第4話学校の存在理由
僕が高台に訪れたのは、河野静に出会ってから五日後、時刻は放課後の夕暮れ近くだった。
まあ毎日来ている訳ではないけど、ここまで間が空いてしまったのは久しぶりだった。
その理由としては期末試験があったからという学生らしいものだった。勉強は普段からしているけれど、試験は体力と精神力を思いのほか使うので、その温存のために、五日間は寄り道せずに家に帰っていた。
こういうとき、特待生のあきらくんが羨ましい。試験の一部が免除されているのに加えて、試験日が大会と被っているときは後回しされる特権を持っているのだ。
その分、大会で結果を出さないといけないから、プレッシャーが半端ないと思うけど。
それにしても、授業を真面目に聞いていないくせに、試験を真剣に取り組むのは些か矛盾している気もするけれど、真面目に取り組んでいないからこそ、試験ぐらいは良い成績を取らないといけない心理が、無気力な僕にもあるのかと思うと自分でもちょっとおかしかった。
ともあれ、久しぶりに高台に来た僕が一番に驚いたのは、あの少女が居たことだ。
あの少女――河野静だった。
ベンチに座って、十六夜湖あたりを見つめているみたいだ。
俯いていて、表情は窺えなかった。前髪が以前と変わらずに顔を隠すよう長く伸ばしている。
そして服装はセーラー服だった。学校が終わってからここに来たのかもしれない。夏だというのに、まだ長袖のセーラー服だった。僕も学ランを着ているから偉そうなこと言えないけど、暑くないのだろうか。
どうしようかと悩んだけど「河野静さん」と結局は声をかけてしまった。
河野静はゆっくりと僕のほうへと振り返る。
「……久しぶりね。五日ぶりかしら」
正確に覚えていると分かって、記憶力が良いのか、はたまたずっと覚えていたのか判然としないけど、とりあえず僕は「うん、そうだね」と無難に返して、隣に座った。
「君はどのくらいぶりでここに来たの?」
訊ねると河野静は「毎日来てた」と短く答えた。
「えっ? 毎日? 毎日ここに来てた?」
「そうよ。毎日来てた」
「ここがそんなに気に入ったのかい?」
「ううん。そうじゃないの」
「じゃあどうして?」
すると河野静は僕をじっと見つめた。
「あなたを待っていたの」
一瞬、意味が分からなくて、それから次第に理解した。
「僕がここに来るまで待っていたのか? いつ来るのか分からずに?」
確かに連絡先も知らない僕を待つにしてはそれしかないけど、まさか毎日待っているとは夢にも思わなかった。
「だって、あなたに会いたかったから」
河野静は目線を外して独り言のように呟いた。
「だって、ここに来てから友達になってくれたの、あなたが初めてだったから」
なんて返せばいいのだろう。僕も友達が一人しかいないけど、それでも居ないってわけじゃない。学校には梅田先生も居るし、味方が居て、決して一人ではない。
だけど、この少女には誰も居ないんだ。
「君の学校――ああ、ごめん。君は一体何才なんだ?」
少女のことを何も知らないのだから、この質問は当然訊くべきことだった。
むわっとした風がふき、河野静の前髪を揺らした。整った顔から大きな目が見え隠れする。一般的に見て可愛い顔をしているのに、なんだかもったいない気がした。
「私は、十五才になったばかり」
「へえ。君は中学生なの?」
「あなたもそうでしょ?」
「いや、高校二年生だから」
背が低い童顔は実年齢よりかなり下に見られる。この前も中学生に間違えられた。
「そうなの? じゃあ『センパイ』って言ったほうがいいの?」
「……センパイじゃなくていいよ。普通に名前で呼んでくれればいいさ」
同じ高校ならいざ知らず、中学生にセンパイと呼ばれるのは、むずむずするというか、しっくりこない気もする。
それに河野静のキャラにも合わない気もしたりする。なんていうか、年下扱いできない大人のような雰囲気を醸し出しているのだ。見た目は少女であるのに関わらずにだ。
だから僕は自分の名前で呼ぶように頼んだ。そのほうが話しやすくなると思ったから。
「そう。じゃあ田中くんって呼ぶようにするわ」
まあ名字にくん付けは妥当なところだろう。馴れ馴れしくないし、適度な距離感を表しているし。
「うん。それでいいよ」
「田中くんは――私のことをなんて呼んでくれるの?」
さっそく僕のことを『田中くん』と呼んだと思えば、至極当然なことを訊ねてきた。
うーん、梅田先生ぐらいしか異性とあまり関わっていなかったから、どう接すれば良いのか分からない。ましてや年下の女の子だ。下手な呼び方は今後の人間関係に支障をきたす。ここは慎重にならねば。
ある程度親しみを持たせつつ、適切な関係を築く呼び方……あれ? 意外と難しいぞ?
