恋のゴール、百メートル(4)
もっとも、宝石なんていうものは価値があるだけの石ころでしかない。
石ころなんて何個集まっても何も起こせない。
それを証明するかのように、二月十四日。運命の日を迎えても尚、花梨は十三秒を切ることが出来ないでいた。
「ついに来てしまった……リミットの二月十四日が」
授業を終え、体操着とブルマに身を包んだ花梨が体を震わせながらグラウンドへと足を踏み入れる。昭和のかほり。陸上専用のものではなく、何の変哲もない土塊の共同グラウンド。白いチョークで引かれただけの簡素なトラック。
強い北風が花梨の前髪を棚引かせ、穿つような空気が言いようのない緊張感を与える。
「なにぶつくさ言ってんの?」
それを破砕させるようなゆっちの声。あ、今日はついてきたんだ。
「あ、ゆっち。いや、今日はほら、バレンタインなんだよね」
目を泳がせ、もじもじとする花梨。
対照的なゆっちはずいっと鞄を突き出した。
「そだよ。だからあたしだって、ほら、島本くんのためにチョコ用意したんだから!」
おそらく中にあるのだろう。なんせこの時代、そうそう表に出せるものではないから。校則的に考えて。
「でも先生に見つかったら大変だよ? ほら、今日はもう最初から先生たち狙いつけて持ち物検査してるじゃん」
この頃は学校は管理施設。生徒の自主的な価値観なんてのは一切認めず、大人の価値観を子供に強要して、潰れるまで教育する。そういう時代なんだよ。教師の暴力が社会問題になっていた時期でもあってね。失明したり死んだりした生徒もいるんだ。
「大丈夫大丈夫。こういう地下活動的なことは先生たちより生徒のあたしらの方が詳しいのさ。ちゃんと極秘ルートがあるのよ」
でも生徒たちだって賢い。教師たちの横暴なんかに負けてはいない。隙を穿ち間を抜き、こっそりと悪さをしていたものさ。
だからこそ、行く先もわからないのに盗んだバイクで走り出すことに人々は惜しまない拍手を送ったんだけどね。
「へえ……」
花梨はゆっちの話を聞き、惚けたような様子で感嘆の声を漏らした。
「てか花梨はチョコ用意してないの?」
「実は……」
すっと、バッグを突き出す。ゆっちが受け取り中を見ると、おおっと大きな声を上げた。
「なんだあんじゃん! でもよく裏ルート知らないで校門抜けれたね。今日の持ち物検査は半端なかったのに」
「ほら、私陸上部で朝練あるから」
「あ、なるほど。でも隠しといた方がいいよ。あたしの知ってる場所貸したげる。で、それ先輩に渡すわけ?」
「え、い、いや……それは」
花梨は目を泳がせた。ほんと内気というか、積極性がないというか、勇気を出して渡してしまえば、貴女の願いはすぐに叶うのに。
そのことはゆっちにもわかっていたようで、はぁ、と思い溜息をついて、首を軽く振った。
「それしかないっしょ? わかってるわかってる。いやー、今が二月でよかったわ。寒くてチョコが溶けない」
「はは……」
苦笑する花梨。全体的に複雑そうな気持ちを携えているのがわかる。
だって――
「でも、渡せるかどうかは……今日の百メートルにかかってる」
十三秒を切らない限り、花梨はお兄ちゃんにチョコを渡せないんだもの。
もはや意固地とも思えるほどの信念。それによって生まれる気合いと根性。
たゆまぬ情感が込められた強靱な精神力こそが、花梨に残された、最後の希望なのだ。
「絶対に、絶対に十三秒切るんだ……っ! そして、先輩に告白するんだ!」
でも、でも――
案の定というか、最初と中間の二度のチャレンジは失敗。十三秒の壁はどこまでも高く、そして険しかった。
いや、わかっていた。だってそうだよ。筋力って、そんなすぐに育つものじゃないもん。フォームを矯正してもそれに見合ったパワーを発揮出来なきゃ意味なんかない。
そして小柄でどちらかというと華奢な花梨には、そのパワーが圧倒的に足りていないのだ。だからどれだけ軸のぶれないフォームを維持しても、広いストライドに体が追いつかない。
