ぴなどれ(3)

 廊下に出て、幽鬼のようにふらふらと覚束ない足取りで屋敷の上をめざす。 

 お兄ちゃんが尾行していることにさえ気付かない様子で、背中から漂うオーラはどこまでも陰鬱としていた。

 そして屋根裏部屋。下級使用人たちの共同部屋だが、まだ仕事時間のため部屋はがらんとして誰も居ない。

 十五はあるベッドの中から真ん中らへんにある、おそらくペアのものと思われるベッドにどさりと倒れ込むと、

「はは……ははは……」

 そんな、乾いた笑いを屋根裏部屋に響かせた。

 まるでようやくはき出せたと言わんばかりの、悲壮な音吐。

「ペーシュさんが言ったのは、こういうことだったんだ……はは」

 でももう遅いし、仮に警告されたからと言ってどうにかなる問題じゃない。

 高等女学院に通えたということは、それくらい昔から既にお父さんはペアの危険性を見抜いていたということだ。

 お兄ちゃんの教育係で幼なじみ。お姉ちゃんでずっと一緒。そして、そこから育まれた透徹なる愛情。

 お父さんにとっては猛烈な劇薬だったに違いない。

 ペアは気付く、ようやく気付く。今までの優しさも、温情も、ご恩も、全てはこの時のためだったことに。

「そうだよね。そりゃあ、そうだよね……旦那様にもお立場ってあるものね。新婚早々余計な女が傍にいちゃ、迷惑だよね……わかってるんだ」

 ペアは何とか自分に言い聞かせようとする。諦めようとする。

「でも……でも」

 彼女が言うように、でも――

「やだよぅ……」

 掠れるような声で、ぎゅっとシーツを握りしめ、体を丸めた。

「あいつと、坊ちゃまと離れ離れになるのはやだよぅ……っ!」

 それは、どうしようもない万感。

 押さえきれない劇場。

 私の魂が宿るに相応しい、耐え難い苦しみだった。

「十年間ずっとずっと、毎日一緒だったあいつと離れるのは……いやだよぉ……」

 そして、それはついに涙となって、嗚咽となって、屋根裏部屋に染み込んでゆく。

「う、うぅ……うえぇ……うええええん!」

 滂沱。どうしようもない滂沱。

 堰を切ったようにあふれ出る絶対的な本音。

「あいつが結婚するのはしょうがないって思ってた! 私とじゃ身分が違うってのもわかってた! でも、だったらせめてお目付役として傍にいられればそれでいいと思ってた! 中級使用人になって、最終的には上級使用人に昇格して、おばあさんになったらあいつの子供のお付きをして! そうなると思ってた!」

 それは凄く痛くて、聞いているだけで胸が締め付けられそうで、私はもう、見ていられない。でも、それでも。

 お兄ちゃんには是非見て欲しいの。ペアの気持ちをわかって欲しいの。

 そして――結ばれ欲しいの。

「もし奥様が出来ても、私は奥様にもお仕えする心の準備くらいあった! 今までとは同じように過ごせないのも覚悟してた! だから今だけ、今だけはお姉ちゃんとして過ごせればいいと思って、あいつが結婚したらちゃんとメイドさんとして礼を尽くして対応しようとも思ってた! 何も結婚してまでいつも通りに振る舞おうなんて、そんな傲慢なこと思ってない!」

 私のためでもあるけれど、それ以上に、ペアのために、さ。

 お兄ちゃん、お願い!

「なのに……なのに!」

 ペアのこの苦しみを、この悲しみを、この嘆きを!

 お兄ちゃんの愛情で、救ってあげて!

「ひどい、ひどいよ旦那様ぁ……う、うわ、うわああああああ! ああああああっ!」

「ああああああああっ! ああああああっ!」

 ずきんずきんと、もう、私耐えられない。

 ペアの苦しむ姿を、一秒だって見たくない。

 なのに、ペアはいつまでも泣き続ける。いつまでも叫び続ける。

「やだよ、やだよぅ! あいつの離れるのだけは、それだけは嫌だよっ! ああああっ!」

 それほどまでに傷つけられた。

 ペアの思いを、尊厳を。過去を、未来を、現在を、ペア・ロークァットの全人格を、木っ端微塵にされた。

 それはもう、痛いなんてもんじゃなかった。

 お兄ちゃん……早く……っ!

 何をためらってるの! 前へ、前へ、ペアの元へ!

