恋のゴール、百メートル(3)
以上が、花梨の思い。
花梨とお兄ちゃんが知り合ったのは高校に入ってから。付き合いはまだ一年にも満たない。でも時間の問題じゃなかった。
お兄ちゃんが疾駆するその姿が、ほとばしる汗が、たゆまぬ栄光が、どこまでも花梨には眩しくて、憧憬にも似た感情を四月のうちには宿していた。
それからまるでスパイじみたマネージャーを兼ねて、ポカリや水をお兄ちゃんに渡した。タオルはファンの子がいたから無理だったんだね。実は、手芸部のゆっちに頼んでお兄ちゃんの、正確には敷島くんのイニシャル入りのタオルを作って貰ってあるんだけど、渡せずじまい。
恥ずかしいから。
ただのファンでしかなかった花梨。そしてファンは大勢いる。だからこの気持ちは決して叶わない。花梨はそう自分の中で決めつけていた。
でも、他のファンと一つだけ違う点があった。それが同じ陸上部に所属していて、同じ短距離走者だということ。
花梨はそのアドバンテージをもってファンを出し抜きたかった。ずっと。でも叶わない。内気だから。勇気が出せないから。そしてお兄ちゃんは、そんな花梨の思いに気付いてやれなかった。
このままじゃ花梨は恋心が実ることなく歳だけを重ね、お兄ちゃんの卒業と同時にその思いも消失させてしまう。
それはダメ。絶対に。
だからお願いお兄ちゃん。花梨のために、私のために、この恋心を成就させてあげて!
花梨は決して悪い子じゃない。気配りは出来るし、礼儀正しいし、かわいいし、お兄ちゃんに相応しいいい子だよ?
ね? お願い。花梨の、ううん。私のために、お願い!
A・わかった。○
B・ダメだ。
あ……。
ありがとうお兄ちゃん!
じゃあ放課後に飛ぶよ。花梨の頑張りを見てみよう!
ブルマ姿の花梨。なんていうか健康的だよね。陸上選手の割には肌も白いし、まるで雪のよう。ほとばしる汗がきらきらと輝いて宝石にしか見えない。
でも、その美しさが結果を伴うかというと――
「く……は、あぁっ……!」
それは、違う。
膝に手を当て、肩で息しながらタイムを見て、顔を青ざめる花梨。
「ダメ、全然ダメ。そりゃそうだよ……だって私、十三秒台前半すら毎回出せる訳じゃないんだから」
普通なら無理。普通なら諦める。
でも――花梨は賭けた。自らの思いのために。
「でも、試練は厳しくないと叶わないってゆっちが……くっ、もう一度」
顔を上げ、前髪を棚引かせながら再び戻り、クラウチングスタートを切る。
だが、こういうのは連続でやってもダメだ。疲れて速度はどんどん落ちる。
何秒だろ。あ、ダメ。十六秒だ。ひどすぎる。そりゃそうだよね。できるわけがない。
「ぷ、はぁっ! ダメだ……やればやるほど遅くなる……当たり前だけど、少し休もう」
ぐいっと汗をぬぐい花梨はよろよろと脇へ進む。現在コーチは長距離走者たちの方へ感心を持っていて、花梨に対してはスルーを決めていた。長距離走と短距離走では稼働する筋肉が違うから同じ練習はしないわけだ。
この学校でも短距離走者はマラソンはおろかランニングすら禁止している。
花梨は石段の上にぺたんと尻餅をつき、ふうと吐息を一つ。
二月だけあって息は白く浮かび上がった。もっとも、花梨の体は火照っていて、とても寒そうには感じないのだけど。
「ふぅ……さて、再開」
え? もう? ダメだよ、早すぎる。
「たあっ!」
ほら、ダメだった。
ぎゅっと花梨は悔しそうに唇を噛みしめた。
「……ダメか。ううん。まだ日はある。頑張ろう。次はフォームを少し変えて……」
ダメ。見ていられない。お兄ちゃん、どうする?