それでも、それでも花梨はくじけなかった。
二月十四日、午後八時。部活終了の時間だ。そしてこれこそが、花梨にとって、最後のチャンス。
「夜八時か……よし、ラストチャンス! ……まだ、一度も十三秒切ってないけど、大丈夫! 私、本番には強いもん!」
気丈にそう言い聞かせているが、ああ、でも。奇跡が起これば……。ううん、起こって欲しい。もはや私のためなんかじゃなくて、花梨のためにも。
「そういえば先輩は……うわ」
あ、花梨がお兄ちゃんに気付いた。そして驚きに目を丸くしている。
「先輩、どうしたんですかそれ!?」
理由は、えーと、まあ。うん。チョコです。その数四十五個。この時間になれば教師達も帰宅準備に追われていて、取り締まりをしなくなるから晒し放題なのだ。ある意味で品評会ともいえるんだね。
さて、お兄ちゃん。なんて答えようか。まあここは下手に嘘を言わず、素直に貰ったって答えればいいかな。
「え? 貰った? いや、いくらなんでも貰いすぎですよ! そんなに食べたら鼻血出ちゃいますよ。てか、先生に見つかったら怒られますって」
ですよねー。お兄ちゃん。そのチョコ取り敢えずバッグに……って入らないよね。どうしようか。
「ああもう! ほんと無頓着なんだから、ほら、ここに隠して下さい。ここなら見つかりませんから!」
そう言って花梨は自分のバックの中から真っ白なエコバッグ……というか手提げ籠を取り出す。何というか、最初からわかってましたって感じだ。
「まったくもう。さて、先輩。今日……というよりこれがリミットですね。明日で中旬になるので」
ひょいひょいとチョコを手提げに放り込みながら花梨が言った。
お兄ちゃん。わかってるよね? 次が花梨の最後のチャンスなんだよ。だから、何か一言言ってあげて。なんでもいいから。
「はい、頑張ります! 根性です! 根性さえあれば何でも出来ます! 少なくとも漫画ではそうでした!」
漫画って……まあいいや。お兄ちゃん。あのね、いや、今はいいか。
このまま花梨が十二秒台を達成できるならそれでいいんだし。
だから今は、せめて祈ろう。
ぞろぞろと帰路につく夜のグラウンド。灯りもかなり減り、教師たちも多くが帰宅した。二月の寒空の中、誰もが暖かいコートやマフラーをその身につけて白い吐息を掌に宿している。
そんな中、不釣り合いなほどに薄着な花梨が今、最後の挑戦をしようとしている。
「木さん……お願い……私に……奇跡を!」
クラウチングスタートに構え、一直線に百メートル先に立つ私たち――もといお兄ちゃんの元へとめざす。お兄ちゃん、タイムウォッチの準備はいい?
「絶対に百メートル十三秒切って、先輩に告白するんだ!」
あ、それは言っちゃダメ!
って、もう遅いか。それに言いたくもなるよね。今まで何度となく挑戦し、その全てに失敗したんだから。
試練をクリアしたら願いを叶える駐車場脇の木。桜の奇跡。その効力はこの最後の一走にかかっているのだ。
「さあ、ラストチャンス……いっせーの」
腰を上げた。来るよ、お兄ちゃん!
「せっ!」
疾駆。花梨の顔つきが変わった。普段の愛らしいものから、夜叉の如き様相に。
まるで肉食獣。得物をハントするかのようなその様は躍動的で、たまらなく美しい。
夜の闇を突き抜ける白い体操着。稲妻めいた速度。最後だけあってその覚悟がもたらす迫力はこの世のいかなる光をも凌駕する。
そんな錯覚を抱いてしまうほどに、素晴らしい走りだった。
「はぁ……はぁ……っ!」
でも――
「先輩……先輩!」
でも。
「お願い……私の願いを……叶えて!」
駆け抜けた花梨が荒い吐息をもらし、白いもやを小さく顔の近くに象る。
「お願い!」
花梨の声はもはや悲鳴だった。お兄ちゃん。タイムは?
「神様……っ!」
花梨も知りたがっているよ。タイムは!?
