恋のゴール、百メートル(2)
さて、一日経ったね。え? 早すぎるって。
私たちは魂の存在。魂には時間軸がないからこういう風に瞬間的になるんだよ。時間は質量に支配されて初めて意味を成すものだからね。
さて、部活だけど、あ、花梨が走ってるよ。百メートル。
あー、いいフォームなんだけど、陸上選手としちゃちょっと遅いかな。
「ふう、十三秒切れないなぁ」
花梨がストップウォッチを確認し、落胆してる。
やっぱり。花梨は十二秒台を出したいってのが目標なんけど、未だにそれが達成できてないの。
「切りたいなぁ」
なんか切ないね。どうにかして叶えてあげたいけれど――でも。
私たちの目的は、それじゃない。
って、あれ? セーラー服姿の女の子が花梨の元へ歩み寄ってきたよ。お兄ちゃん。邪魔になるといけないから離れてこっそり様子を窺おうね。この木の陰に隠れて。そうそう、ここなら会話は聞こえるから安心だね。
「花梨」
「あ、みーちゃん。どったの?」
ああ、花梨の友達なんだ。迂闊。それは調べてなかった。というか、あまり重要じゃないと思って興味を持たなかった。てへへ、失敗失敗。
と、女の子――みーちゃんが鞄からなんかチラシを一枚取り出したよ。
「これ」
「え? 駅前のケーキ屋さんでケーキバイキング? 五百円で食べ放題? あー、いいな。私も行こうかな。あーでも部活あるし。どうしよう」
ケーキバイキングかぁ。いいなぁ。私も食べたかったよ。でももう……。あ、ううん。いいの。気にしないでお兄ちゃん。
と、みーちゃんが何やら渋い顔でチラシを鞄にしまう。
「でも花梨。あの店味はあんまよくないよ? 味ならココの方がいいんじゃない?」
って、自分で誘っておいて自分でディスってどうすんのよ!
ただ、花梨は特に気にしていない様子で、朗らかに笑いながら手を振った。
「あーいいのいいの。五百円だもん。ああいうのはお腹に入ればそれでいいの」
「いいの、かなぁ」
まあ、五百円だからね。確かこの頃はもう五百円玉あったはず。
「それでね、話は変わるんだけど化学の宿題さ、みーちゃんはどうするの?」
「え。あたしは……友達にノート借りたから」
「あー、いいな。私もみたーい」
「じゃ、一緒に見る?」
「うんっ」
宿題かあ。私たちの時代にはもうないよね、宿題って。あっても一つか二つ課題を渡されるくらいだもん。
文字通り山のような宿題。これもこの時代ならではだね。その上で塾に行く子は塾に行くからねえ。ほんと、心が死んでもおかしくない時代なんだよね。
おや、みーちゃんが突然にやにやとした、ちょっと下品さを携えた含みのある顔つきで花梨の鼻先まで顔を近づけてきたよ。
「ところで花梨はさ」
「ん?」
花梨が近寄らないでと言わんばかりに一歩下がった。
しかしみーちゃんは構わず一歩詰め寄る。そして、言った。
「渡すの? 敷島先輩に」
「え。えー……それは……」
花梨があからさまに目を泳がせ、頬どころか耳まで真っ赤にさせながらもじもじと身をくねらせ始めたよ。
言うまでもなく、それは照れ。そして渡すのと言ったら時期的にバレンタインチョコ以外ありえない。お兄ちゃん、わかるよね?
みーちゃんが肘で花梨の二の腕をつっつく。練習中だから上は丸襟の白い半袖体操着だ。寒そうだなぁ。それにしても。あ、お兄ちゃんもそうか。寒いでしょ、その格好。練習中はジャージ禁止だからね。ほんと、色んな価値観が今とは違うんだね。
「出したら?」
「だって……恥ずかしいし……それにさ」
「それに?」
「断られたらどうしよう……」
花梨の声はどこまでも消沈していて、視線も地面に落ちていた。
その仕草を見て、みーちゃんがはぁ、と深いため息をひとつ。
「……あんたね」
同感です。ちゃんと告白すればお兄ちゃんは受け入れてくれるのに。ね、お兄ちゃん?