行く? わかったよ。でも、ちょっと待って。きっかけを作ってあげる。
はい、時間調節。部活終了までスキップしたよ。
「ぜぇ……ぜぇ。はぁ……はぁ、はぁ」
走りきり、膝に手をついて肩で息する花梨は完全に憔悴しきっていて、とても苦しそうで、悲しそうで、悔しそうだった。
お兄ちゃん、さ、行って。
「あ、先輩。どうしました?」
今の時刻を教えてあげて、お兄ちゃん。
「え? もう夜の八時? あ、あはは。なんだぁ……もうそんな時間」
花梨は顔を上げ、ははっと苦笑すると、そのままぺしゃっと潰れるようにお尻から倒れ込んだ。
でもすぐに起き上がり、ぱんぱんと土埃を払って、あ、お兄ちゃんの手をぎゅっと握りしめてきたよ。
「ああいいえ、何でもないですよ、先輩。さ、帰りましょう」
でも、今は夜。そして二月。凍てつくような寒さが周囲を包み込み、体がぶるぶると震え出す。走ったばかりだから体は火照っているかも知れないけれど、すぐに極寒が全身を支配して、怖気が鳥肌を生み、猛烈な苦痛となって苛むことになるよ。
そんなのダメ。お兄ちゃん、花梨を優しくたしなめてあげて。
「って、ああ、着替えないとダメですね。あはは」
花梨も気付いたようで、クラブ室に駆け出すと、しばらくしてセーラー服姿になって戻って来た。そうそうちゃんと着替えないと風邪引くもんね。
おっと、花梨がまたお兄ちゃんの手を握ってきたよ。疲れているせいか、妙に大胆だね。
「うー、寒っ。雪こそ降らないけど、やっぱり二月は冷えますねー」
街灯に照らされて移る白い吐息は、まるで雲のようだった。花梨も流石にもう火照りはなく、零度近い凍てつくような冬の空気の中で、小さく体を震わせていた。
風邪を引いちゃいそう。お兄ちゃん、訊ねてあげて。
「はい、何か言いました? え? ああ、体ですか? 大丈夫ですよー。ちゃんと汗は拭きました。え? 拭いてあげようって? もうえっちなこと言っちゃダメですよー」
花梨はそう言ってお兄ちゃんから離れ、メッと口元に人差し指をつけ、ウインクした。
その仕草はかわいい。けれど、やはり寒そうだった。
大通りの交差点。帰宅しようとする自動車がライトを照らして突き進む光の通路。建設現場からも工事の音は聞こえず、工場も停止している。世界に聞こえるのは車の音だけ。
そんな冷たい分岐点に到達すると、
「じゃ、私こっちなんで。また明日」
花梨はそう言ってぱたぱたと横断歩道をかけぬけ、手を振った。
お兄ちゃん、また明日だけじゃなく何か言ってあげようよ。そうだね、風邪引かないように早くお風呂に入って寝ようってのはどうかな。
「先輩こそ、夜更かししちゃダメですよー」
あ、嬉しそう。うんうん。やっぱり暖かい世界は深いコミュニケーションからだよね。
花梨はそれからも頑張り続けた。ずっとずっと、一生懸命に試練を突破することを夢見て努力に努力を重ねていた。バレンタインまで、あと五日。
といっても一日に挑戦できるのは三回まで。連続でやったところでいい結果なんか出ないし、それとは別に陸上部での練習も普通に行なわなければならないからだ。
だから挑戦は部活開始早々の午後四時と、休憩時間に入り、体もほどよく温まった午後六時、そして帰宅前の最後の挑戦である午後八時だ。
しかし、それだけのことをしてもなお、ただの一度たりとも十三秒を切ることはなかった。いや、十三秒前半さえもほとんど記録していない。
ぶっちゃけていうなら花梨の実力は地区レベル相当だ。県レベルに達する者は当たり前のように十二秒台をはじき出す。つまり才能がない。
でも、そのお陰でコーチから目を付けられる心配もなく、試練に挑戦できていた。
「はぁ……はぁ……ダメか。切れないや」
お兄ちゃん、ううん敷島くんは十秒台で走れるから花梨の気持ちを完全に理解することはできないと思う。でもお兄ちゃんは、違うよね? だってお兄ちゃんは百メートルを十秒台で走ったことなんて、ないでしょ?
だから花梨の気持ちに気付いて欲しい。彼女の頑張りを理解してあげて欲しい。
そして、その試練の先に願った恋心を成就させて欲しいの。
ずるい言い方かもしれないけれど、私のために。
「はは……どうして? どうしてぇ……色々、やってるんだけどな……どうも根本的な筋力が足らないみたい」
午後六時。本日二度目の挑戦に失敗して花梨はがくりと膝をつき、自嘲気味に笑い、汗を迸らせている。
「でもこればっかりは一朝一夕で身につくものでもないし……困ったな」
バレンタインまで残り五日を切っているから、花梨の胸中は穏やかじゃないだろうね。
「ちょっと、試練がキツすぎたかな……いいや、根性! そう、根性! 遮二無二根性を出せば何とかなるって漫画でもやってた!」
あー、そうだったよ。この時代はまだまだ根性論が根付いてて、気合いで何とかできると思われていたんだったよ。
今じゃそんなことあり得ないってみんな知っていても、この頃は違うんだよね。精神力で何とかなる。そんな神話にも似た幻想を抱いていたんだ。
だからこそ花梨は、こんな難しい試練に挑戦したのかもしれないけれど、ね。
って、あ!
