一話 恋のゴール、百メートル

恋のゴール、百メートル(1)

さあ、到着だよお兄ちゃん。どう、気分は? お兄ちゃんの魂を飛ばしたんだけど、変な感じはしなかった? どうも幽霊になるとね、相手の魂を少しだけいじくれるようになるみたい。ほら、悪霊とか質量もないのに人を傷つけたりできるのは、魂に直接攻撃を加えているからなんだって。

 そして魂の世界は質量の世界とはちょっと違っていてね、数多の平行世界とリンクしているの。あの世というのはそのリンク――連環の一つ。だから質量を持つ人はあの世にはいけないけれど、死ぬことであの世に逝けるようになるの。

さて、ここは私の魂が飛んだ世界の一つ。あの世の世界ではなく、ちぎれた魂は別の地球。平行世界へと向かった。それがここ。

 この世界はね、お兄ちゃんと私が住んでいた世界とは少し違うの。

 といっても国は日本だし、別に魔法や超能力が跋扈しているわけじゃないよ。そんなのない、ごくフツーの現実世界。

 まあ、最初だからね、オーソドックスな世界から旅した方がいいと思ったの。だってお兄ちゃん、戸惑うでしょ?

 まずお兄ちゃんの名前から教えるね。お兄ちゃんの名前は敷島徹(しきしまとおる)。といっても名前で呼ばれることはほとんどなくて、みんなからは名字で呼ばれているよ。敷島くんってね。

 あ、一応お兄ちゃんが宿っている体は敷島くんのものだから、あまり乱暴には扱わないでね。今は魂を憑依させて無理矢理間借りさせてもらっているだけだから、扱いには気をつけて。お兄ちゃんはただぼんやりと世界を眺めていればいいんだからね。大丈夫、私が導いてあげるから。お兄ちゃんはゆったりとした気分で、私の声に耳を傾けてねっ。


 じゃあまずこの世界について説明するね。

 ここは私たちの世界でいう昭和のかほりが漂う所。それも末期。大人たちがNHKの株を買えたとか買えないとかの話で盛り上がり、マイホームを建てたいけど土地代が高すぎて絶望にふけ、一方で将来に余裕ぶっこいている大学生が遊び呆けて全盛期。

 街はあちこちに高層ビルが建造され、古い建物は地上げ屋が暴力的なやり口でむりやり買い上げて更地にしちゃう。家の値段が跳ね上がりに跳ね上がっているのにアパートは次々とぶっ潰される。いわゆるバブル。

 お兄ちゃんは高校二年生。だから実を言うとそんな世相はこれっぽっちも影響しないよ。バイトもしてないしね。偏差値は並。代わりにお兄ちゃんは陸上部に所属しているの。短距離走者だよ。国体でも大活躍して将来を嘱望されているホープだね。

 でも学生だからと油断しないでね。学校の常識がお兄ちゃんと私が生きていた時代とは違うの。

 この頃は管理社会。百を超える校則は当たり前で、竹刀を持った生活指導の先生が容赦なく生徒を殴りつける時代。教師の暴力で生徒が死んでニュースになったりもしたよ。

 だから行く先もわからないのに盗んだバイクで走り出したり、学校と七日間戦争しちゃったりする学生も誕生したし、それが受け入れられた。

 また受験戦争全盛期で、ノイローゼで自殺する子も沢山いたの。雪だるま式の宿題が社会問題になったのもこの頃。膨大な宿題にはノルマが課せられ、それを達成できないとどんどん宿題が膨れあがり、内申点に影響する。

 実は中学生、高校生たちにとってはもっとも住みにくい時代だね。勿論土曜は学校だよ。半ドンって言うの。あと現代文を現代国語って言ってた。通称現国。

 さあ、説明は終わり。そろそろ溶け込んでみようか、お兄ちゃん。

 

 ここは学校。校庭だよ。今は二月上旬。肌を穿つ北風が痛みにも似た冷たさを与え、どんよりと濁った雲に蔽われた空を彩るのは工場排煙。耳をつんざくのはビルの建設現場の機材の音と――

「きゃああああ!」「さすが敷島くうううん!」「はやあい!」「いやああああ!」

 お兄ちゃんの走りを遠巻きに見つめる、女の子の集団だよ。

 セーラー服があまり洗練されてなくて野暮ったさを感じるね。スカートの丈もふくらはぎ近くまであって長い。まあ、短いと生活指導の先生に殴られるからね。女の子でも。ほら、ファンの中に一人、頬が赤く膨らんだ子がいるでしょ? あれがそう。

