつもり? もうどうやってもお兄ちゃんと君は結ばれないんだよ? それがわからないほどバカじゃないでしょうに。

 アオは魔法単杖ルナ・イミレルトを天にかざし、お兄ちゃんを見下ろしながら――

「欲しい物は手に入れる。それがこのアオ・エーレーストクルだよ。マルセル。ボクは平和的手段で君と結ばれたい。最後のチャンスだ。ボクを抱きしめたまえ。次もう一発撃ったら……ボクは君を、壊してでも手に入れるよ?」

 そう、宣告した。

 いや、これは通牒だ。最後通牒。

 これを拒絶したらお兄ちゃんを壊すってわけか。凄いね。本当に独善だ。恋心を腐敗させて、愛を破壊しちゃってる。

 本当にお兄ちゃんのことが好きなら、お兄ちゃんを傷つけちゃいけないんだよ。

 さあ、お兄ちゃんも抜いて、魔法単杖ルナ・イミレルトを!

「……そうかい。そうなのかい」

 アオの魔法単杖ルナ・イミレルトに魔力が放出される。杖の先端から紫と金の渦が出現し、絡み合う。

「わかった。マルセル。君を――破壊してあげよう」

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