「く……た、あっ!」
起き上がろうとして、花梨が前のめりに倒れた!?
お兄ちゃん、すぐに花梨の元へ駆けて!
「いたた……肉離れは……してない。よかった」
体育座りをしてふくらはぎをさすりながらほっと息をなで下ろす花梨。
でも危ないよ。休ませなきゃ、お兄ちゃん急いで!
「はぁ……はぁ……寒いな。体が冷える。ううん、動けば熱くなる!」
何時代遅れの根性論出してるの! ダメだよ、休まなきゃ!
って、私の声はお兄ちゃんにしか聞こえない……。お兄ちゃん!
「あれ……なんだろ、頭がぼんやりする。あれ、熱くなって……あれ? 寒い? あれ、あれれ?」
え、あ、あれ? 花梨の様子がおかしい。
「わかんない。熱いのか寒いのか、あ、あれ? 世界が……回る」
花梨はぶつぶつと呟いて、目をぐるぐると回しながらそのまま――
「きゅう」
こんどは仰向けに倒れ込んじゃった!
お兄ちゃん、すぐに花梨を保健室に!
「ぁ……あ、あれ?」
あ、目を覚ましたよ、お兄ちゃん!
「あ……先輩。あれ? 私どうして……」
わかってないんだ。自分がどうして倒れたのか。
教えてあげて。
「え? 熱出して倒れたんですか? ああ、あはは、どうりで熱くて寒かったんだ。あはは……あて」
わあ! お兄ちゃん。私がお願いする前に勝手に動かないでよ。もう、小突いちゃったりして、私驚いちゃったじゃない。
まあ、でも。
「す、すみません、先輩……ご迷惑をおかけしました」
花梨には嬉しかったみたいだし、いいか。
そうだね。じゃあお兄ちゃん、どうして熱を出しても部活なんかに出たのか聞いて。理由は私たちにはわかっているんだけど、それでもちゃんと訊ねて。
「え? 何でこんな無茶したかって? それは……その……」
言葉を濁す花梨。部活は熱くらいじゃ休めない? 違うね。
ちゃんと言って欲しい。自分の思いを今こそ。
だって、だって――あまり言いたくはないけれど、バレンタインまでに十二秒台なんて無理だから。だからこそ、今、この場で。花梨には一歩踏み込んで欲しい。
お兄ちゃんがここで告白してもダメなの。『敷島くん』はそんなことしないから。敷島くんは花梨に対して猛烈な恋心を抱いていないって、花梨にはわかっているから。
だからかここでのお兄ちゃんからの告白は憐憫としか受け取れず、結果として結ばれない致命的な一撃になっちゃう。
花梨じゃなきゃダメなのはそこ。
「どうしても言わなきゃダメですか?」
そう、ちゃんと聞いて、お兄ちゃん。
「え? 言いたくないなら言わなくていい? すみません、お気を使わせてしまったみたいで」
って、お兄ちゃん!? どうして聞かないの!? ちゃんと私の指図……じゃなかった。お願いを聞いてくれないとダメだよ!
「でも、その……実はですね」
あ、でも花梨は離してくれる。よかった……。
もう、お兄ちゃんったら。勝手に動いたりしないでね。困るよ。
「私、百メートルで十三秒切りたくて。今まで、一度も出来なかったから。え、ええ。そうです。別にそんな慌てる必要は……まあ、ない、ですよ、ね」
告白は……しない、の?