 この時代じゃよくあること。どうお兄ちゃん。百メートルのタイムは十一秒ジャスト。ちょっとナマってるね。十秒台出さないとダメだよ。

 ほら、コーチがくわえ煙草で渋い顔してる。いかにも文句言いたげだよ。この時代はみんな煙草をどこでも吸って、しかもポイ捨て上等だから、副流煙と吸い殻には注意してね。

 あ、ファンの子たちが一斉にタオル持って走ってきたよ。

「お疲れ様敷島くん!」「はいタオル」「敷島くん素敵!」

 さ、汗を拭いてお兄ちゃん。今は二月。しっかり拭かないと風邪引いちゃうよ。この時代は健康管理してくれるトレーナーなんて高校生には与えられないんだから。

 息が上がってるね。どうしたの、喉が渇いたの、お兄ちゃん?

 でもダメだよ。この世界は私たちが住んでいた世界でいうバブルの文明レベルだから、まだ水を飲むとバテるって迷信が固く信じられていた時代。水分補給は御法度なんだよ。水分補給の代わりに与えられていたのは塩分補給。塩の粒を舐めていただけなんだよ。

 でも、まあ。この様子なら逃げられるね。校舎裏に水飲み場があるよ。そこ行けばいいと思う。それに、いつもそうしてたじゃない。

 ほら、校舎裏はこっちだよ。ついてきて。コーチにはちゃんとトイレって言っておくんだよ。あ、ライターで頭殴られた。痛いよね。ごめんねお兄ちゃん。でもこの時代は教師が絶対的支配者として君臨してた頃だから、我慢しなきゃダメだよ。

 バブルで恩恵を受けていたのは、はっきり言って大人の、それも富裕層だけなんだから。あと大学生。この時代はまだ大学進学率は二割台だからエリートだけどね。でも安心してお兄ちゃん。まあ、その頃までこの世界にはいないだろうけど、陸上選手でしかも国体出場経験もあるからね。推薦で大学行けるから。

 さて、外にトイレはないから一旦校舎に入るよ。そして廊下の窓からひょいと抜け出すの。上履きは履かないで。靴を脱いで、それを持って廊下に向かうよ。

 そう、この窓だよ。私はアドバイスすることしかできないから、お兄ちゃん開けて。うん、ありがとう。じゃ、よじのぼって――えいっ。

 はい、校舎裏に到着ですー。さ、水飲み場はこっちだよ。本来は汚れたシャツとかを洗う場所でここで水飲むと殴られるんだけど、今は絶賛部活中でどこも逃げ出せる状況じゃないから大丈夫。ここら辺は計算してあるんだ。そう、これから会う――

「あ、先輩」

 この子、五木花梨(いつきかりん)がね。同じ陸上部に所属し、同じ短距離走者。短く切りそろえた鮮やかな黒髪と丸顔。そしてちまっこい体躯が特徴的なかわいい女の子だね。

 そしてこの子の中に、私の魂の一つが宿ってる。お兄ちゃんの目的はね、彼女の願いを叶えることで私の魂を昇天させること。

 そして彼女の願いが――お兄ちゃん。正確には敷島くんへの恋心の成就。

 服装についてだけど、今は二月だから上はジャージ着てるけど、下はブルマだよ。校則で女子は下ジャージ着ちゃいけないことになってるの。男子は部活中は短パン義務。なんでって、根性を養うためらしいよ。上も練習中は脱がないとダメ。着てると殴られる。あと病欠はダメで、肺炎になっても練習参加義務なんだなこれが。倒れたら根性無しって水ぶっかけられるよ。死んだら事故死扱いされるから注意しなきゃダメ。

 これが昭和なんだよ。なんで私たちが住んでた世界ではブラック企業が問題になっているかわかってもらえたかな? こういう時代の子たちが経営者になったからね。

「はい、水筒です。ポカリたっぷりです。どうぞ!」

 あ、花梨が水筒を渡してくれたよ。ちょうどこの頃発売されたんだ。この頃は学校に自動販売機なんてないから、粉末を水に溶かしたやつだね。受け取りなよ。

 飲んでみて。気持ちいいでしょう。カラカラに乾いた喉と走って失った塩分を両方取得できるスグレモノだもんね!