って、あ、やばい。花梨がこっちに気付いたよ!
「ん? あ、先輩!」
とててて、と花梨が小走りで駆け寄ってきた。みーちゃんは一歩も動かず、何故かにやにやとしながら手を後ろに組んでいる。
しょうがないなあ。じゃ、お兄ちゃん。聞かれたらファンから逃げたとでも言っておいて。
「どうしたんですか? え? ファンの子から逃げてきた? ダメですよ、ファンは大事にしないと」
メッと花梨が人差し指をお兄ちゃんの鼻先にむけてきた。まあ、体は敷島くんのだけど。
「もう、しょうがないなぁ。あ、今日はポカリ切らしてて、水でいいですか? すいません」
そう言ってぱたぱたとグラウンドの隅に設置されていた教壇の上にある沢山バッグ。その中から一つ取り(おそらく花梨のもの)、水筒のカップ部に水をそそぎ、タオルで隠しながらまた戻って来た。
まあ、飲んであげたら。どうせ喉渇いているでしょ。あ、ちゃんとお礼を言うんだよ。
「え、ありがとうって。やだなぁ、いつものことじゃないですか。あはは」
そう言いつつも花梨はとっても嬉しそう。うんうん、笑顔が素敵でかわいい。
お兄ちゃん、ちゃんとタオルで隠しながら飲むんだよ? そうしないとバレちゃうからね。外からはぱっと見汗を拭いているような感じで。そうそう。上手上手。
すると、花梨がさっきみたいにもじもじと身をくねらせてきたよ。ただ、視線だけは灼けるように熱いものをじっとお兄ちゃんにぶつけてきたけど。
「あの、先輩」
え、まさかここで告白!?
と、思ったんだけど――
「あ、い、いいえ。なんでもないです。みーちゃん、いこ」
ありゃりゃ。そう言って花梨はみーちゃんの元へ戻っちゃったよ。
「え? いいの」
みーちゃんが怪訝そうに眉をひそめる。そうだよ! もっと言ってやって!
「いいの!」
花梨の声は澄んでいて、頑なで、それでいて――ちょっとだけ、寂しそうだった。
ん? なんだろ、足音? 気配。
あ……。
「あ、敷島くーん!」「どこ行ってたのよー。探したんだから」「さあ捕まえた」「あん、たくましい体」
ファンの子たちだよ……。しょうがないなあ。お兄ちゃん。相手してあげて。
今日はそれで終わり、また明日頑張ろう。
さて、明日になりました。相変わらず霊魂は時間の進み方を超越するね。まるでチャプターを飛ばしたみたい。
えーと、今は部活の時間じゃないの。昼休み。お兄ちゃんの格好よく見て、ほら、学ランでしょ?