「え……坊ちゃま……どうしたのよ、屋根裏なんかに来て。ここは家の者が来るような所じゃないわ。すぐに出て行かないと叱られるわよ」

 あ、気付いてくれた。ペアはぐしゅぐしゅと目元をぬぐい、真っ赤になった瞳を見られまいと窓の方に反らしながら、力なく苦笑した。

「あ、叱られるのは私か……はは……じゃ、怒るわよ」

 お兄ちゃん、前へ!

「……ぁ」

 よし、よくやった! よくぞ抱きしめた! さあ、そのままキスだ!

「な、なによ急に……ダメよ……そういうことしちゃ」

 ペアがお兄ちゃんの肩をぐっと押してささやかな抵抗を試みる。

 そんな抵抗許しちゃダメ、ほら、ペアが何かまくし立ててきたよ。そんなの蹴散らしちゃえ!

「それにあんただって聞かされたでしょ? あんたにはもうすぐ婚約者が出来るのよ。こんなことしちゃ……んんっ!?」

 よし、よくやったお兄ちゃん!

 ここで必要なのはペアの泣き言を聞いて慰め合うことじゃない。略奪することだよ!

 世の中どうにもならないことばかり。現実はいつだって逆風。でも、それでも、歴史は一部のパイオニアたちの暴走によって少しずつ道を切り開いてきたんだ!

 王侯貴族の腐敗を止めるために共和国を設立したり、民衆の権利を確立するために普通選挙を実施したり、女性の地位向上のために女性参政権を得たり、現実はどうにもならないからと諦めるんじゃなく、打破しようとする。

 歴史はいつだってそうして変わってきた! 今回もそう!

 家柄がなんだってんだよ! 血がどうしたってんだよ! 血球と血漿と血小板の塊に高貴もクソもあるかい!

「…………」

 ペアはお兄ちゃんに唇を奪われたまま、惚けた様子でじっと見つめてくる。

 そう、そのまま身をゆだね、行くところまで行っちゃえ!

 なのに――ペアははっと我に返ったように瞳に光りを宿らせると、どんっと強く突き飛ばした。

 そして身をきゅっと縮めながら、

「坊ちゃま。……いけません」

 そんな、今まで一度だって聞いたことの無い他人行儀な言い回しで、お兄ちゃんをたしなめてきた。

 ペア……あんたって子は……。

 お兄ちゃん、もうこれは仕方ない。ペアからの告白なんて待つ必要はないよ! 言っちゃえ、好きって、愛してるって!

 さあ、ペア、これでどうだ!? これで決意してくれるか!?

 いや、ペアは両手を前に汲んで、深々と頭を下げてきた。

「私のことをそこまで思って頂けたことには深く感謝いたします。今まで沢山してきました非礼の数々、どうかお許し下さい。ですが坊ちゃまには相応しい方がいらっしゃいます。その方に申し訳ありません」

 この、分からず屋め! お兄ちゃん、もう一度キスを!

「ですから、もうこのようなお戯れは……むぐっ!?」

 ペアに教えてあげて。相応しい相手ってのは、心が満足できる相手ってこと。そして将来において、幸せを分かち合える相手ってこと。

 そしてそれは、ペア以外にあり得ないんだよ!

「……あんた。ぷはぁ!」

 ねとっとペアとお兄ちゃんの唇に透明な橋がかかった。

「何すんのよ! 人がせっかく最上級の礼儀を尽くしてあげたってのに!」

 ペアが顔を真っ赤にし、瞳をうるわせながらも激昂した。

 最上級? 何が最上級だ。最低も最低。お兄ちゃんの心を踏みにじる、途轍もない慇懃無礼だよ!

 お兄ちゃん、負けないで。もっともっと押すの! 好きって言うの! 私の……ううん、ペアのために!

「え……な、なによ……坊ちゃま……あんた……」

 お兄ちゃん、聞いて。そんなにお兄ちゃんと結ばれるのが嫌なのか。本当に、心の底から、絶対的にお兄ちゃんは嫌なのか。もし首を縦に振ったら諦めよう。

 でも――

「う、うるさい! しょうがないでしょ! だって、旦那様が決めたことだもの! 逆らうことなんて、できるわけないじゃない!」

 よし、やっぱりそうだ。ペアはお兄ちゃんが嫌いなんじゃない。ただ諦めただけだ。

 なら、大丈夫。そうだ、お兄ちゃん。ペアに坊ちゃまって呼ばせるのをやめて。恋人にそんな言い方はしないでしょ?