 ほら、花梨も手を後ろに組んで嬉しそうにはにかんでる。

「へへ、ありがとうございます。でもこれくらい後輩として当然の勤めですよ」


 お兄ちゃん。すぐには戻らないで。花梨との会話を愉しみなよ。

「それにしても今時水を飲ませない学校なんてありえないですよねー」

 花梨がそう言ってブルマのはみパンを直しながら水飲み場のコンクリに背をもたれたね。そして首だけを前にだし、コロコロと笑みを浮かべているよ。

 ほら、頷いて。

「あ、先輩もそう思いますか? ですよねー。ほら、もうこういうのが発売されるようになって、水と塩分を一緒に補給できる時代なのにね」

 花梨がお兄ちゃんの水筒を指刺しながら言ってきた。

「これだから戦前生まれはダメなんですよ。時代が変わったってことがわかってない。いつまでも軍隊式の教育じゃヤングはついてこれないんですよねー。先輩もそう思うでしょ?」

 さ、お返事だよお兄ちゃん。勿論イエスだよね?

 A・イエス

 B・ノー ○

 あ、こら! ノーはダメ! イエスなの! もう一度!

 A・イエス

 B・ノー ○

 だからイエスだっちゅーに! イエスって言うまで何度でも出すよ!

 A・イエス ○

 B・ノー

 そうそう。それでいいんだよお兄ちゃん。あまり私を困らせないで。

「へへ。せーんぱい」

 ほら、花梨が凄く嬉しそうに寄り添ってくれたよ?

 あ、でもめざとくお兄ちゃんの肩に下がっているタオルに気付いたね。

「そのタオル、ファンの子からですか? モテますね、先輩は。きっとバレンタインでも沢山チョコ貰うんだろうな。去年はどうでした?」

 去年は三十個貰ったけど、そう言っちゃダメだからね。

 貰ってないって言ってね。

「え? そんなに貰ってない。嘘ですよー絶対。私わかりますって」

 ほら、会話が続いたでしょ。ここで正直に言ったら花梨悲しむもん。

 てか、ちょっと聞いてみてよ。花梨が今度のバレンタインにチョコくれるかどうかを。

「え? 私ですか。私は別に……」

 あれ? 花梨が俯いて声のトーンも小さくなっちゃった。

 でも。

「別に……」

 頬が、赤いね。ふふ、照れてるんだ。かわいい。

 あ、お兄ちゃんそんなじろじろ見ないであげて。詮索してるみたいだよ。

「ああいや、なんでもないです」

 ほら、拒否られた。

「あ、そろそろ時間ですね。戻りますか」

 花梨の言うとおりだね。ポカリはもうたっぷり飲んだでしょ? あ、空っぽ。よっぽど喉渇いてたんだね。

 お兄ちゃん、水筒を花梨に返して。

「ねえ、先輩」

 花梨が水筒を受け取りながら何か言ってきたよ。なんだろ。

「この話は聞いたことありますか? ほら、うちの学校には大きな桜の木があるじゃないですか。いえ、校門前のやつじゃなくて、駐車場の隅っこにあるやつ」

 あ、この話……。

 お兄ちゃん。この話はこの学校では有名な伝説なの。だから知ってるって応えて。体の敷島くんも知ってる。

「その木にですね、試練と願いを伝えて、その試練をクリアすれば願いが叶うっていう伝説があるんですよ。あ、知ってました?」

 そうそう。それでいいの。

 さて、花梨はというと。

「私? 私は特に信じてないですね。こう見えてもリアリストなので」

 嘘だぁ。だって――

「ええ、リアリスト……なので」

 ほら、遠い目をして、小さく、蚊の鳴くような声でぼそっと言うんだもん。

「あ、今日は何時頃帰れると思います?」

 露骨に話を変えてきたね。まあ花梨らしいかな。かわいい子だから。

 えと、部活はね、多分八時に終わるよ。そう答えて。

「八時ですか? あー、それじゃ間に合わないや。え、いえ、今日のベストテンに田原俊彦が出るので」

 あ、ベストテンってこの頃の人気番組ね。歌番組なの。

 さて、今日のイベントは終わり。魂をそろそろ敷島くんに返そう。いつまでも憑依してちゃ悪いからね。また明日。部活の時間になったら再開だよ、お兄ちゃん。

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