第17話湖で思い出話
深い青をたたえた水の色。透明度が低く、かなり濁っている。しかし汚さを感じることはなく、むしろ美しさを内包しているような色彩的な光を帯びている。
その湖――十六夜湖は僕のお気に入りの高台からも見えるほどの広さを備えている。よく夕日が反射して沈んでいくのを見たことがあるけど、実際に来たことは少なかった。
それは僕が泳げないことも起因している。十六夜湖は泳げる湖じゃないけど、ボートに乗れるくらいの深さがある。その際、もしも転覆してしまったらと考えるとうかうかと乗ることはできない。
まあ臆病者と罵っても全然構わない。君子危うきに近寄らずとも言うじゃないか。
そんなめったに寄らない十六夜湖に来たのは、隣で湖の水をしゃがんで触れている河野ちゃんに誘われたからだ。
河野ちゃんを守ると決めてから、二週間が経った。
まず僕たち――主に梅田先生が動いてくれたんだけど――児童相談所に河野ちゃんの虐待について通報した。梅田先生の知り合いの医師の診断書を添えて、明らかに虐待を受けていることを証明したのだ。
そうしてすぐに一時保護されるはずだったけど、しなかった。何故なら河野ちゃんが嫌がったからだ。
まあ一時保護されるには子ども、この場合は河野ちゃんの意思が原則必要だったので、本人が拒否すれば一時保護所に入所できないのだ。
「知らない人ばかりの場所に行くくらいなら、お父さんのところに戻ったほうがマシです」
そう言われてしまったらどうしようもない。それならばと代替案で梅田先生の家に住むことになった。要は梅田先生が身元引受人になったのだ。
僕の家ではなく、梅田先生の家であるのは、手続きがそのほうが上手くいくのと、いくらなんでも未成年の暮らす家に同居させるのは問題があるし、過ちもあるかもしれないとはっきりと言われた。
仕方ないなと思ったけど、どこか納得もいっていない話だった。過ちなんて犯すものか。
それからは梅田先生が一人で動いたので、僕は関与できなかった。梅田先生が何をしているのか、どのような動きをしているのか、判然としなかった。
おそらくは河野ちゃんの父親から親権や養育権を取り上げるのだと勝手に予想しているのだけど、それもどうか分からない。
一生守るとか言っておきながら情けないことだけど、まだ子どもだと思い知らされることだけど、それでも梅田先生に頼るしかない現状に甘んじるしかないのだ。
「聡くん、君は静ちゃんの心のケアを頼むわ」
煩雑な手続きに追われている梅田先生に僕は改めて頼まれた。
「心のケア、ですか? 僕にそんなことできるんですか?」
不安に思って訊ねると梅田先生は「それが守るってことなのよ」と厳しく言った。
「心を健康にすること。今の静ちゃんに必要なことなのよ。あの子、夜にうなされることが多くて、いきなり飛び起きたりするのよ」
知らなかった。そんなに苦しんでいるなんて。でも考えてみれば当然か。
「あなたは嫌な言い方をすると『経験者』なんだから、上手くトラウマと向き合うように教えてあげなさい」
「トラウマは向き合うものじゃなくて、克服するものじゃないですか?」
「じゃあ聡くんは火に対してトラウマを克服できたと言えるの?」
「……言えませんね」
未だに火を使った料理を作ることができず、精々茹でるくらいしかできない。
「トラウマは一生残るものなのよ。私は叔母さんみたいに精神科の医師じゃないけど、それだけは確かに言えるわよ」
梅田先生の言うことは正しい。人は一度受けた傷を忘れない。特に心に刻まれた傷は治癒することはないだろう。傷というのは恨みとか苦しみとか、マイナスなものを指す。
「できるなら、なるべく外でデートでもしてあげて。楽しい思い出はツラい思い出を軽減してくれるから」
女の子とデートなんてあまりしたことがなかった。いやはっきり言ってしたことがない。
今から思うと、夏祭りぐらいだろうか。それでも二人きりは皆無だ。
だから、僕は河野ちゃんにどこに行きたいかストレートに訊ねた。
すると河野ちゃんは十六夜湖に誘ってきたのだ。そうして僕たちはやってきた。
河野ちゃんは十六夜湖をずっと眺めたり、水を触ったりして、過ごしている。何も喋ってくれない。何も語ってくれない。
僕はそんな河野ちゃんを見ながら、梅田先生に言われた愛情について考える。
はたして僕は河野ちゃんを愛せるだろうか? それと河野ちゃんも僕を愛してくれるだろうか?