「でも……私……バレ……こほん。えと、二月の中旬までに切りたかったんです。え? なんで二月の中旬? さあ、ほ、ほら、なんか期限決めた方がやる気って出るじゃないですか。そういうものですよ」
そうか。やっぱり、花梨はいい子だね、本当に。自分に対しても。
どうしても試練を突破して告白したいんだ。できるって、信じているんだ。
頑張り屋さんなんだね。十三秒を切れないならそのまま、ってわけにはいかないんだ。根性がある。でも、それじゃ……。
く……っ、お兄ちゃん。ならせめて、支えてあげて。
「え!? 先輩が協力してくれる!? え、で、でも悪いです……」
花梨が首を振る。まあこれは社交辞令だから、もう一押しで大丈夫だよ。
「ううん、気にしますよ。だって先輩お忙しいじゃないですか。あっ……」
ふらついた。やっぱり熱はそう簡単に冷めないよね。お兄ちゃん、優しく体を支えて。
「先輩……」
火傷しそうなほどに熱い視線。本音はそれでも、口にしない。
いじましいな。お兄ちゃん。取り敢えず花梨を寝かしつけよう。起きてたらいつまで経っても回復しないから。
「すみません。じゃあ、甘えてもいいですか?」
ふう、やっと花梨が布団をかぶってくれた。
こちこちと時計の音だけが世界を支配する。
「目標は二月中旬まで。つまり十五日になる前です。それまでに十三秒切れれば……」
あ、言うのかな。
と、思ったんだけど、花梨は即座に首を振った。
「切れれば……あ、う、ううん! なんでもありません! ごめんなさい、はい」
言えばよかったのに。
そうすれば、こんなことしなくても結ばれるのに。
私、凄いやきもきしてる。
翌日。花梨の熱は冷めてしまった。せめて今日くらい休めばとも思ったけど、残り四日しないし、この時代の体育会系で二日休むなんてありえない。
入院でもしない限り、練習は参加しなければならない。そういう時代。
「ぷはぁ。あーお水美味しい!」
いつもの水飲み場で小休憩。お兄ちゃんはポカリを、花梨は水道の蛇口からそのまま水を。
「って、あ、すみません。先生にバレたら怒られますよね。てへへ」
花梨が後ろ頭をぽりぽりと掻きながらそうはにかむ。
そうだね、せっかく二人きりなんだし、フォーム矯正でもしてあげたら? 大丈夫、お兄ちゃんは知らなくても、敷島くんの体が覚えているから。
この時代の教師は何度も言うけど基本根性論だから、あまり科学的な考察はしないの。いや、するところはするんだけど。少なくともこの学校では腕を振る、前傾姿勢を取るなんかの指導ばかり。現在では効果がないって言われているやり方だよ。だって小学生とオリンピック選手って、ピッチ自体はほとんど変わらないから。
だから速い人と遅い人は才能に対する依存度がすこぶる高いの。
速く走るコツ。それはストライドを伸ばすこと。あ、ストライドって歩幅ね。
だから教えるべきは、歩幅を広めながらも軸が安定したフォームを維持できるようにすること。これだけで人は格段に速くなれる。
もっとも、そのためにはかなりの筋力が必要なんだけど、花梨にはそこまでの力はない。
でも、それでも、このままじゃ十三秒は切れない。だから教えてあげて。
「えーと、こう、ですか?」
そうそう、いいよお兄ちゃん。といっても敷島くんの体の記憶だから、お兄ちゃん自体はあんまり関係ないんだけどね。あ、ごめんね、言い過ぎた。どうも私、口が辛くて。
「なるほど、参考になります」
うん、喜んでくれた。さて、結果はとうと――
「く……ダメか。ううん、今は先輩がついてるんだ。大丈夫。できる!」
花梨は気丈にそう振る舞うけど、やはり一朝一夕に結果は出ない。
フォームはそう簡単に変えられるものじゃないし、何よりストライドを伸ばして軸を安定させるにはそれ相応の筋力を必要とする高等技術。そして花梨の筋力では圧倒的に足らない。
だから、言いたくはないんだけど、バレンタインまでに十二秒台は……。
あ、お兄ちゃん。タオル持ってどうするの?
「って、あ……先輩。え? ちゃんと汗を? そ、そうですね。すいません、ご迷惑をおかけします」
ああ、花梨にね。気が付くんだね、お兄ちゃん。凄い。
でも、それでも――
「できるかな……そろそろ。く……ダメか」
夜八時。最後のチャレンジを敢行。無論、失敗。
そりゃそうだ。できるものじゃない。根性を出せばどんな願いも叶うなら、日本はアメリカに戦争で負けていない。
それでも、ここまで来たのなら、叶えて欲しい。
奇跡を起して欲しい。
告白する。ただそれだけのこと。好きという。たった一言。それだけで花梨の願いは叶うというのに、こんなにも不器用な道を歩んでいる。
でもどうしてだろう。その不器用さがとても、透徹で、崇高で、荘厳に思えた。
「時間が……ない。木さん……お願い……私に、未来を!」
だからそんな花梨の悲痛な言葉さえも、私にはどこか宝石じみて聞こえた。
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