「…………」
沈黙しているけど期待されているのが分かる。なぜならそんな眼差しを前髪の隙間から感じるから。
「それじゃあ……河野ちゃんで」
名字にちゃん付けという無難な選択をした。名字呼びだけど『ちゃん』を付けることでそれなりの親しみを覚える効果が望まれる。
「河野ちゃん、河野ちゃん……」
僕の言葉を繰り返すように呟く河野静――いや河野ちゃん。なんだか嬉しそうだった。
表情が見えにくいから嬉しそうかどうかは空気を伝わって分かるくらいの話だけど。
「久しぶりにそんな風に呼んでもらえたわ。ありがとう田中くん」
その久しぶりの度合いで今後の付き合いも変わるのだけど、敢えて深くは訊かなかった。
「えっと、河野ちゃんの学校って、なんて言う中学校?」
日本語が不自由な訊き方をしてしまったけど、これはちょっと照れてしまった結果だった。女の子と平和的に会話するのはそれこそ久しぶりだった。虐めが始まったのが今年の四月くらいだから、約三ヶ月ぶりだ。
「私が通っているのは、私立十三中学校よ」
私立十三中学校は世間知らずで世情に疎い僕でも知っているような、地元で有名な私立中学校である。
「へえ。河野ちゃんは優秀なんだね。あそこの入学試験はかなり難しいって聞くよ」
とりあえず頭の良さを褒めてみると、河野ちゃんは首を横に振った。
「私は、転入生だから、入学試験は受けていないの」
いや転入試験のほうが入学試験よりも難易度が高い気もするけど、深くは訊かなかった。
「田中くんは?」
「うん? 僕の学校? 十字ヶ丘高校だよ」
訊かれたので答えると「そうなんだ」とどこか感心した様子だった。
「そんなに偏差値が高い高校じゃないから、自慢にならないけどね」
「……学校は楽しいの?」
「へ? えっと……」
河野ちゃんの質問に僕はすぐに答えることができなかった。素直に楽しくないって言えばいいのに、それができなかったのだ。
「私は楽しくない」
きっぱりと河野ちゃんは言う。
「みんな勉強ばかりで、他人のことを見ていないの。表面上は仲良くしているけど、順位争いで余裕なんか無いの」
順位か。僕はそれを気にしたことはなかった。十字ヶ丘高校は生徒のプライベートを無視して掲示板に順位が張り出されると聞いているが、一回も見たことはなかった。成績が良ければ順位なんてどうでもいいのだ。
「ねえ田中くん。学校って何のためにあるの? 何のために行けばいいの?」
おそらくだけど、河野ちゃんは転入生だから周りから壁を作られているのだろう。それは僕が経験している虐めとか差別とかそんな暗いものではなくて、子ども特有の『どう接すればいいのか分からない』という集団的人見知りの結果だろう。
まあ推測に過ぎないけどね。
「そうだね。僕は――」
僕の考えを述べたらどんな反応するだろうか。そして僕は本音で話したほうがいいのか。いろいろ考えが巡っては消えていく。
結局僕は、自分の思ったとおりのことを話すことにした。
「社会に出る前の矯正施設だと思っている」
「矯正施設? 何を矯正するの?」
「思想と道徳と倫理さ」
僕は河野ちゃんを見つめながら、つらつらと語り始めた。
「たとえば人を殺してはいけないとか自殺をしてはいけないとか。そんな当たり前のことを学ぶことで社会に出て適応させることを目的にしているんだよ」
「そんな当たり前のこと、学校じゃ言ってないよ?」
「そこが学校の素晴らしいところであり、恐ろしいところでもあるのさ」
誰の受け入りでもない、普段から純粋に想っていることを、知り合って間もない少女に話すのは、案外気分が悪くなかった。