僕は愛を知らない。両親はそんなものくれなかったし、義理の両親からももらった覚えはなかった。義理の両親の場合は僕が壁を作ってしまったからだけど。
梅田先生の場合は庇護愛、あきらくんは友愛、吉野さんは親愛を感じるけど、愛情と言ったものが僕にはよく分からない。
愛ってなんだろう? 人を独占したい気持ち? それとも束縛したい欲望? はたまた注目され続けたい心境?
どれも違う気がする。そんな愛は独り善がりだし、何より見返りを求めるものではない気もする。
よく分からなくなってきた。元々僕の頭は難しいことを考えられるようにできていないしね。
ここでもまた無気力な面が出てしまったけど、仕方ない。これも個性というものだ。
「ねえ。さっきから何を考えているの?」
河野ちゃんが不意に話しかけてきた。じっと僕を見つめている。僕は「愛について考えていたんだ」と正直に話した。
「なにそれ。冗談にしては笑えないよ」
冗談じゃなく真面目に考えていたんだけどなあ。でも話がややこしくなるので「うん。実は何も考えていないんだ」と誤魔化すことにした。
「ふうん。田中くんは私と一緒に居て、楽しくない?」
「そんなことないよ。でも何か話してくれないとぼうっとしてしまうよ」
そう言うと河野ちゃんは僕から目線を外して、十六夜湖の湖面をまた見つめてしまう。
「田中くんから、何か話してほしいな」
ふむ。そうリクエストされてしまったら、何か話題を振らないといけないな。
「そういえば、どうして十六夜湖に行きたがっていたんだい?」
お話するなら、高台でも良いと思うけど、何故かここに執着している河野ちゃん。
今思い出したけど、初めて会ったときも十六夜湖を指差して懐かしいって言ってたっけ。
「ここは思い出の場所なの。あの高台よりもずっと。楽しかった思い出がたくさんあるの」
「ふうん。じゃあなんで高台からこの湖を眺めていたんだ?」
すると河野ちゃんは愁いを帯びた表情になった。以前は前髪が邪魔して表情が分かりにくかったけど、最近は分かりやすくなった。
これも付き合いが深くなった証拠だろうか。
「お父さんとお母さんと私でよく十六夜湖の近くでお弁当を食べて、ボートに乗って。楽しく過ごしたの」
お母さんという単語を聞いて、僕はすっかり母親のことを聞くことを失念していた。僕自身母親に対して良い印象を持ち得ていなかったから。
「お母さんは、今どこに居るの?」
僕が訊ねると河野ちゃんは人差し指を上に向けた。それだけで他界してしまったことが分かった。
「私が中学校に入学する前に死んじゃった」
早口で簡潔に言う河野ちゃん。
「……お母さんのこと訊いても、大丈夫?」
これも訊かなければいけないことだと思うから、訊ねたんだ。決して好奇心なんかじゃない。
「うん。お母さんは自殺したの」
湖面が風で揺れている。僕たちの目の前を高校生のカップルが乗っているボートがすっと通り過ぎた。何も考えていなさそうだった。
「そう、なんだ。そうだったんだ」
僕は父親がおかしくなった理由に触れた気がしてきた。
「お母さんが自殺した理由は知らない。でもお父さんが原因じゃない。それだけは知っているの」
河野ちゃんは何の感情も込めずに事実だけを話し始めた。
「お母さんは家で首を吊って死んでたみたい。そのとき、私は冬休みで塾の合宿で家に居なかった。発見したのはお父さんだった」
だから、おかしくなったんだ。自分の愛する人がいきなり死んでしまったら、誰だっておかしくなる。原因を求めたくなる。
でもだからといって、自分の子どもに暴力を振るっていいわけじゃない。それだけは間違っている。
「それからお父さんは人が変わってしまったの。私に対して殴ったりしてたの。この前髪も、お父さんに言われて伸ばしたの」
前髪を弄りながら、河野ちゃんは軽く笑った。
「お母さんに私はそっくりだから、思い出すから、隠せって。そう言われたの」
河野ちゃんは自分の顔が嫌いだから伸ばしていると思っていた。顔の造りが良い人間ほど、注目されるのが嫌だから隠すという話を聞いたことがあるから、そうだと思い込んでいた。