場所も校舎内。廊下では熾烈な購買部戦争に赴く兵士達の鈍重かつ過激な足音が地鳴りとなって響き渡っているね。
一方で教室にはゆとりある弁当組が机を囲んで楽しく談笑にふけりながらランチしているよ。この辺は今と変わらないね、お兄ちゃん。
さて、どうしてこの時間に飛んだかというとだね、お兄ちゃんには是非見て欲しいものがあるから。だからごめんね、購買部には行かないでちょっとこっち来て。一年生の教室。
ほら、ここ、C組。こっそり見てみて。花梨がみーちゃんともう一人の子を囲んで楽しくお弁当しているよ。相変わらずセーラー服がやぼったいね。もっとスカート短ければいいのに。せめて膝丈くらいまで。
まあ、だからこの頃台頭してきたブレザー校に人気が出てくるんだけどね。ま、それはいいや、聞いて欲しいのは彼女たちの会話。よく耳を澄ませて。
「え? 駐車場脇の木。ああうん、知ってるよ。それが?」
花梨がウインナーをつまみながら友達――確かゆっちだったかな。そのゆっちに訊ねているよ。
ゆっちはハンバーグにぐさっと箸を突き刺し、何やら憤慨のご様子。
「それがじゃないって。実はこの前ほら、隣のクラスの弓田。知ってるでしょ」
「弓田? 誰それ?」
私も知りません。
「え、知らないの? 二学期まで学年でずっとビリだった弓田!」
「ビリ?」
「テストのこと」
「ああ、なるほど。それが?」
花梨がもぐもぐとウインナーを咀嚼しながら訊ねる。
「それがさ、木に試練と願いを伝えて、なんか試練突破したらしいんだけど、そしたらさ、今回の学年末テスト、一位になったんだって」
「へー、勉強したんだね」
「いや、違うって。学年ビリがちょっと勉強したくらいで一位になんかなれるわけないじゃん! ほんと花梨ってそういうのに疎いよねー」
「そりゃ、私はほら、部活やってるし」
「私も部活やってんですけど」
確かゆっちは――手芸部だったかな。まあ、あまり関係ないけど。
「あはは」
花梨はかちゃりと箸を置いて静かに笑う。
ゆっちがずいっと身を乗り出す。あ、ちなみにみーちゃんは黙ってご飯食べてます。お行儀がいいのかノリが悪いのか。
「でね、その話が広まってから学校中で木に願いかけるのがちょっとしたブームになってるんだって」
「へえ、全然知らなかった」
嘘。花梨は知っていた。でも黙っているだけ。
だって花梨は――お兄ちゃん。貴方のことが好きだから。
でも、言えない。私が何もしなくてもひょっとしたらこの恋は叶うかもしれない。でも、その可能性はあまりにも低い。だって、花梨は、内気だから。
自分の意見をストレートに言えない子だから。そしてお兄ちゃんにはファンがいるし、陸上で忙しいし、何より朴念仁だからね。あ、ごめんなさい。言い過ぎたよ。
「もう、ほんと花梨は疎いっていうか、そんなことじゃ世の中渡っていけないよ?」
「そうかな?」
「そうだって! これからの時代、情報が大切になるんだよ。ほら、そこ、あのオタクな男子たちの間で今マイコンの話してるじゃん」
マイコン。昔はパソコンのことそう言ってたんだよ。今じゃ言わないね。むしろパソコンとすら言わない。ちなみに値段はすっげー高い。
「マイコンとか私わかんない。ゆっちわかるの?」
「いや、あたしもわかんないけどさ! てかあたしが言いたいのはマイコンとかじゃなくて、木! そう駐車場脇の木のことよ! 実はね、あたしも願いかけたんだ」
「へえ、何願ったの?」
「島本くんと……その」
と、ゆっちが一転して言葉を濁し、ちょこんと席につく。
「あれ? でもゆっち島本くんと付き合ってたじゃん」
「最近ちょっと倦怠期で」
「倦怠期って……まだ付き合って一ヶ月も経ってないじゃん」
はええ! 早すぎだよそれ!