「はぁ……はぁ! タイムは!?」
タイムは――
「十三秒……二一」
お兄ちゃんが提示したタイムウォッチを見た花梨がそう呟いて、がくりと崩れ落ちる。
ごめんねお兄ちゃん。辛い役目、負わせちゃって。
「な、なんで……なんで……あは、あは、は……は……」
あ、花梨の様子が――
「は――」
瞳から、ぽたりと、大粒の涙がこぼれ落ちて、そして。
「う、うえぇ――なんで、なんでよぉ! なんで切れないのよぉ! うわああああっ!」
滂沱。ダムの決壊。今までため込んでいた、溢れんばかりの万感。
「わあああああああっ! ああああああああっ!」
狂ったような絶叫。ずっとずっと我慢してきた、不安の破裂。
そして破れた夢のカケラを拾うことが出来ない事への、どうしようもない絶望だった。
「あ、あああっ! あああああああ! うわああああん!」
人というものはこれほど強く、激しく、そして悲しく泣き叫ぶことができるということを、私は知らなかった。
それだけ真剣だったということなんだろうけど、私は果たして、お兄ちゃんに対してここまで真剣に思っていただろうか。
そう思うと、なんか彼女の中に魂の一部が宿っていることが、ひどく失礼な気がした。
あれ? お兄ちゃん?
「え……」
抱きしめ……そう、流石はお兄ちゃんだね。
「せん……ぱ、い……?」
お兄ちゃん、もっと強く抱きしめてあげて。この寒い夜を吹き飛ばすほどに、熱く。
「そんあ、こと……ぁ……」
百メートル十二秒台という奇跡は無理だった。でも、まだ終わってない!
花梨がそこまでして叶えたかった願いは、絶対に叶えてみせる。
お兄ちゃん、そのためにどうか、彼女の心を!
訊ねて! 彼女の思いを!
「……はい、私……先輩のこと、好き、でした」
よし! そのまま行っちゃえ! どこまでも、どこまでも先へ!
「でも、先輩はモテるし、私なんか……大したことない、平凡な子だし……釣り合わないし……」
そんなことない! 釣り合うとか釣り合わないとかは周囲が決める事じゃない!
「でも、だから……木に、駐車場脇の木に、願ったんです。バレンタインまでに十三秒切れたら先輩と結ばれますようにって……」
そんなことしなくていい! というか、そんなことするくらいなら最初から普通に進めば良かったんだ!
何故なら、お兄ちゃんは……ううん、敷島くんだって断らないもん! 絶対に!
「試練は、難しくないと叶わないっていうから……」
栄光は難しい試験をクリアしないとでも思っているの? 違うよ。花梨のしたことは、普通に進めばあっという間に辿り着く場所に、やたら遠くて険しい道へ回っただけだよ。
それに気付いて、花梨。
「でも、叶わなかった。試練を、超えられなかった……はは、現実なんてそんなもんですよね。どれだけ頑張ってもどうしにもならないことって、あるんですよね」
気付いて……。
「でも、私は……先輩と……」
あ、お兄ちゃん。どうして花梨と離れるの? 今離れちゃダメだよ。花梨には暖かいぬくもりが必要なんだよ。
「ぁ……な、なにするん、ですか?」
え? お兄ちゃん? そ、そうだよね。この期に及んで花梨からの告白を待つ必要なんかないよね。お兄ちゃん、言っちゃえ。告白しちゃえ。
あれ、どうしたの? 花梨の尊い思いを踏みにじりたくないの? わかったよ。なら……こういうのはどうかな?
「え? 十三秒着るまで誰とも付き合わないって……そんな」
さ、もう一度抱きしめてあげて。
「あ、先輩……」
ぎゅっと。力強く。そしてもう一度言ってあげて。さっきの言葉を。
「あは、それはまるで、予約ですね」
そう、予約だよ。
花梨の未来を祝福するための、予約。
だって花梨は十二秒台出したかったんでしょう? お兄ちゃんのためだけじゃなく、一人のアスリートとしても。
だったらその思い、尊重するよ。
「わかり、ました……じゃあ、その予約、キャンセルしないでくださいね」
もちろんだよ!