「考え方が違う不特定多数の人間を集めて集団生活をさせることで、社会に出るまでの勉強――思想の矯正をさせる。人を助けることと人を蹴落とすことの両方を同時に教えるシステムなんだよ。前者は運動会だとかで団結を養うし、後者は試験で振るい落とす。そう考えると理想的な矯正施設だと思わない?」
僕の話に河野ちゃんは頷いた。中学生に話す内容だと思わないけど、理解はしてくれるらしい。
「じゃあ勉強させることが目的じゃないのね? 集団生活をさせることで社会に適応させることが目標なの?」
「そうだね。考えてみてよ。勉強なんて集団じゃなくて個人でやらせたほうが効率が良いでしょ」
「それはどうして?」
「だって理解度が人によって違うじゃない。個人だったら教え方や内容を変えて勉強させることは可能だけど、集団は同じ内容を優れている者と劣っている者に教えなければいけない。ムラが出てくるのは当然だよ。非効率極まりない」
「でも個人で教えたら、その人がどのくらい理解できているか、分からないと思うけど」
「試験のときは集団でやればいいのさ。もしくは全国模試のようにデータだけ送ってしまえばそれで済むんだ」
僕の言葉を咀嚼してから河野ちゃんは飲み込んだ。
「じゃあ別に勉強のために学校があるわけじゃないのね」
「そのとおり。学校は学力や能力を鍛えるための教育機関ではないんだよ。最初に述べたとおり、思想と道徳と倫理を矯正するための施設なんだよ」
そこで僕は河野ちゃんに質問した。
「河野ちゃんは学校は何のためにあると思う?」
この質問に河野ちゃんはしばらく黙ってしまった。
世界は夕暮れから漆黒の闇に包まれようとしてる。もうあまり時間がなかった。
「私は、誰かの期待に応えるためにあるんだと思うの」
ようやく考えがまとまったのか、河野ちゃんは話し始める。
「偏差値が高い高校や大学に入って、お父さんやお母さんの期待に応えること。そのために優等生や劣等生がそれぞれ入る学校を造っているんだと思うの」
なるほど。学校のブランドに注目したんだ。何だか女性的で僕の考えよりもシンプルで分かりやすかった。
「でも誰かの期待に応えるためあるのだとしたら、自分の希望はどうなるんだい?」
別に深く切り込むつもりはなかったけど、疑問に思ったので訊ねてみた。
「うん。自分自身の期待に応えるためってこともあるかもしれないわ」
河野ちゃんはそこで沈み行く夕日を見つめた。僕もつられて夕日を見つめた。
「自分がどれくらいの実力を備えているのか。自分の夢に近づけているのか、その確認のためにレベルの高い学校に入るのかもしれないわ。だから名門大学が存在するの」
誰かの期待に応えようとして、それが結果的に自分の利益につながるってわけか。
「ねえ。田中くんは何のために勉強しているの?」
不意に河野ちゃんが訊ねた。
「何のために? どういう意味かな?」
「そのままの意味よ。将来の夢は何かあるのかな?」
僕はその質問に答えようと口を開くけど、答えられないことに気づいてしまう。
今まで自分の将来について真剣に考えたことはなかった。それは無気力とか面倒くさがりだとかのマイナスな感情からだと推測できるけど。
「……分からないよ」
僕は答えにならないことを呟いた。
「多分、義父さんと同じように医者になるんだと思ってた」
「お医者さん? それが田中くんの夢なの?」
「ううん。多分違う」
そこで、河野ちゃんははっきりと言った。
「田中くんは、自分がないの?」
そしてこうも言った。
「それで生きているって言えるの?」
その答えは、自分がないのと一緒で、見つからなかった。
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