「どうも島本くん。あたしをたんなるサセコだと思ってる口があんのよ」
「サセコ? そりゃひどいね」
サセコ。意味は――お兄ちゃんは知らなくていいよ。ピュアでいてね。
ちなみにこの隠語、結構歴史あるんだ。ま、今は使わないか。死語だね。多分。
「だから木に願ったの。試練と一緒に」
「試練って?」
「取り敢えず、バスや電車じゃなくて自転車で学校に通えたらって念じたけど」
「ゆっちの家って確か二十キロくらいだっけ」
遠いなー。
「そう。だからと思ったんだけど」
しゅんとなるゆっち。なんか可哀想。
でも、そんなゆっちに対し今まで黙っていたみーちゃんがもぐもぐと咀嚼していたプチトマトを呑み込むと、嘆息まじりに、
「ゆっち……それ、多分無理」
そんな冷酷極まる一言を炸裂させた。
「どうしてよ!?」
がばっと再び身を乗り出すゆっち。
「だってあの木。簡単な試練じゃ願い叶わないようになってるらしい。だからみんな失敗してる。弓田の場合。四十キロのダイエットに成功したらって念じて成功させてる」
なんだみーちゃん詳しいじゃない。悪い子だなー。
それにしても四十って……。弓田どんだけ頑張ったんだよ……。ぶっちゃけそのエネルギーを勉強に向ければどっちにしろ一位も夢じゃなかったような。
「四十って……それじゃ、あたしは……」
がくりと肩を落とすゆっち。
そしてそんな彼女にみーちゃんがばりばりとレタスを噛みながら一言。
「無理」
なんて強烈な子なんでしょう!
で、ちなみに花梨はというと。
「ふーん。簡単な試練じゃ叶わないんだ」
冷静だった。でも私は知っているよ。その心の中に、とてもとても深いものを抱えていることをね。
だって花梨は、お兄ちゃんと結ばれたくてしょうがないんだから。
それを証明するかのように、ランチが終わったら花梨は一人校舎を出た。校則で放課後になるまで外出は禁じられているのに、結構ワイルドだねこの子。私とは大違い。
でもやっぱり不安なのか、花梨はきょろきょろとしきりに周囲を見回しながら、件の駐車場脇へと向かう。
そこには一本の枯れた木があった。桜の木だけど、別にそんなご立派なものじゃない。他の木々とそこまで大差あるものじゃない。ただ唯一――桜はその一本だけだった。
植えた人が何を考えていたかは判らない。ソメイヨシノだから受粉で育つものでもないし。でも、そこにある一本の桜。それは大きいわけでも歴史あるわけでもない、若木に毛が生えた程度なのに、不思議な神秘性を感じさせた。
オーラ。そういったものがほんのりと木全体を包み込んでいるかのような、そんな錯覚を与えている。
そんな桜の元に辿り着いた花梨は不安そうに周囲を窺うと、ぺたんとそこに膝をついた。
「……誰も、見てないよね? よし、いない」
そして深呼吸。
「すぅ……はぁ」
まるでこれから一大事でも起すかのような決意と不安が全身からにじみ出ている。
すると、それが恥ずかしいとでも思ったのか、途端に花梨は肩をだらりと下げ、自嘲気味に笑みをこぼした。
「はは……私も情けないな。でも、しょうがないじゃん。先輩にはライバル多いんだもん」
まあ、ファンの多くは牽制し合っていて、中々告白まで踏み切る剛の者はいないんだけどね。もっとも割り込んでくる者にカミソリを送るような親衛隊がいるってわけでもない。
だから花梨は勇気を出して一歩前に踏み出せばその思いは成就するのに。なのに――
「えーと、確か……」
花梨は手を組み、ぎゅっと目を閉じて呟き始めた。
「木さん木さん。お願いします。私の願いを叶えて下さい」
それは、どこまでも切実で、どこまでも敬虔な思い。
「先輩と、敷島先輩と結ばれますように」
福音か呪いかすらわからない。たまらない願望。稲妻めいた光と迫力を持ちながらも、ごろごろと鳴り響くだけで雲から顔を出すことのない、不発弾めいた情感。
そんな気持ちを花梨はずっと胸の内にたくわえていて、この桜の前に、その全てを放出した。
「そのために私に試練をお願いします。試練は……そう、バレンタインまでに百メートル十三秒を切れたら。私、一度も切れたことがないんだけど、でも出来たら、私、敷島先輩に告白します!」
今まで一度も成し遂げられなかった百メートル十二秒台。
まさに試練に相応しい難関。
そして、それほどまでに高いハードルを課せて祈るものが――
「だからお願い。木さん。私の願いを叶えて……っ!」
お兄ちゃんへの、たまらない恋心だった。
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