「私、十三秒切れるまで頑張りますから!」
花梨がようやく、悲しみを払ってくれた。
そして抱きしめているお兄ちゃんの背に、そっと腕を回した。
あ、雪。ちらほらと、まるで世界を照らす灯火のように二人の周りを囲んできた。
冷たいはずなのに、何故か、とても暖かく見えた。
ふふ、これじゃ次の世界への旅立ちは、当分先になるね。
でもまあ、それもいいかな。あはは。
それから一ヶ月半が過ぎた。
百メートルは例によって三回やり続けているし、その間に陸上部としての練習もこなしているけれど、それとは別に、筋力アップを行なうようになった。
どれだけ正しいフォームを身につけていても、それを維持するパワーが花梨には足りなかったから。
そして――その筋力が身についたのが、もう暖かくなって、日も延びて、桜が満開に咲き誇る頃。
四月が目の前の、三月最後の週。その金曜日。
駐車場脇にある木もピンクの花が咲き誇る。他のどの桜よりも美しく、力強く、そして暖かく。
そんな日の、四時。
「はぁ……はぁ。た、タイムは!?」
二月の頃は薄暗かった。でも今は、まだ明るい。
そんな世界の中で、花梨は駆けたのだ。いつものように。
タイムを計るのはお兄ちゃん。いつもの光景。いつものやりとり。
でも、一つだけいつもとは違っていた。
「十二秒……九九……え? 、じゅ、十二秒台!? ほんとに!?」
何度失敗しても、何度くじけそうになっても、お兄ちゃんはずっと傍にいて、ずっと予約を守っていて、それを受けて花梨はその都度立ち上がって、また失敗して。
でも、でも!
「やった……ようやく、やったぁ……っ!」
ぺたんとへこたれながらも、花梨の口元は緩んでいる。
そしてその双眸には、涙が。
「あ、あはは。もうすぐ私、二年生になっちゃう。随分時間かかったなぁ……はは」
どんなに暗い闇に包まれていても、開けない夜はないということを証明するかのような、完膚無きまでに成立させた、この成就。
「それに今日は何の変哲もないただの三月下旬。別に祝日でもイベントがあるわけでもない、平凡な日」
奇跡を彩るにはなんのドラマチックさもない時期。
それでもいい。いや、むしろ。
「なんか、私みたい」
そう、花梨らしい。
とてもとても、花梨らしい勝利だった。
「でも、それもまた、私らしくていいかな。あは」
と、花梨はゆっくり立ち上がる。そしてぱんぱんとブルマについた土埃を払うと、何故かグラウンドから出てジャージを羽織りだした。どういうことだろ?
「ふう、先輩。その……えと、ち、ちょっと待ってて下さい!」
言うが速いか、花梨は一目散にどこぞへと飛び出してしまった。学校の外であることは確かだ。って、学校の外!? このご時世にそれはヤバいよ! 怒られるよ! ライターで殴られるよ! 花梨かえってこーい!
って、ああ、行っちゃった。どこ行ったんだろうね、お兄ちゃん。
五分。十分。十五分。まだ戻ってこないよ。どうしたんだろ。先生もカンカンだよ。困ったなぁ。
って、あ、戻って来た。なんか凄い疲れてる。そしてその手には何やらビニール袋が。
「はぁ……はぁ……い、今、大急ぎで、駅前のケーキ屋さんで買ってきました!」
何を?
「え? なにをって……チョコに決まってるじゃないですか!」
え……あ、ああ。そうか。そういうことか。私全然気付かなかったよ。お兄ちゃん気付いてた?
「はい、どうぞ!」
花梨がビニール袋からチョコを取り出すと、すっと両手で前に突き出し、頭を下げた。
チョコは何やら高級そうで、どことなくゴディバっぽい。まあケーキ屋さんって行ってたからゴディバではないだろうけど。
でも、それ以上に、その気持ちが、凄く、嬉しかった。
「せ、先輩! わ、わわ、私! ずっと先輩のこと好きでした! 私なんかでよければ、その……つ、つ、つ……付き合って下さい!」
予約。ついにそれを果たす時が来た。
うっ! 私の魂の一部が――チョコのように溶けてゆくのを感じるよ。
見える。花梨の体から青いオーラのようなものが出てきて、天へと昇っていくその光景が!
お兄ちゃん。お返事は?
「あ、先輩……」
抱きしめて、うん、さあ、もういいよね?
キス、しちゃえ。
「ん……ちゅ……んっ……」
それはどこまでも優しくて。
それはどこまでも暖かくて。
本当に溶けてしまいそうなまでに、官能的な口づけだった。
春のちょっと冷たい空気が、ひどく気持ちいい。
桜は今、満開です。
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