「あんた……え? 名前で?」

 ペアが意気を消沈させ、視線を落とす。

「……でも」

 お兄ちゃん、ペアの両肩をぎゅっと掴んであげて。そして熱い眼差しを送るの。

「いいの?」

 ほら、ペアが視線を合わせ、真っ赤な頬に涙を一滴落としてくれた。

 うんって、頷いて。

「……リーク。でも、そんなことして、ダメよ。リークには将来があるわ。輝かしい未来が。それを私みたいな孤児あがりのメイドなんかのためにドブに捨てちゃ……」

 ドブ? ドブってのは煌びやかな牢獄で愛情の残骸を切なそうに撫でながら、溜息まじりに好きでもない相手を喜ばせるために嘘に嘘を重ねる日々のことを言うんだよ。

 正直になれない。本音も言えない。ずっと仮面を被って、魂を縛り付けて、死ぬまで五十年も六十年ももがき苦しむ生活のことなんだよ!

 お兄ちゃん、この分からず屋にそう言ってあげて!

「は、はは……そんなこと、真顔で言う?」

 勿論だよね、お兄ちゃん!?

 さあ、ペアの気持ちを聞かせて貰おうよ。

「わ、私の……気持ち……」

 ペアが両手をぎゅっと握り、視線を逸らす。

 でもダメ。お兄ちゃん。ペアの顔を優しく掴んで、ぐいっと戻して。

 泣いている。震えている。でも、言わなきゃダメ。絶対に言うまで許しちゃダメだよ。

「そんなの、決まってるじゃない」

 ちゃんと口で言わせて。しっかりと、ペアの心の底にたゆたう、どうしても言いたくて、でも言うことが出来なかった、真実の福音を。

「好きよ! あんたが好きよ! どうしようもなく好きよ! でも、でもしょうがないじゃない!」

 ようし、言った! それでいいんだよ。

 お兄ちゃん。古今東西おうちが許さない恋愛結婚を成就させる方法は何か知ってるよね?

 そう――駆け落ちだよ!

 お兄ちゃんはペアと一緒に森を突き進み、荒野を抜けて広い世界に飛びだそう!

「あ……あんた、本当に――荒野をめざすの?」

 そう、大丈夫。お金ならある! お兄ちゃんの部屋にある貴金属を売り払えば当面の生活費くらいは大丈夫。この時代は貧富の差が極限に達しているから、お金持ちは一生贅沢しても使い切れないほどのお金を持っている。その一部さえあれば貧しくても生きていける!

 固定資産税をどれだけ取られるか想像もつかない巨大な邸宅に、何十人もの生産性のない人間を雇って、連日パーティやら何やらで金を湯水のように使って、屋敷のあちこちに国宝級の美術品を展示して、それでも痛くも痒くもないほどの資産を持っているロータスルート家だ。日本の金持ち連中とは次元が違う。

「で、でもそんな……そんな……」

 ペアはまだ抵抗する。おそらく、その抵抗もまた彼女の本音の一つ。

 でも、その抵抗の先には何が舞っていると思う? ペアとお兄ちゃんは引き離され、未来永劫会うことが出来ないんだよ。

「う……」

 それでも、それでもためらうペア。あーもう、ほんといい子すぎて困る!

 何!? お兄ちゃんの将来のために身を引くとでも言うの!? 冗談言わないでよ! 好きだからこそ好きな相手を破滅させたくないと。ほー、ご立派な覚悟だね。だったらそれはこっちにも言えるよ。

 お兄ちゃんは、ううんリークはペアが好きだ。どうしようもなく好きなんだよ。だからペアが不幸になる未来なんて、耐えられない!

「あんた……本気?」

 もちろん! お兄ちゃん、もっと力強く頷いて!

「……そう」

 お、ペアの様子が変わった。なんかほっとしたような、呆れたような、ちょっとだけ複雑な、微苦笑。

 その果てに、ペアは遠い目をして窓を眺めながらぼそっと。

「そう……本気、なんだ……」

 お兄ちゃん――あ、なんだ本気って私がお願いする前に言ってくれたんだ。ありがと。

「はぁ」

 ペアの深いため息。全てに決着がついた。ラストゴング。

 その果てに、ペアは微苦笑とは違う、まるで満開の桜のような明るい微笑みを持って、

「いいわ、わかったわ。付き合ってあげる。だって私は、あんたの教育係ですものね。最後まで、付いてあげる」

 そう、言ってくれた。

 それと同時にペアはお兄ちゃんの手を取り、ぎゅっと強く握りしめてきた。

「いくわよ、坊ちゃま。あ、違ったわね。ご主人様? ううん、違う」

 首を振り終えると、ワンテンポ間を置いて。

「リーク」


 かくして、即座に駆け落ちは実行に移された。

 手にしたのはトランク二つ。二つともペアが持つと言ったけど、これからは対等な関係。共に持つのは一つずつだ。中には衣服とわずかな生活用品、そして――宝石を詰め込めるだけつめておいた。ダイヤ、ルビー、サファイヤ、エメラルド……特に高く売れそうな物ばかりだ。多分日本円にして三億円から四億円くらいにはなりそう。