「だけどね、田中くん。私はお父さんのこと、嫌いじゃないんだ」
僕は河野ちゃんの顔を見つめてしまう。信じられなかったからだ。梅田先生から話を聞いていたけど、どこか信じられない気持ちもあったから。だけど実際に河野ちゃん本人からそんな言葉が漏れると信じられない気持ちで一杯になる。
「どうしてなんだい? どうしてそんなことが言えるんだ?」
責めるつもりも詰るつもりもなかったけど、つい言葉が強くなってしまうのを抑えられなかった。
「どうしてって、そんなの決まってるじゃない」
河野ちゃんと僕は目が合った。
「親子だからだよ。それ以外に理由なんてないよ」
そして続けて河野ちゃんは言う。
「親子だから、お父さんの暴力を許せるの。殴られているときは痛いけど、最後にはごめんって謝ってくれるから」
それは歪んでいるんじゃないか。そう口に出てしまいそうだったけど、ぐっとこらえた。
それは言ってはいけないことだ。誰にだって、言ってはいけない一言はあるんだ。
「ここに来たのは、優しかったお父さんを思い出したいからなの」
河野ちゃんは懐かしむように湖を眺めた。
「私は今でもお父さんが改心してくれると信じている。優しかったお父さんに戻ってくれると信じている。だって、最後には優しくなってくれるから」
ストックホルム症候群。梅田先生との会話で出て、後から調べたけど、そんな用語が河野ちゃんの助けになるとは思えない。現象に名前があっても、それが何の救いになるんだろう?
「ねえ。田中くん。田中くんはお父さんが元通りになれると思う? それと私が離れて、ますますおかしくなったりしない?」
二つの重い質問だった。
「僕は精神科医じゃないから、はっきりとした答えは出せない。良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。だけど、一つだけ言えることがあるよ」
僕は慎重に言葉を選んで言おうとする。
「一つだけ言えることってなあに?」
僕は河野ちゃんに嫌われる覚悟をした。
「河野ちゃんと父親、このままずっと二人で居たら、不幸になるだけなんだ」
遠くのほうでボート遊びをしている若者の声が聞こえる。
河野ちゃんは傷ついた表情で僕を見つめる。
「ごめん。河野ちゃんの話を聞いて、その結論を出さずにはいられなかった。だって父親は河野ちゃんに依存しているようにしか見えない。思えないんだ。そんな関係は良くないと思う」
また河野ちゃんは父親に依存している。それも良くないんだ。
別に依存が悪いわけじゃない。だけど暴力と流血でつながる依存は未来がないんだ。
僕は河野ちゃんに言わなければいけなかった。たとえ嫌われることになっても。
「河野ちゃん、僕は二人の関係を間違っているとしか言えない。互いに傷つくだけなんだ。それを見過ごすわけにはいかないんだ」
すると河野ちゃんは僕の顔を不思議そうに見つめた。
「田中くん、どうしてツラそうにしているの?」
僕はハッとして顔に触れた。表情が険しくなっている。
それから僕は何も言えなくなってしまった。河野ちゃんも何も言わなかった。
夕日が沈んでいくのを僕たちは黙って眺めた。何か言えば、ツラいのが増していく気がしたから。
辺りがすっかり暮れてしまう前に、僕はようやく言えた。
「さあ。戻ろう。夏でも冷えてしまうよ」
河野ちゃんは黙って頷いた。
僕たちはどちらが言うまでもなく、自然と手を握った。河野ちゃんの手は柔らかくて小さかった。考えてみるとまだ中学生なんだ。
そんなか弱い中学生に頼りない高校生は何をしてあげられるんだろうか。
人を守る実感を僕は未だ得られていない。こうして寄り添うことしかできない。
だからせめてまたここに一緒に来てあげようと思った。父親の代わりになれるかどうか、分からないけど。
しかし、それが叶うのはしばらく経ってからで、さらに言うなら、それが河野ちゃんとの別れになることになるなんて、今の僕には知る由もなかった。
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