 それだけあれば一生暮らすことだってたやすい。

 あとは愛を育むだけだ。

 広い広い庭園を抜け、鬱蒼と茂る森に入る。既に昼を過ぎ、森に入った途端強烈な闇が視界を支配しだす。

 道は一応獣道があるが、あまりにも心許ない。いつ夜行性の凶器が入り込んでくるかと思うと恐怖で身がすくみそうになる。

 なのに、ペアは走りながらも気丈に笑ってくれていた。

「それにしても、リークも結構やるときはやるのね」

 そりゃそうだよ。ペアのため、そして、私のためだもん。

「あは、こんなの初めて」

 そりゃそうだろうね。私たちだって初めてだよ。さっきの世界で走ることだけは当たり前のようにやっていたけれど、こうして駆け落ちするなんてさ。

 恐怖が体中を蝕んでいるはずなのに、どうしてだろう、胸がときめく。心が躍る。

「屋敷の外、学校の向こう側、こんなに遠くまで来たのは初めてだわ」

 遠い? 遠いのかな。それすらわからない。ただ獣道を突き進んでいるだけだ。森の先には荒野がある。これまではわかっているけれど、いつ抜けるのかわからない。

 ひょっとしたらのたれ死ぬかもしれない。

 素直に公道を通って街をめざした方が賢かったろう。

 でも近辺の街はロータスルートの息がかかっている。見つからないように突き進むためには森から荒野に行き、誰も来ないような農村へ行かねばならない。

 そして農村で宝石を売って懐柔し、そこには定住せず、馬車を借りて駅に向かい、最終的には港をめざす。外国へ旅立つためだ。勿論パスポートは入っている。

 そのためには、まずは荒野を、だ。

「荒野をめざす、か。バカね、あんた」

 そうだね。そうだろうね。

 でもバカじゃないと、駆け落ちなんかできないよ。そして駆け落ちは、凄く幸せ。

「いや、私もか……はは、なんか、楽しいわ」

 ペアも同感のようで、コロコロと表情を変えて嬉しさを表現してくれる。

 さあ、森の出口までは三十キロ。大丈夫。この獣道はそこまで続いている。その先からは荒野だ。嵐のような冷たい風が絶えず吹きすさぶ、孤独な楽園。

 と、背中から――音。馬蹄の嫌らしいほど心地よい、音。車輪。がらがらとこれまた吐き気のするほど気持ちのいい、音。

 それはまるで風船のようにどんどん大きく膨れあがり、臨界にまで達したところで、人の――声。

「そうか、楽しんだか」

 その主は、言うまでもなかった。

 ぴたりと、ペアとお兄ちゃんが足を止め、振り向く。

「っ! だ、旦那様……」

 後ろにあったのは馬車だった。馬車は止まり、馬を操縦していたお付きがうやうやしく輿のドアが開き、すたんとお父さんが着地する。

「馬車を用意しておいてよかった。夜になる前に捕えておかんとな、危ない。リーク。貴様。自分が何をしたかわかっているのだろうな?」

 その声は、どこまでもドスが利いていた。

「だ、旦那様……っ!」

 ペアの顔が蒼白になる。トランクで顔を蔽うとするが、そんなものなんの意味も持たない。

 お父さんは一歩、また一歩と近づいてくる。

「ペア。よもやお前が裏切るとはな。そんなに、リークから離れたくなかったか」

 声には明らかに殺意めいたものが宿っていた。

「……っ!」

 よろよろと、ペアが後退する。その距離を詰めるようにお父さんが前へと踏み込む。

「迂闊だった。二人の思いがまさかこれほどまでに強かったとは。二人の仲が相当に密接であったことは知っておったが、もっと早くペアには相手をあてがうべきだった。リークの元服まで待った私の失策よ」

「だ、旦那様……そ、それは……」

「言い訳は聞かん。ともかく、戻って貰うぞ」

 有無を言わさぬ高圧的な物言い。完全なる支配者としての、圧倒たる威厳を備えた音吐。

「う……」

「返事はどうした?」

 それに逆らうことは――

「は、はい……旦那様」

 ペアには、できないことだった。

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